2015年12月31日木曜日

読むことと生きること

* 中学3年生のKくんが、 課題の文章の中に出てきた「イチゴの旬」がいつなのかわからないと言いました。

 Kくんは、すなおで真面目で明るいすばらしい中学生です。その年頃の中学生がしているような経験も十分にしていて、特別ものを知らないというタイプではまったくありません。

 Kくんは私に、「イチゴの旬って、冬ですか?」と聞きました。「ああ、イチゴと言えばケーキの飾りだからねえ。クリスマスのころにたくさん出回るよねえ。」と私は言いました。「でもね、今頃のイチゴは、ハウスの中で石油を燃やしてあったかく、あったかくして育てられるものなんだよ。」今は冬です。ですが、すでにイチゴは店頭にたくさん並んでいます。

 課題の文章には、今どきの子どもは、イチゴの旬がいつなのかがわからなくなっているから、『シンデレラ』のお話の中で、真冬にシンデレラに「外へ出ていって、イチゴを摘んでおいで。」と言う継母の意地悪の意味がわからないと書いてありました。

 「ぼくもわかりません。」とKくんは言いました。「そうねえ、しかたがないかもね。イチゴは一年中あるものね。Kくんのせいじゃあないよね。私の友達も昔、一月にイチゴを食べて、『今がイチゴの旬だよね。』と言っていたことがあるよ。」と私は答えました。

 私の友人の例でもわかるように、野菜や果物の旬を知らないのは、Kくんの世代以降ばかりではなく、すでに大人になって久しい人たちも同様なのです。たまたま私は地方に育って、自宅に畑があったから、祖母の植えたイチゴが春から初夏にかけて実ることを知っていたにすぎないのです。

 課題の文章は、「イチゴの旬」を知らないと、『シンデレラ』の継母の意地悪の意味を理解できないという例をあげて、人々の「伝え合い」が時や場所や状況を失ったものになりつつあると懸念しています。Kくんは、「イチゴの旬」もわからなければ、課題の文章の主張の意味もわからないと言っていました。この文章とKくんとの「伝え合い」は、「伝え合い」自体に失敗したのです。

 それでは、「伝え合い」が時や場所や状況を失うとはどういうことなのでしょうか。

 時や場所や状況を言い換えると、「今、ここに生きている」ということになるのではないでしょうか。現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きています。

 私たちは快適に生きるために、科学技術を駆使して、自然から身を守ったり、その一部を利用したり、改変したりして暮らしています。おかげで私たちの暮らしは豊かになり、今では一年中イチゴを食べることもできます。

 ですが、その結果、私たちは自然の本来の姿を見えにくくしてしまいました。イチゴは冬に実るものだと思い込むようになってしまったのです。

 現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きていると言いましたが、「イチゴの旬」と同様に、私たちは自分自身の中の自然のこともわからなくなっているかもしれません。たとえば、私たちの体は自然そのものですが、体の声に耳を傾けず、ついつい無理をしてしまう人は多いのではないでしょうか。

 おそらく、それもこれも、私たちが「今、ここに生きている」という感覚をなくしつつあることから起こることなのではないかと思います。課題の文章が懸念するように、現代の情報のあらゆる文脈が時や場所や状況を失いつつあるというのは事実です。ですが、本来の自然の姿を知っていれば、また「今、こここに生きている」という自覚があれば、それらの情報の背後に、まさに生きた情報を
見出すことができるのではないでしょうか。

 「伝え合い」がやり取りするのは情報です。もともと情報は、私たちが生きるうえで必要だからやり取りされていたはずのものです。ですから課題の文章をはじめ、世に出回る多くの文章は、私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと問いかけています。私たちはどうしたらよく生きられるのかを考えたうえで、問題提起がなされたり、提案がなされたりしているのです。

 このように、文章を読むということは、生きること、しかもよりよく生きるというテーマと結びついています。文章を読むと、倫理的問題に踏み込まざるをえません。良い、悪いという価値判断を離れて、文章を読むことはできないのです。

 もちろん、文章を読むときは、筆者の意見を公平に客観的に読み取らなければなりません。ですが、論者の意見に賛成、または反対というのは、当然あってしかるべき反応なのです。

 いわゆる入学試験をはじめとする学校で課せられる文章の読み取りは、あくまでもニュートラルな立場で、文章の中で述べられていることを読み取ることが課題です。ですが、一方で私は、その文章に賛成したり反対したりしながら読んでもよいのではないかと思っています。課題の文章を、まず正確に読み取ったなら、その文章に対して批判的になってもよいのではないかと考えています。

 文章を批判的に読むことによって、よりよく生きるというテーマについての自分の考えがまとまっていきます。読んだ文章の意見を参照することによって、自分の意見が明確になります。どう考え、どう生きるのが自分にとってよいことなのか、読書をすればするほどよく見えてくるようになるのです。

 そのような読書は「おもしろい」ものとなります。すべての人にとって、自分がよりよく生きること、これ以上に興味深いテーマはありません。それは、大人だけではなく、子どもにとっても同じであると私は考えています。

 とかく勉強としての国語は、点さえ取れて、学校に入れさえすればよいということになりがちです。ですから、「とにかく、表面的にであっても、読み取れるテクニックを教えてください。」と言われることがあります。ですが、Kくんの例でもわかるように、現実に自分が生きていることと結びつけて考えないと、文章が何を言っているのかさっぱりわからないということになるのです。

 実は、文章を読むことを「おもしろい」と言えるようになった生徒は、国語の成績も上がりました。以前はどうしても国語の点数が伸びないと言っていた子どもたちです。私はそのような生徒たちには、技術的な読解の方法だけでなく、文章を読むことが生きることとつながるということを暗に教えたつもりです。

 結局は急がば回れなのではないでしょうか。深く本質的なことを知ったら、いろいろなことがわかるようになります。いろいろなことがわかったら、結果として成績も上がるのではないかということです。

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