* 引き続き南の島の人々のくらしについて学んでいます。(島はフィリピンにあります。)
アリー塾長 : 今日は、島の子どもたちの生活についてみていこうね。島には小学校があ
るよ。あ、島の小学校では1年生から英語の勉強を始めるんだって。だか
ら6年生になると、みんな英語が話せるようになるんだって。すごいね。
生徒たち : (うなずきます。)
アリー塾長 : お昼休みにはみんな家にもどってご飯を食べてくるんだって。給食がない
んだね。どう?みんなもそうしたい?
女の子 : そうしたい。だって、うちで食べれば、嫌いなものを食べなくていいから。
アリー塾長 : ○○ちゃんはお魚が嫌いだったっけ?
男の子 : ぼくもうちで食べたい。ゆっくりできるから。
アリー塾長 : 学校では給食をゆっくり食べられないのかな?
アリー塾長 : 島の子どもたちは学校が終わると、みんなで集まって遊ぶんだね。いろ
いろな遊びをしてるみたいだね。木登りをしたり、縄跳びをしたり、生きも
のを捕まえたり、砂浜の砂を掘ったり、ままごともしてるね。みんなと同じ
だね。
女の子 : ゲームしてない。
アリー塾長 : あ、ゲーム!確かにしてないね。○○ちゃん、ゲーム好き?
女の子 : (うなずきます。)
アリー塾長 : 島の子どもたちは家の手伝いをよくするみたいだね。小さい子どもの面
倒をみたり、料理の火をおこしたり、水くみや洗濯をしたり。島には水道も
ないし、ガスもないんだね。火をおこすって大変そうだね。
男の子 : 火をおこすやり方を教えてもらったことがある!
アリー塾長 : ○○くん、やってみた?
男の子 : やらなかったけど、大変そうだった。
アリー塾長 : 島のくらしは自給自足だって。自給自足ってわかる?
女の子 : 食べるものとかを全部自分で作ったりとったりすること。
アリー塾長 : そうだねえ。くらしに必要なものを全部自分たちで用意することだね。
この島は海に囲まれているし、一年中夏だから、食べるものはいつも
あるのかもしれないね。一年中夏ってどう?
女の子 : いやだ!雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○ちゃんは雪で遊ぶのが好きだもんねえ。夏ばかりで冬がないと雪が
降らないもんね。
アリー塾長 : 私たちの住んでる日本には春と夏と秋と冬があるよね。こういうのなん
て言ったっけ?
女の子 : 四季。
アリー塾長 : そうそう、四季!日本には四季があるけど、この島にはないよね?夏
ばっかりだ。どっちがいいと思う?この島に住みたい?
女の子 : 住みたくない!だって、冬がないと雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○くんは?
男の子 : うーん、…。うーん、…。どっちもいい!どっちも楽しいことがあるから。
* 女の子の作文の一部です。
わたしは、フィリピンの人に少しなってみたいです。なぜなら、みんなでいっぱいあそべるからです。でも、あまりなりたくないです。なぜなら、さかなは好きじゃないし、台風の時は、大変だし、あめもあびたくないからです。
(中略)
でももしこの国の人だったら、たぶんみんなといっぱいあそんだり、台風のときもそうして(い)ると思います。
* 男の子の作文の一部です。
ぼくはこのところ(この島)のくらしがいいなと思いました。木のぼりや(、)魚などをつかまえることができて、楽しそうだと思ったからです。でも、日本のくらしも春夏秋冬がありいいなと思いました。
(中略)
家の家事(原文のまま表記しています。)をするのも楽しそうだと思いました。とくに火をおこすのが楽しそうです。いつも家の手伝いをしてひまはないので(、)つまらない時はないし(、)いいなと思いました。あらしがきたとき家のやねやかべがこわれてしまうので直すのが大変です。でも直すのが楽しそうです。ぼくがいちばん楽しそうだと思ったことは魚をとることと、食べることです。とるのは楽しいし、いろいろな種類の魚を食べ(ら)れてあきないなと思いました。いつかこの島にいってみたいです。
* アリー塾長の一言
男の子の作文には、「楽しそう」、「楽しい」という言葉が6回も出てきます。彼の言うとおり、南の島でのくらしは本当に楽しそうです。毎日楽しくくらすというのはとても幸せなことです。島の人たちは幸せなんだろうなあと思います。
それから、対話の中で、男の子は、四季のある日本のくらしも、夏だけの南の島のくらしも、「どっちもいい!」と言っていました。四季それぞれの季節を楽しめる日本と、エネルギッシュな暑い気候を一年中楽しめる南の島。どちらのくらしにもそれぞれのよさがあります。「どっちもいい!」というのは、まさに、「文化相対主義」の根幹にある考えです。
女の子は、魚が嫌いだったり雪が好きだったりという個人的な理由で、南の島ではあんまりくらしたくないようです。でも、そこに生まれたら、そこの人のようにくらすだろうとも言っています。島の子どもになって、「みんなといっぱいあそ」ぶのはきっと楽しいことでしょう。
http://www.ko-to-ha.com/
「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2014年11月25日火曜日
2014年11月7日金曜日
『赤毛のアン』に学ぶ、かわいそうな人にならない方法
以前、邪悪なオーラをまとわないためには、かわいそうな人にならなければいいと書きました。今回は、それでは、かわいそうな人にならないようにするにはどうしたらよいのか考えてみます。
「死刑囚の中に、こんなに恵まれた環境で育って、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと思うような人物は一人もいなかった。」
法務大臣を経験したある政治家さんが、このように言っていたそうです。この言葉は、死刑囚のような、人を傷つける邪悪な人物はみんな、かわいそうな子ども時代をおくっていたということをあらわしているかもしれません。
トルストイではありませんが、幸福な家庭はどこも似通っているけれど、不幸な家庭は様々です。経済的に恵まれていなかったり、難しい家族と暮らしていたりと、いろいろな事情が考えられます。問題が表面化しないだけで、かわいそうな子どもというのは、案外たくさんいるのではないでしょうか?
