2015年11月14日土曜日

何のために勉強するの?

* 小学5年生のYくんが、「何のために勉強するのかがわからない」と言いました。

  
 Yくんは来年中学受験をすることになりました。それでも、「勉強する目的がわからない」と言います。「だって、試験に合格して、今の友達と別れてその学校に入ったら、いじめられちゃうかもしれないじゃない?」とYくんは言います。

 中学合格の先にまず、「いじめ被害」というネガティブな未来を想像するYくんは少し心配性です。でも、確かに言われてみれば、たとえ試験に合格して志望校に入れたとしても、その先の輝かしい未来までもが確約されているというわけではありません。

 そう言えば、せっかく第一志望の難関校に合格したのに、受験勉強で燃え尽きてしまって、入学してから勉強についていけなくなったという人の話を聞いたことがあります。それから、これは大人の話ですが、いわゆる超難関校を卒業して社会的に尊敬される職業についている人たちでも、必ずしも幸せそうにくらしてはいないという例がたくさんあります。

 Yくんの言うように、勉強して「いい学校」に入ったとしても、幸せになれるという保証はないのです。ですが、だからと言って、勉強はしなくてもよいのでしょうか。

 「勉強には二種類あるって考えればいいんじゃないかな?」とっさのことで、私はこのように答えるのがせいいっぱいでした。「試験に合格するための勉強と、生きるための勉強。受験のための勉強と、自分の人生をよりよく生きるための勉強、幸せになるための勉強だよ。」

 「まず、勉強はしたほうがいいと思うよ。だって、ものを知らないと、人を傷つけてしまうことがあるからね。知識がないと、やってはいけないことをやってしまうことがあるんだよ。」私は以前にも書いた、ゴリラの悲劇を思い出していました。ゴリラは凶暴な生きものだという誤った考えが、ゴリラを絶滅の危機に陥らせたという「無知の罪」の話です。

 「普通の塾でやっているのは試験に合格するための勉強だよね。でも、私はここでは、みんなと、よりよく生きるための勉強もしたいと思ってるよ。みんなで幸せに生きるためには、まずたくさんのことを知らないといけない。それから、どうしたら幸せな生き方ができるかと考えないといけない。それの全部が勉強なんだよ。」

 私の話にYくんが納得してくれたかどうかはわかりません。ですが、その日の授業には以前よりも真剣に取り組もうとしてくれていたように感じました。

 さて、あらためて「何のために勉強するのか?」と質問されたら、私はもう一つの答えを提示したいと思います。Yくんに質問されたときにも少し触れたのですが、深く掘り下げて考える余裕はありませんでした。ですが、もう一度考えてみると、この答えがもっともふさわしいように思えます。その答えとは、「おもしろいから」です。

 ありがたいことに、私のところで勉強している生徒たちは、授業の後、「楽しかった!」と言ってくれているようです。時々お母さま方からそのようなご報告をいただきます。私自身は正直に言うと、小中学生だったころ、塾に行っても習い事をしても、楽しかったと思った記憶がないので、どうして生徒たちが「楽しかった!」と言ってくれるのか不思議でした。

 ですが、わかりました。気づきました。どうしてみんなが私と勉強して、「楽しい!」と思ってくれるのか。それは、私自身が、「勉強は楽しい!」と思っているからです。

 私は文章を読むのが好きです。本を読むのが大好きです。おもしろそうな本を手にしたとき、どんなことが書いてあるかとワクワクします。読んでみて、「我が意を得たり!」ということが書かれていると、本当にうれしくなります。本を読んで、内容を理解して、「ああ、そうだったのか!」と思うことも幸せです。書かれていることについて、応用して自分なりに考えてみるのもとても楽しいです。

 私は生徒たちと一緒に勉強して、自分も楽しんでいるということに気がつきました。一緒に文章を読んで、「おもしろいなあ!」と心から思っていることに気がつきました。それぞれのテーマに対して子どもたちはさまざまな反応をしてくれます。その答えがまた感動的で、ますます私は授業が楽しくなります。

 大人がおもしろそうにしていることには子どもも興味をもってくれます。大人が楽しそうにしていることは、子どももやってみたくなります。子どもに何かをしてほしければ、まず大人がそれを楽しそうにやって見せることではないでしょうか。そして一緒にやってみたら、やっぱり「楽しい!」ということになるのです。これは勉強だけにかぎったことではありません。

 Yくんに勉強する理由を尋ねられて、私は二つ目の理由として、「よりよく生きるため、幸せに生きるため」、と答えました。「幸せに生きる」とは、憂いなく、毎日楽しく生きるということですが、これもまた、大人が手本を示すとよいのかもしれません。大人がまず、毎日を心から幸せに楽しく生きていれば、子どももそれを見て、そこから学んで、幸せな一生を送ることができるようになるのではないでしょうか。

 エーリッヒ・フロムは、「母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない」*と言っています。幸福な母親は人生を愛しています。人生を愛する幸福な親を見て、子どもは生きることを肯定し、自分を信じ、他人を信じることのできる幸福な人になることができるのです。

 私は教育者も「幸福な人間」でなければならないのではないかと思っています。「幸福な人間」は、人生や世界や、あらゆるものを愛し、肯定しています。否定からは何も生まれないことを知っているのです。幸福な教育者なら、「何のために勉強するの?」と聞かれて、「おもしろいからだよ。」と答えるのではないでしょうか。

 「何のために勉強するの?」という疑問は、いずれ「何のために生きるの?」という疑問につながるかもしれません。「何のために生きるの?」と質問されたら、「おもしろいからだよ。」と答えたいものです。

 私は言葉を愛しています。読むこと、話すこと、そして書くこと、すべて好きです。言葉とともにある私の幸福が、生徒たちの「楽しい!」につながっているのだとしたら、それこそ、これほど幸福なことはほかにありません。

* エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』、紀伊国屋書店、1991年3月。

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