2014年7月28日月曜日

寛容(tolerance)と寛容(generosity)

 先日は、教養を身に着けることが寛容さを育てるということを書きましたが、「寛容」という言葉について、そのとき思い出したことがあります。英語には、日本語で「寛容な」と訳される言葉が二つあるということです。tolerantとgenerousです。

 もともと英語には、ゲルマン語から来た言葉とラテン語から来た言葉とがあり、同じような意味を持つ二つの言葉が何組も存在します。torelantとgenerousもそのような言葉で、どうやらgenerousのほうがラテン語由来のようです。

 私がtolerantとgenerousの違いについて考えることになったのは、英会話を習っていたときのことです。当時の私の先生は、大学を卒業したばかりの若い黒人の女性で、メジャー(専攻)が何であったかは忘れてしまいましたが、マイナー(副専攻)が文化人類学で、日本文化を学んだということでした。

 先生は、黒人であり、女性でもあったので、差別意識ということに敏感だったのかもしれません。私との会話の中でも、ときどき差別についての話題が出ました。たとえば、「黒人の場合、スポーツやエンターテインメントのカテゴリーの中で話題にされ尊敬されても、決してintelligentと言われることはない。」などと言っていたのです。

 そんな先生と、あるとき、このtolerantとgenerousの違いについて話し合うことになりました。先生は、tolerantのほうが使われる状況として、こんな例をあげました。「レストランで、白人の紳士が一人で食事をしているところに、黒人が来て近くに座る。白人の紳士は「ちょっと嫌だな」と思ったけれども、そんなそぶりは見せずに、普通に食事を続ける。そんなときに使うのがtolerantよ。」

 その白人の紳士は、私のようなアジア人が行っても、同じようにtolerantな態度をとるんだろうな、と思ったら、少し複雑な気分になりましたが、なるほど、toleranceとは、相手のために、本音を隠して我慢して見せる寛容さなんだなと合点がいきました。そういえばtoleranceを辞書で引くと、「我慢」という訳語も出ています。

 では、generousはどうなんでしょう?英語の先生は、「無理しなくても受け容れられることよ!」と明快でした。本当は嫌だけどそれを態度に表わさないのではなく、そもそも嫌だとも思わないのがgenerousのようです。

 「じゃあ、イエス・キリストはどっち?tolerant?それともgenerous?」私は聞きました。「もちろん、generousよ!キリストはtolerantになる必要なんてないわ!」先生の答えは多くのことを暗示しています。キリストがgenerousなら、愛するということがgenerousの基本にはあるということだからです。

 教養は、toleranceという意味での寛容さを身に着けるためには有効です。知識は、あらゆる立場の人たちのことを理解させ、その人たちを嫌悪することにはまったく正当性がないことを教えてくれます。しかし一方で、知識や教養、そして理性というものは、私たちのもつ感情というものを置き去りにします。

 そう考えると、教養を身に着けてtolerantになるだけではなく、いずれは心からの寛容=generosityを目指したいと思うのも必然です。少しずつでも、無条件で受け容れる、無条件で愛するということができるようになっていきたいものです。

* tolerant(形容詞)寛容な ・ tolerance(名詞)寛容
 

  generous(形容詞)寛容な ・ generosity(名詞)寛容

  intelligent(形容詞)知的な

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2014年7月16日水曜日

教養と寛容

 本格的な夏が始まりました。暑くて大変ではありますが、夏から大きなエネルギーをもらって、何かができそうな、何かがおこりそうな、そんなワクワクする季節でもあります。夏と言えば旅行!私にもたくさんの旅行の思い出があります。

 旅には過去も未来もありません。旅行者は、旅先のその土地に過去をもちませんし、またその土地に未来も予定されていません。旅は、純粋に、「今、ここ」を生きる経験なのです。だからこそ、旅は自由で楽しい!過去にとらわれることもなく、未来を憂える必要もないのです。

 ところが、私は、旅が自分以外の人たちの過去に影響されてしまうということを経験したことがあります。

 ずいぶん前のことになりますが、春先のオランダを旅行しました。連れと二人だけでまわる、いわゆる個人旅行だったので、現地で見つけたツアーの観光バスに乗って、キューケンホフ公園にチューリップを見に行きました。そのときのことです。

 バスに東洋人は私たち二人だけでした。すると、観光バスのガイドが、私たちを終始無視するのです。ガイドは、おそらく当時60歳は超えていたと思われる年配の男性で、英語、ドイツ語、フランス語をたくみにあやつり、乗客を巻き込んで冗談を言いながらガイドをするのですが、私たちとは目も合わせません。

 とても不愉快かつ悲しい気分で帰国し、私は、通っていた大学院の文化人類学の先生に質問してみました。「旅先のオランダで嫌な思いをしたのですが、オランダ人は日本人が嫌いなのですか?」先生は、「第二次世界大戦のときに、オランダ領だったインドネシアを占領しましたからねえ。日本人を嫌いなオランダ人はいるでしょう。」とお答えになりました。

 「こう言ってはなんですが、そのとき、そのガイドがさかんに話しかけていた乗客の女性たちは、あんまり教養がなさそうで、品のいい感じではなかったんですよ。」と私が言うと、「そりゃそうですよ。教養というのはそういうものなんですから。教養というのは、そういう偏見をなくすために身につけるものなんです。」と先生はおっしゃいました。

