2015年12月31日木曜日

読むことと生きること

* 中学3年生のKくんが、 課題の文章の中に出てきた「イチゴの旬」がいつなのかわからないと言いました。

 Kくんは、すなおで真面目で明るいすばらしい中学生です。その年頃の中学生がしているような経験も十分にしていて、特別ものを知らないというタイプではまったくありません。

 Kくんは私に、「イチゴの旬って、冬ですか?」と聞きました。「ああ、イチゴと言えばケーキの飾りだからねえ。クリスマスのころにたくさん出回るよねえ。」と私は言いました。「でもね、今頃のイチゴは、ハウスの中で石油を燃やしてあったかく、あったかくして育てられるものなんだよ。」今は冬です。ですが、すでにイチゴは店頭にたくさん並んでいます。

 課題の文章には、今どきの子どもは、イチゴの旬がいつなのかがわからなくなっているから、『シンデレラ』のお話の中で、真冬にシンデレラに「外へ出ていって、イチゴを摘んでおいで。」と言う継母の意地悪の意味がわからないと書いてありました。

 「ぼくもわかりません。」とKくんは言いました。「そうねえ、しかたがないかもね。イチゴは一年中あるものね。Kくんのせいじゃあないよね。私の友達も昔、一月にイチゴを食べて、『今がイチゴの旬だよね。』と言っていたことがあるよ。」と私は答えました。

 私の友人の例でもわかるように、野菜や果物の旬を知らないのは、Kくんの世代以降ばかりではなく、すでに大人になって久しい人たちも同様なのです。たまたま私は地方に育って、自宅に畑があったから、祖母の植えたイチゴが春から初夏にかけて実ることを知っていたにすぎないのです。

 課題の文章は、「イチゴの旬」を知らないと、『シンデレラ』の継母の意地悪の意味を理解できないという例をあげて、人々の「伝え合い」が時や場所や状況を失ったものになりつつあると懸念しています。Kくんは、「イチゴの旬」もわからなければ、課題の文章の主張の意味もわからないと言っていました。この文章とKくんとの「伝え合い」は、「伝え合い」自体に失敗したのです。

 それでは、「伝え合い」が時や場所や状況を失うとはどういうことなのでしょうか。

 時や場所や状況を言い換えると、「今、ここに生きている」ということになるのではないでしょうか。現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きています。

 私たちは快適に生きるために、科学技術を駆使して、自然から身を守ったり、その一部を利用したり、改変したりして暮らしています。おかげで私たちの暮らしは豊かになり、今では一年中イチゴを食べることもできます。

 ですが、その結果、私たちは自然の本来の姿を見えにくくしてしまいました。イチゴは冬に実るものだと思い込むようになってしまったのです。

 現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きていると言いましたが、「イチゴの旬」と同様に、私たちは自分自身の中の自然のこともわからなくなっているかもしれません。たとえば、私たちの体は自然そのものですが、体の声に耳を傾けず、ついつい無理をしてしまう人は多いのではないでしょうか。

 おそらく、それもこれも、私たちが「今、ここに生きている」という感覚をなくしつつあることから起こることなのではないかと思います。課題の文章が懸念するように、現代の情報のあらゆる文脈が時や場所や状況を失いつつあるというのは事実です。ですが、本来の自然の姿を知っていれば、また「今、こここに生きている」という自覚があれば、それらの情報の背後に、まさに生きた情報を
見出すことができるのではないでしょうか。

 「伝え合い」がやり取りするのは情報です。もともと情報は、私たちが生きるうえで必要だからやり取りされていたはずのものです。ですから課題の文章をはじめ、世に出回る多くの文章は、私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと問いかけています。私たちはどうしたらよく生きられるのかを考えたうえで、問題提起がなされたり、提案がなされたりしているのです。

 このように、文章を読むということは、生きること、しかもよりよく生きるというテーマと結びついています。文章を読むと、倫理的問題に踏み込まざるをえません。良い、悪いという価値判断を離れて、文章を読むことはできないのです。

 もちろん、文章を読むときは、筆者の意見を公平に客観的に読み取らなければなりません。ですが、論者の意見に賛成、または反対というのは、当然あってしかるべき反応なのです。

 いわゆる入学試験をはじめとする学校で課せられる文章の読み取りは、あくまでもニュートラルな立場で、文章の中で述べられていることを読み取ることが課題です。ですが、一方で私は、その文章に賛成したり反対したりしながら読んでもよいのではないかと思っています。課題の文章を、まず正確に読み取ったなら、その文章に対して批判的になってもよいのではないかと考えています。

