2018年7月4日水曜日

ウソをつく子どもたち

 意外と言うべきか、当然と言うべきか、子どもたちの中には、ウソをつく子どもも存在します。もちろん、大人も含めて、ウソをついたことのない人などいないだろうし、罪のないちょっとしたウソをついて、バレなかったなどという経験はだれもがしているでしょう。

 ですが、ここで気になるのは、相手を見て態度を変え、だませそうな相手だったら、ウソをついてでも得をしようとする大人顔負けの子どもの策士がいるということです。

 ウソと言えば、以前こんなことがありました。衣替えの季節に、前の年にクリーニングに出したニットのパーカーを衣装ケースから出し、ハンガーにかけようとして、フードのひもの先に付いていた筒状になった金属の付属品が一つないことに気づきました。フードのひもの金属は左右に付いていたはずです。それが片方ないのです。

 パーカーがクリーニングからかえってきたときには、私はそのことに気づきませんでした。気づかずに、そのままケースに入れてしまったのです。どうして気づかなかったのか。それは、気づかれないように工夫されていたからだと思わないわけにはいきません。パーカーは、きちんと上までファスナーがあげられていたうえ、ひもがリボン結びにされていたのです。それでは一見して付属品がとれているとは気づきません。

 クリーニングの営業担当の方はとても誠実な方で、パーカーの件についても、丁寧に対応してくださいました。こちらが申し訳なく思うほど、懸命に対処していただきました。けれども、営業の方が真面目な方であればあるほど、どうして工場のほうではこんなごまかしをするのだろうと思いました。第一、隠したとしても、いずれバレてしまうのです。そのときは逃れることができても、最後は責任をとらなくてはならなくなります。

 クリーニング工場は確かに、付属品をなくしたことを隠したと思われます。パーカーのひもをリボン結びにした際に、付属品がとれていることに気づくはずだからです。ではなぜ工場の担当者は、そのことを隠してそのまま出荷したのでしょう。

 お互いに顔が見えないとしても、業者と客の間にもコミュニケーションが成立しています。業者と客は、お互いにコミュニケーションの相手なのです。双方の考えや行動には、お互いのあり方が影響しあっているはずです。つまり、客がこうだから業者もこう、客がそうだから業者もそう、というように、客の態度に応じて業者の反応も違うのではないかということなのです。

 「お客様は神様です」などという言葉があるように、とかく客は業者に対して厳しくなりがちです。「お金を出すのだからそれに見合ったサービスを受けるのはあたりまえ、失敗なんて許さない!」という人も多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、そのクリーニング業者も客のクレームが怖かったのではないでしょうか。容赦のない客からのクレームにさらされ続け、たとえ一時逃れにしかならなくても、とにかく失敗は隠すというやり方になってしまったのかもしれません。客が業者に対してもう少し寛大であったら、業者も失敗を隠すことなく、正直に申し出てくれるのではないかと思うのです。

 さて、ウソをつく子どもたちです。ウソをつく子どもたちのコミュニケーションの相手は大人たちです。子どもたちは大人たちとコミュニケーションするうちに、ウソをつくようになってしまったということはないでしょうか。

 クリーニングの例にもみるように、「できてあたりまえ、失敗なんて許さない!」という態度は、相手を委縮させるだけでなく、叱責から逃れるためのウソをつかせることにもなりかねません。失敗する子どもを受け入れず、叱責ばかりしていると、子どもは自分のことをダメだと思い、やる気をおこすこともなくなります。

 さらに、失敗することも含めて自分を受け入れてもらえることのない子どもは、人間関係を利害関係で見ることしかできなくなります。過程ではなく、結果がすべてになってしまい、失敗するか成功するか、うまくやるかやらないか、損をするか得をするか、そんなことにしか興味をもたなくなってしまうからです。人間関係を利害関係としてしかとらえられないと、他人とは利用するものという考え方になっていき、だれかと真の信頼関係を築くことができなくなります。

 子どもにウソをつかせないために、大人は寛大にならなければならないでしょう。子どもを甘やかしてはいけないという人がいますが、子どもに対して、寛大であることと甘いこととはもちろん違います。子どもに対して寛大であるというのは、寛大であることの意味と必要性を自覚し、子どもの可能性を信じて、成長の過程としてのその子の失敗を受け入れながら、根気強く見守るということです。

 子どもの失敗に対する大人の反応は、その子の将来の人間関係にまで影響をおよぼします。それは、その子が将来幸せになれるかなれないかということと同じ意味です。子どもが失敗したとき、大人はどう反応すればよいか、よくよく考えなければならないことだと思います。

