2014年5月31日土曜日

二つの時間

 毎日普通に暮らしていると、一日はあっという間に終わります。子どものころは、もっと一日が長かったような気がするのに…。時間はずっと同じ速さで流れているはず。それなのに、なぜ、速く過ぎる時間とゆっくり過ぎる時間があるのでしょう?

 今回は、時間には二つの時間があるということを学びました。時計の時間と、心の時間です。

アリー塾長     :     さて、最初に確認しておくよ。この授業は、学校の授業とはちょっと違
                  うからね。この授業で一番大切なのは、考えることだからね。たくさん
                  疑問をもってね。

                  疑問は、「どうしてだろう?」「なぜなんだろう?」というのがいいよ。何
                  かを聞いて、何かを知ったら、「どうして?」「なぜ?」と考えてみてね。
                  何かを覚えることだけが勉強じゃないからね。

 今回こんな前置きをして授業を始めたのには理由があります。実は前回から時間についての勉強を始めたのですが、その時の質問が、「誰が時間を発明したのか?」、「いつ時計や暦ができたのか?」というような、特定の人や時代を尋ねるものが多かったからです。

 何かの発明者や、それが発明された時代を知ることはもちろん悪いことではありません。そのような知識も大切です。ですが、ここでは、「どうして?」「なぜ?」という理由を問うような質問をしてほしかったのです。

 どうして人間が時間の概念を必要として、時間というものの存在を認めるようになったのか。そのためにどのようなことがおこったのか。時間と人間の関係はうまくいっているのか、いないのか。
考えられることはたくさんあります。

アリー塾長     :     時計の時間はいつも同じ速さで進んでいるはずなのに、時間がゆっく    
                  り過ぎているように感じるときと、速く過ぎているように感じるときとが
                  あるみたいだね。

                  どんなときに、時間がゆっくり過ぎているように感じる?

男の子        :     学校の授業。算数とか…。

女の子        :     短く感じるときもあるよ!体育とか、音楽とか、理科とか!

男の子        :     そうだ!速いときもある!体育とか!

アリー塾長     :      どうして時間が進むのが速く感じるときと遅く感じるときがあるんだと
                   思う?

男の子        :     退屈なときに遅く感じる。授業中、時計ばっかり気にしてる。早く終わ
                  らないかなって思ってる。だから時間が長く感じる。

女の子        :     速く感じるのは楽しいとき。体育とか。
  
          

アリー塾長     :     ○○ちゃん、体育好きなんだ。うらやましいな。

                  時間には、二つの時間があるという話をしたよね?時計の時間と心
                  の時間だったね?今二人が話してくれた時間は、どっちの時間だと思
                  う?

男の子・女の子   :     心の時間。
                     
                  

アリー塾長      :    そうだね。退屈とか、楽しいとかいうのは、気持ちだよね?みんなの
                  心から出てきたものだよね?その気持ちが、時間の感じ方を変える
                  んだね。だから、心の時間って言うんだね。


* アリー塾長の一言

 対話を終え、作文を書いてもらって、「はい、今日はここまで!お疲れ様でした。」と言ったら、男の子が、「えっ!?もう7時?」と言いました。(授業は5時から7時までです。)その時、時刻は6時50分でした。実は、次の日が運動会だったので、少し早めに終了することになっていたのです。

 「明日、運動会だから、少し早めに終わりにすることになっていたんだよ。」と私が説明すると、「誰が言ったの?」と男の子は食い下がります。もしかして、私の授業、○○くんの心の時間で計ると早く終わった?

