2015年4月18日土曜日

自由な裁量

* 各学校の国語の入試問題には、実は興味深い、よい文章がたくさん取り上げられています。生徒と一緒に問題演習をやっていると、課題の文章のおもしろさに、おもわず興奮してしまうことがあります。

 中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。

 わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの         
 であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
 --これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
 のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
 (中略)
  ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
 存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
 かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
 にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。

 「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。

 「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」

 「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」

 「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」

 「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。

 人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。

 もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。

 しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。

 世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。

 考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。

 「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。

 Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。

 最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。

http://www.ko-to-ha.com/


 



 

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