かわいそうな人は邪悪なオーラをもっています。かわいそうな子どもは、やがてかわいそうな人になって、人を傷つけるという最悪のことをしてしまう場合さえあります。邪悪なオーラをもたないために、かわいそうな子ども、かわいそうな人にはならないようにしなければなりません。
さて、ここに大変よいお手本があります。『赤毛のアン(L・M・モンゴメリー作)』のアンです。ご存知のように、アンは赤ちゃんのときに両親が死んで、知り合いのうちを転々としたのち、孤児院に入れられ、その後、グリーンゲイブルスに引き取られました。
アンは典型的なかわいそうな子どもでした。でも、『赤毛のアン』を読んだ人ならだれでも、アンには邪悪なオーラなんてなかったと言うでしょう。私もアンには、邪悪なオーラの存在をみじんも感じません。人が見たらかわいそうなアンは、かわいそうな子どもではなかったようなのです。
アンをもっともアンらしくしていたのは、「想像力」です。アンはつらい境遇の中、「想像力」を発揮して、その状況を楽しみます。ガラスの扉に写った自分の姿を、友達になぞらえて話しかけてみたり、自分の着ている粗末な服を、美しい絹の服だと「想像」してみたり。「想像」することによって、アンは楽しく幸せな気分になることができたのです。
アンは自然の美しさを楽しむのも天才的です。白い花が満開のリンゴ並木に「雪の女王様」と名付けて、アンはうっとり見とれます。また教会の窓から見えるきらめく池の面には見飽きることがありません。美しい自然を与えてくれた神様に、アンは深く感謝します。そして、そのようなアンの感性や、中でもアンの最高の持ちものである「想像力」は、やがてまわりの人々をも魅了していきます。
もっとも、アンにも自分の境遇を嘆くことはあります。初めてグリーンゲイブルスに来たとき、男の子じゃないからいらないと言われ、アンは大きな声を出して泣き、悲しみます。でも嘆くだけ嘆いたあと、アンは静かに自分の運命を受け容れます。
運命を受け容れたあとで、アンはだれを恨むでも、何を呪うでもなく、「想像力」を友として、再び生きることを楽しもうとします。そのまま孤児院へ帰されることになるかもしれない馬車でのドライブの途中で、アンは、「私、このドライブを楽しむことにするわ!」と言って、マリラを驚かせるのです。
そんなアンはかわいそうな子どもでしょうか?アンはかわいそうな子どもではありません。なぜならば、アン自身が自分のことをかわいそうだと思っていないからです。かわいそうな自分の運命をひとたび受け容れたなら、もう自分のことをかわいそうだと思う必要はありません。木々や草花は美しいし、「想像力」を駆使すれば、世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるのですから。
このようにアンからは、かわいそうな人にならない優れた方法を学ぶことができます。アンの物語は、かわいそうな人にならないためにはまず、かわいそうな自分の運命を充分嘆き、受け容れることが必要だと言っています。そしてその後は、「想像力」を使ってでも、美しいものに感動し、生きることを楽しむことが大事だとおしえてくれます。
アンは持ち前の「想像力」で、厳しい境遇の下、いつも幸せな気分でいることができました。アンの幸せな気分は、人を惹きつけ、いずれみんなを幸せな気分にしていきます。その結果、アンは「想像力」を使わなくても本当に幸せな少女になっていきます。
アンは憧れのふくらんだ袖の服が欲しくて、ふくらんだ袖の服を着ている自分をいつも「想像」していました。すると、ある年のクリスマスに、マシューが美しいふくらんだ袖の服をプレゼントしてくれます。「想像」とはこのように、いずれ現実のものとなるすばらしい夢の集積のことを言うものなのかもしれません。
* L・M・モンゴメリー著、村岡花子訳、『赤毛のアン』、新潮文庫ほか。
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「死刑囚の中に、こんなに恵まれた環境で育って、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと思うような人物は一人もいなかった。」
法務大臣を経験したある政治家さんが、このように言っていたそうです。この言葉は、死刑囚のような、人を傷つける邪悪な人物はみんな、かわいそうな子ども時代をおくっていたということをあらわしているかもしれません。
トルストイではありませんが、幸福な家庭はどこも似通っているけれど、不幸な家庭は様々です。経済的に恵まれていなかったり、難しい家族と暮らしていたりと、いろいろな事情が考えられます。問題が表面化しないだけで、かわいそうな子どもというのは、案外たくさんいるのではないでしょうか?