 大学院と名の付くところに在籍していながら、「教養」ということについて、あらためて考えたこともなかったのですが、なるほど、そうだったのですね。このときの先生のお言葉は深く心に刻まれ、長く私を導き続けてくれました。

 オランダ人バスガイドの態度は、単なる人種差別だった可能性もあります。ですが、いずれにしても、ある種の偏見が彼にそのような態度をとらせたのです。彼はきわめて主観的な感情を、そのまま態度にしてあらわしてしまっていたのです。残念ながら、それを知性的な態度と言うことはできません。

 教養とは、社会のさまざまなことを理性で理解することによって、主観的な感情や感覚を留保するために身につけるものです。異なった人、異なった文化に接する際に偏見をもたないためには、相手のことについて正しく理解する努力をしなければなりません。教養は寛容を生みます。寛容は他者との共存のために、なによりも大切な心がけです。

* 「教養」について教えてくださった先生は、当時、文化人類学の第一人者でいらっしゃった綾部恒雄先生です。残念ながらすでにお亡くなりになりましたが、先生の著書を読むことはできます。今考えると、先生のお答えは、いかにも文化人類学者らしいものです。異文化理解のための本として、参考書を一冊以下にあげます。

『文化人類学の名著50』、綾部恒雄編、株式会社平凡社、1994年4月。

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2014年7月9日水曜日

合図

 「合図」について学びました。

 合図というのは、言葉で言うのとは別の方法で、だれかに何かを伝えるためにするものです。信号も、救急車のサイレンも、だれかに手を振るのも、呼び鈴を鳴らすのも、みんな合図です。唇に指をあててシーッと言うのも、耳の聞こえない人や声の出ない人が、手を使って話す手話も合図です。すべての合図が意味をもっています。

アリー塾長     :     みんなのまわりにもいろんな合図があるよねえ。どんなのがある?

女の子        :     パン屋さんに行ってドアを開けると、チリンチリンってベルが鳴る。

アリー塾長     :     ああ、あの新しくできたパン屋さん?
                  ベルが鳴って、何を知らせているんだと思う?

女の子        :     うーん?

アリー塾長     :     ベルが鳴ると、だれかが来たことがわかるよね?ベルが、「お客さん
                  が来ましたよ!」って知らせてるんだよ。
                  (女の子がうなずきます。)

男の子        :     夕方になると「夕焼けチャイム」が鳴る。(夕方になると、「夕焼け小焼
                  け」のメロディが流れてくる、あれです。)

アリー塾長     :     ああ、それは、「もう夕方だから、おうちに早く帰りなさい。」って言って
                  るんだよねえ。みんなは「夕焼けチャイム」でおうちに帰るのかな?

女の子        :     チャイムが鳴る前に帰る。

アリー塾長     :     そう?「夕焼けチャイム」は○○ちゃんの帰る時間より遅い時間に鳴る
                  んだね。

男の子        :     ぼくもチャイムより早く帰る。

アリー塾長     :     そう。

女の子        :     「夕焼けチャイム」は、夏と冬で違う時間に鳴るよ。

アリー塾長     :      夏と冬だと、昼間の時間の長さが違うからね。ほかにも合図はない
                   かな?

女の子        :     この間、学校で、Eちゃんと暗号で話した。

アリー塾長     :      暗号!暗号も合図だねえ!楽しかった?

女の子        :     楽しかった!だって、暗号は二人だけにしかわからないから。

男の子        :     ぼくは、この間野球をしたときに、サインを考えた。サインをだして、
                  野球をやった。

アリー塾長     :     いいねえ、サインはやっぱり合図だねえ。サイン、うまくいった?

男の子        :     うまくいった!


* 合図についての二人の作文は、暗号とサインの成功について書かれていました。

女の子の作文からの抜粋です。

 あいずとは、言葉で伝えるかわりにやるものです。暗号は、二人にしか分からないルールを作って意味をつたえあうことです。

 わたしは、この前友だちと、暗号でものをつたえあいました。おもしろかったです。

 みんな(ほかの人)が見ても分からないから、自分たちだけの言葉みたいで楽しくて、少しうれしかったです。

男の子の作文の一部です。

野球をした日、ぼくはキャッチャーだったので、サインを考えました。グーがストライクゾーンに入れるで、三本目までの指を広げるとスローボールで、二本目までの指を広げて三本目の指を少しまげるのはもっと速くでした。バッターの子は三しんになりました。
 ぼくはサインをつける(送る?)のは楽しいなと思いました。こんどはもっと多くのサインを作りたいです。


* 男の子は、それぞれのサインの手の形を絵に描いてくれました。

* アリー塾長の一言

 
 
 女の子の言っていた暗号は、合図とも言えるし、記号の一種とも言えるでしょう。暗号の魅力は、女の子が言っていたように、それを解読できる仲間だけにしかわからないというところです。秘密は私たちを、なんだかドキドキわくわくさせてくれます。

 合図は、言葉とは別の方法で、その時々に何かの意味を伝える手段です。合図は言葉と同様に、さまざまな形でこの世界に満ちています。知らせたいことがたくさんあるのです。

 世界には、合図、記号、言葉、そのほかにもたくさんの意味をもったものがあります。読み取ってもらいたがっている意味があふれているということです。それらの意味を解読していくことも、けっこう楽しい作業なのではないでしょうか?

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