 だったらうれしいな。○○くん、今日はとっても集中していて、たくさん考え、たくさん話して、たくさん笑ったもんね。私の心の時間も速く過ぎたよ。

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2014年5月24日土曜日

奇蹟とフィクション

 ビデオで、映画「フィールド・オブ・ドリームス」を観ました。「フィールド・オブ・ドリームス」は1989年のアメリカ映画で、封切当時とても評判がよく、私も観て感動した記憶があります。今回は、実に四半世紀ぶりの鑑賞ということになります。

 映画のあらすじはこうです。36才の妻子ある農場主(ケビン・コスナー)が、ある日自分の畑の中で不思議な声を聞き、その声に導かれて、トウモロコシ畑の一部をつぶして野球場を作ります。するとそこに、マイナーリーグの選手だった彼の父親にとってのヒーロー選手、”シューレス・ジョー”が現れます。

 周囲からは変人扱いされ、お金のやりくりに苦労しながら、夢のかなう場所に集まってくるかつての野球選手たち(これみんな幽霊です)のために、球場を守ろうとする主人公。そんな日々の最後に、仲たがいしたまま死に別れてしまった、ユニフォーム姿の若き日の彼の父親が現れます。

 不思議な声、「それを作れば彼がやってくる」の「彼」とは、主人公の父親のことだったのです。主人公は父と、暗くなった野球場で灯りに照らされ、何十年ぶりかでキャッチボールをします。シューレス・ジョーは、「不思議な声は、自分の声だったんだよ」、と主人公に告げます。

 「それ(野球場)を作れば彼がやってくる」、と信じることができれば奇蹟は起こる__と、映画は言っています。映画はすばらしい!奇蹟は起こる!信じるところに奇蹟は起こる!でも、それは映画です。現実に奇蹟なんて起こるんでしょうか?

 実は私は、奇蹟を簡単に信じることができるんです。奇蹟!いつでもどこでも、たくさん起こっています!本当に、信じられないことが、でも、現実に起こっているのです。なんのことかと言うと、私が長年親しんできた文芸作品などの芸術のことです。

 すぐれた小説などの芸術作品に触れたとき、どうしてこんなことが書けるんだろうと、何度びっくりしたことでしょう。今回取り上げた映画も同様です。「フィールド・オブ・ドリームス」は”奇蹟”を描いていましたが、「フィールド・オブ・ドリームス」の映画自体が奇蹟なのではないでしょうか?

 奇蹟は、人智を超えた力の存在を感じさせます。すぐれた芸術作品は、フィクションの形で、常に私に奇蹟と不思議な力の存在を信じさせてくれるのです。そしてフィクションとは、事実をあらわすものではないけれど、真理をあらわすものです。物事と人間の普遍性がそこには描かれるのです。

 普遍的な人間の姿は心を打ちます。「フィールド・オブ・ドリームス」の、純粋に夢を追うこと、そして夢の実現という奇蹟を信じる人間の姿に、私は深く感動しました。

*フィクションの普遍性について

 「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。」
 
                               (アリストテレース著、『詩学』、第九章)

 『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』、松本仁助・岡道男訳、岩波書店。
 

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2014年5月20日火曜日

言葉のちから

 私は、日本文学研究を中心に、長い間、「言葉」というものに意識的にかかわってきました。「言葉」というものについて、その本質から問うような議論にも常々目配りをしてきたわけです。ですから、時々、「言葉」についての考え方の最前線に近づいてしまったりします。

 「言葉」についてわかっていることにはいろいろあります。その中に、私をがっかりさせたことがあります。それは、厳密に言うと、「言葉はけっしてそのままの現実を言い表すことができない」ということです。そんなことはあたりまえだろう?と思われるかもしれません。たとえば、深い悲しみや大きな喜びなどの私たちの感情は、とても「言葉」で言い尽くされるものではないからです。

 このように私たちは、それぞれの経験から、「言葉」には限界があることを知っています。しかもそればかりでなく、そのうえでさらに、「言葉」について考え、勉強していくと、「言葉」のできることはまったく限定的で、できないことのほうがむしろ多いということがいよいよ明らかになっていくのです。

 けれども、すべてのものに光と影があるように、「言葉」にも光の部分があるはずです。私は「言葉」が大好きです。それは「言葉」にはまた、とてつもない魅力があるからに違いありません。

 「言葉」についての絶望的な側面ばかりを強調する本を読んでいて、なんだか暗い気分になっていたら、偶然よいテレビ番組に出会いました。その番組は、高度な専門性をきわめた職業人を紹介する番組で、その回は、それぞれの専門家たちを成功へと導いた「言葉」の特集をしていたのです。

 これだ!と思いました。「言葉」は導きの光です。よりよい今を生きるために、よりよい未来をつくるために、私たちはよい「言葉」を大事にしなければならないのではないでしょうか?