かわいそうな人は邪悪なオーラをもっています。かわいそうな子どもは、やがてかわいそうな人になって、人を傷つけるという最悪のことをしてしまう場合さえあります。邪悪なオーラをもたないために、かわいそうな子ども、かわいそうな人にはならないようにしなければなりません。
さて、ここに大変よいお手本があります。『赤毛のアン(L・M・モンゴメリー作)』のアンです。ご存知のように、アンは赤ちゃんのときに両親が死んで、知り合いのうちを転々としたのち、孤児院に入れられ、その後、グリーンゲイブルスに引き取られました。
アンは典型的なかわいそうな子どもでした。でも、『赤毛のアン』を読んだ人ならだれでも、アンには邪悪なオーラなんてなかったと言うでしょう。私もアンには、邪悪なオーラの存在をみじんも感じません。人が見たらかわいそうなアンは、かわいそうな子どもではなかったようなのです。
アンをもっともアンらしくしていたのは、「想像力」です。アンはつらい境遇の中、「想像力」を発揮して、その状況を楽しみます。ガラスの扉に写った自分の姿を、友達になぞらえて話しかけてみたり、自分の着ている粗末な服を、美しい絹の服だと「想像」してみたり。「想像」することによって、アンは楽しく幸せな気分になることができたのです。
アンは自然の美しさを楽しむのも天才的です。白い花が満開のリンゴ並木に「雪の女王様」と名付けて、アンはうっとり見とれます。また教会の窓から見えるきらめく池の面には見飽きることがありません。美しい自然を与えてくれた神様に、アンは深く感謝します。そして、そのようなアンの感性や、中でもアンの最高の持ちものである「想像力」は、やがてまわりの人々をも魅了していきます。
もっとも、アンにも自分の境遇を嘆くことはあります。初めてグリーンゲイブルスに来たとき、男の子じゃないからいらないと言われ、アンは大きな声を出して泣き、悲しみます。でも嘆くだけ嘆いたあと、アンは静かに自分の運命を受け容れます。
運命を受け容れたあとで、アンはだれを恨むでも、何を呪うでもなく、「想像力」を友として、再び生きることを楽しもうとします。そのまま孤児院へ帰されることになるかもしれない馬車でのドライブの途中で、アンは、「私、このドライブを楽しむことにするわ!」と言って、マリラを驚かせるのです。
そんなアンはかわいそうな子どもでしょうか?アンはかわいそうな子どもではありません。なぜならば、アン自身が自分のことをかわいそうだと思っていないからです。かわいそうな自分の運命をひとたび受け容れたなら、もう自分のことをかわいそうだと思う必要はありません。木々や草花は美しいし、「想像力」を駆使すれば、世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるのですから。
このようにアンからは、かわいそうな人にならない優れた方法を学ぶことができます。アンの物語は、かわいそうな人にならないためにはまず、かわいそうな自分の運命を充分嘆き、受け容れることが必要だと言っています。そしてその後は、「想像力」を使ってでも、美しいものに感動し、生きることを楽しむことが大事だとおしえてくれます。
アンは持ち前の「想像力」で、厳しい境遇の下、いつも幸せな気分でいることができました。アンの幸せな気分は、人を惹きつけ、いずれみんなを幸せな気分にしていきます。その結果、アンは「想像力」を使わなくても本当に幸せな少女になっていきます。
アンは憧れのふくらんだ袖の服が欲しくて、ふくらんだ袖の服を着ている自分をいつも「想像」していました。すると、ある年のクリスマスに、マシューが美しいふくらんだ袖の服をプレゼントしてくれます。「想像」とはこのように、いずれ現実のものとなるすばらしい夢の集積のことを言うものなのかもしれません。
* L・M・モンゴメリー著、村岡花子訳、『赤毛のアン』、新潮文庫ほか。
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