* 各学校の国語の入試問題には、実は興味深い、よい文章がたくさん取り上げられています。生徒と一緒に問題演習をやっていると、課題の文章のおもしろさに、おもわず興奮してしまうことがあります。
中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。
わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの
であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
--これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
(中略)
ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。
「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。
「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」
「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」
「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」
「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。
人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。
もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。
しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。
世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。
考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。
「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。
Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。
最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。
http://www.ko-to-ha.com/
「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2015年4月18日土曜日
2015年4月4日土曜日
体験型授業「和菓子の試食」
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上は、「春の水」という銘のお菓子です。
右、お抹茶も飲んでみました。
* 和菓子の試食の体験型授業をおこないました。
以下は、参加した生徒の作文です。
「和菓子について」
和菓子のことを勉強して、和菓子を3回楽しむことや、季節ごとにちがう和菓子があることを知りました。
わたしは、和菓子を食べる前に、目で楽しんだり、耳で楽しんだりしてから口で楽しむ事を知って、今まで目や耳で楽しんでなかったから、目で、何に見えるか、耳でその和菓子の名前を聞いてイメージしてから口でゆっくり味わおうと思いました。
あと、季節ごとでちがう和菓子があったり、一月から十二月まででいろいろな和菓子があってすごいと思いました。
その中でいちばんきれいだと思った和菓子は、夏の氷みたいに見える和菓子です。理由は、とう明でとてもきれいだったり、その中に入っているお菓子の色あいがよかったりするところです。
秋のもみじに見える和菓子や、冬のゆきだるまみたいな形をしている和菓子や春のさくらの形でうすいピンク色になっているのもとてもきれいだと思いました。
ほかにも、食べた、こちょうというちょうに見える和菓子もきれいでした。あと、和菓子のことのテレビを見て、その和菓子を作っている人は、こまかい所もきれいにやっていてすごいと思いました。
氷に見える和菓子は、昔、夏に氷がなかったときにその和菓子を作って食べていたことを知って、和菓子はそんなふうにも食べたり、楽しめたりしてすごいと思いました。
わたしは、氷もいいと思ったけれど、和菓子で作った、氷みたいなお菓子も食べてみたいと思いました。
和菓子に、いろいろな楽しみ方があって、今度食べるときは目、耳、口で楽しみたいと思いました。それで、いろいろイメージしてみたいと思いました。和菓子に、日本の文化がたくさんあってすごいと思いました。
* アリー塾長の一言
授業の中では、和菓子の中でももっとも洗練されている、上生菓子(お茶の席でつかわれます)を試食してみました。また、今回選んだのは、京菓子です。
京菓子を特に選んだのは、そこには日本の伝統と、日本人の美意識がふんだんにもりこまれているからです。京菓子は手のひらにのるほど小さいけれど、そこには日本の文化がぎゅっとつめこまれているのです。
京菓子は季節をうつしています。たとえば、春には桜の花を、夏には涼しげな水を、秋には色づいたもみじを、冬には雪をかぶった松をかたどります。日本人は昔から、季節を敏感に感じて楽しんできたのです。
上にあげた作文は、ところどころに幼い表現がありますし、重複したり、反対に言い足りなかったりするところもあって、まだまだ文章としては完成していません。
ですが、京菓子についての知識を得、実際に試食をしてみたときの感動がすなおに表現されていて、読んでいるこちらも感動するようなすばらしい作文となりました。
ほかにも、序論・本論・結論の三段構成で書かれているところや、結論のところで最後に、「文化」という難解で抽象的な言葉をつかってまとめているところなど、これまでに学んできた成果が随所にあらわれていいます。
○○ちゃん、とてもよい作文が書けたね!和菓子は日本のすばらしい文化の一つです。世界に誇りましょうね。
http://www.ko-to-ha.com/
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