 番組の登場人物の一人を導いた「言葉」は、「気づきが、大切だよ」だったそうです。「気づき」、私も実感します。「気づき」は本当に大切です。気づくことによって、すべてのものの見方が変わります。世界が一変してしまうのです。見方が変われば行動が変わります。生き方が変わります。

 よい「言葉」はかならず、よい未来へと導いてくれます。よい「言葉」はきっと、私たちを幸福へと導いてくれます。「言葉」は無力ではありません。「言葉」には絶大な力があります。


* 言葉について、興味深い考察が展開されている参考書を以下にあげます。

   『応答する呼びかけ』、湯浅博雄著、未來社、。
 
   『仮面の解釈学』、坂部恵著、東京大学出版会。

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2014年5月8日木曜日

発見!

国語の問題集や試験で取り上げられる問題文には、植物について書かれたものが時々あります。科学的な文章の読解が課題なのです。それぞれの問題文は、いずれも植物学の専門家によって書かれたものの抜粋で、そこだけ読んでもとてもおもしろいよい文章です。

 先日私は、そのような問題文の一つに、とても興味を惹かれました。その文章によると、どんなに都市化が進んでいる地域でも、雑草に代表される自然は、そこここで見ることができるということでした。その真偽を確かめるには、この季節がぴったりです。私は買い物に行く途中、都市の中の自然を発見するべく、観察してみることに決めました。

 すると、本当にありました!その観察の結果が上の写真です。タンポポ、オオイヌノフグリ、ネコジャラシ、スミレ、それにヨモギまでありました。摘み草をして、草だんごだってできます。

 私の住んでいるところは繁華な商業地域で、アスファルトとコンクリートでできたものが大半です。私もコンクリートでできた建物に、もう十二年も住んでいるのです。そんなところで、さまざまな植物が自生しているのを発見したのです。

 草花はけなげに、また大変たくましく生きています。歩道のブロックと駐車場のアスファルトの継ぎ目のところには、タンポポが生えています。道路のアスファルトと、民家のブロック塀の接しているところにできたすき間に、スミレが咲いています。街路樹の植わった小さな地面には、ネコジャラシが生えています。

 そして私は、ここで二つ目の発見をしました。それは、こんな発見をするということについての発見です。

 私は、この地域に住んでもう十二年になります。ところが、かつて一度でも、今回発見したような身の回りの自然に気が付いたことがなかったのです。十二年もの間、何度もとおっている歩道と駐車場の間に咲いていたタンポポに気が付かなかったのです。

 このことは私に、重要なことを気付かせてくれました。それは、「ないと思っているものを発見することはできない」ということです。今回タンポポを発見できたのは、「あるかもしれない」と思ったからです。

 この二つ目の発見は、すべてのことに言えるのではないでしょうか?ないと思っているものは、そこにあっても見えない。ないと思っているものは、その人にとって文字通り、ないも同然。ないと思っているものは、ないのです。

 すべてのものが生き生きとする春から初夏は、私のもっとも好きな季節です。この季節だから今回のような発見があったんだなあ、では、冬には何も見つからないのかなあ、などとさみしく感じながらまた思い出したことがありました。

 もう一昨年のことになりますが、ここに住んで十一年目にして、自宅のベランダからオリオン座が見えることに気付いたのです。全天でもっとも明るい恒星のシリウスも見えました。この辺りは夜でも明かりがこうこうとしているため、星なんて見えないと思っていたのですが、空気の澄み切った真冬には、見える星もあったのです。

 見えないと思っているものは見えない、ないと思っているものはない。ないと思っているからない、あると思っているからある、これは真理です。ですから、あるかもしれないと思うと発見が、できるかもしれないと思うと成功があるのではないでしょうか?ある、と思うことは、想像以上に大事なことなのかもしれません。

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