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2018年3月4日日曜日

子どもの葛藤、もう一人の自分

 小学2年生のHくんが、「もう一人の自分」という題名の作文を書きました。

 Hくんが映画を観ていたときのことです。館内で赤ちゃんが泣きだし、「うるさいからやめてくれ」と思う自分が出てきたそうです。でも、映画が終わってしばらくしたら、「まあ、赤ちゃんだから許そう」というもう一人の自分が出てきたのだそうです。Hくんは、「ぼくは、かならず人は二人以上いるものだとわかりました。」と書いています。

 Hくんとよく話してみると、実はHくんの中には、二人どころか、ときには三十人くらいのHくんがいることがあるそうなのです。

 どんなときに三十人のHくんが現れるかというと、学校や家で、先生や親などの大人に、「こうしましょう」と指示されたときのようです。「こうしましょう」と言われると、「え、今?」、「やらないといけないのかな?」、「どうしてやらないといけないの?」、「やったほうがいいのかな?」、「めんどうだな」、「怒られたくないな」、「よし、やろう!」などと、三十人のHくんたちは、際限のない議論をするのだそうです。

 では、どんなときにHくんは一人でいられるのかと聞いてみました。すると、サッカーやボルダリングなど、自分が好きなことをしようと思ってするとき、という答えが返ってきました。

 「ぼくは、もう一人の自分にでてきてほしくありません。なぜならまよいたくないからです。でもまようからでてくるのですよね。」とHくんの作文は結ばれています。子どもといえども、葛藤と無縁ではありません。

 私は、葛藤自体は悪いことではないと思っています。葛藤とは、自分自身との対話であり、そうして自分と対話をかさねることによって、自分の考えをまとめていくことができるからです。自分自身との対話を通して、自分が本当に望んでいることや、自分が今すべきことがだんだんはっきりしていきます。自分との対話はおおいにしたほうがよいのです。

 問題は、何十人ものHくんが出てきてしまうときというのが、大人からの指示をうけたとき、ということです。やはり、私が「こうしてね。」と言っても、葛藤する子どもはいるということです。そして中には、指示通りにしてくれない子どももいるわけです。

 大人は基本的に、指示をするのはその子のためになるからだと信じています。ですから、「そうしなさい。」と指示します。ですが、指示というのはあくまでもその子の外側からくるものだから、子どもにとっては、その外側のものに無理にでも自分を合わせないといけないということになります。そこで子どもは葛藤するわけです。

 指示の内容にはもちろんいろいろありますが、もし、その内容が、その子がよりよく生きていくうえで大事なことであった場合、指示は決して命令になってはいけないのではないかと思います。自分の外側から来た命令に従わなければいけないと考えたら、いくらよいことであったとしても、抵抗したくなる気持ちがわいてくることもあるでしょう。

 それでは、「よいこと」をしてもらうためにはどうしたらよいのでしょう。それには結局、気づいてもらうしかないのではないでしょうか。それが「よいこと」であることをなんらかの仕方で伝え、気づいてもらう、その作業をくり返すしかないように思います。

 「よいこと」の重要性に気づいた子どもは、主体的にその「よいこと」に取り組みます。子どもが主体的に物事に取り組むようになれば、大人は楽になります。そのときどきに、「よいこと」の提案をするだけですむからです。

 残念ながら、子どもの中には、大人に何か言われたら、とにかくその場をやり過ごせばよいと考え、内容の重要性を理解しないまま、指示されたことをいいかげんにやるという癖がついている子もいます。そのような子は、大人からの叱責を避けるために、うわべをとりつくろったり、嘘をつくことさえあります。また、相手を見て態度を変えたりすることもあります。ですが、そんなことをするのは、もともとはその子の責任ではないのではないかとも思います。そのような子は、もしかすると、周囲の大人から指示され続けてうんざりし、自分の身を守るためにそのような処世術を編み出したのかもしれないのです。

 気づいてもらうために、具体的にどのようなことをしていけばよいのかということは、その都度、その子どもごとに考えるしかないでしょう。いずれにしても、大人は、なるべく外側から指示するだけにとどまらず、その「よいこと」がどうしてよいのか(前提として、その「よいこと」は、その子にとって、本当に「よいこと」でなければなりませんが)を子どもに理解してもらう努力を続け、いずれ子どもが主体的に「よいこと」をしてくれるように導く必要があるでしょう。そうすれば、子どもの頭の中で、三十人の議論が行われることもなくなるのではないかと思うのです。

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