 文章を批判的に読むことによって、よりよく生きるというテーマについての自分の考えがまとまっていきます。読んだ文章の意見を参照することによって、自分の意見が明確になります。どう考え、どう生きるのが自分にとってよいことなのか、読書をすればするほどよく見えてくるようになるのです。

 そのような読書は「おもしろい」ものとなります。すべての人にとって、自分がよりよく生きること、これ以上に興味深いテーマはありません。それは、大人だけではなく、子どもにとっても同じであると私は考えています。

 とかく勉強としての国語は、点さえ取れて、学校に入れさえすればよいということになりがちです。ですから、「とにかく、表面的にであっても、読み取れるテクニックを教えてください。」と言われることがあります。ですが、Kくんの例でもわかるように、現実に自分が生きていることと結びつけて考えないと、文章が何を言っているのかさっぱりわからないということになるのです。

 実は、文章を読むことを「おもしろい」と言えるようになった生徒は、国語の成績も上がりました。以前はどうしても国語の点数が伸びないと言っていた子どもたちです。私はそのような生徒たちには、技術的な読解の方法だけでなく、文章を読むことが生きることとつながるということを暗に教えたつもりです。

 結局は急がば回れなのではないでしょうか。深く本質的なことを知ったら、いろいろなことがわかるようになります。いろいろなことがわかったら、結果として成績も上がるのではないかということです。

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2015年11月14日土曜日

何のために勉強するの?

* 小学5年生のYくんが、「何のために勉強するのかがわからない」と言いました。

  
 Yくんは来年中学受験をすることになりました。それでも、「勉強する目的がわからない」と言います。「だって、試験に合格して、今の友達と別れてその学校に入ったら、いじめられちゃうかもしれないじゃない?」とYくんは言います。

 中学合格の先にまず、「いじめ被害」というネガティブな未来を想像するYくんは少し心配性です。でも、確かに言われてみれば、たとえ試験に合格して志望校に入れたとしても、その先の輝かしい未来までもが確約されているというわけではありません。

 そう言えば、せっかく第一志望の難関校に合格したのに、受験勉強で燃え尽きてしまって、入学してから勉強についていけなくなったという人の話を聞いたことがあります。それから、これは大人の話ですが、いわゆる超難関校を卒業して社会的に尊敬される職業についている人たちでも、必ずしも幸せそうにくらしてはいないという例がたくさんあります。

 Yくんの言うように、勉強して「いい学校」に入ったとしても、幸せになれるという保証はないのです。ですが、だからと言って、勉強はしなくてもよいのでしょうか。

 「勉強には二種類あるって考えればいいんじゃないかな?」とっさのことで、私はこのように答えるのがせいいっぱいでした。「試験に合格するための勉強と、生きるための勉強。受験のための勉強と、自分の人生をよりよく生きるための勉強、幸せになるための勉強だよ。」

 「まず、勉強はしたほうがいいと思うよ。だって、ものを知らないと、人を傷つけてしまうことがあるからね。知識がないと、やってはいけないことをやってしまうことがあるんだよ。」私は以前にも書いた、ゴリラの悲劇を思い出していました。ゴリラは凶暴な生きものだという誤った考えが、ゴリラを絶滅の危機に陥らせたという「無知の罪」の話です。

 「普通の塾でやっているのは試験に合格するための勉強だよね。でも、私はここでは、みんなと、よりよく生きるための勉強もしたいと思ってるよ。みんなで幸せに生きるためには、まずたくさんのことを知らないといけない。それから、どうしたら幸せな生き方ができるかと考えないといけない。それの全部が勉強なんだよ。」

 私の話にYくんが納得してくれたかどうかはわかりません。ですが、その日の授業には以前よりも真剣に取り組もうとしてくれていたように感じました。

 さて、あらためて「何のために勉強するのか?」と質問されたら、私はもう一つの答えを提示したいと思います。Yくんに質問されたときにも少し触れたのですが、深く掘り下げて考える余裕はありませんでした。ですが、もう一度考えてみると、この答えがもっともふさわしいように思えます。その答えとは、「おもしろいから」です。

 ありがたいことに、私のところで勉強している生徒たちは、授業の後、「楽しかった!」と言ってくれているようです。時々お母さま方からそのようなご報告をいただきます。私自身は正直に言うと、小中学生だったころ、塾に行っても習い事をしても、楽しかったと思った記憶がないので、どうして生徒たちが「楽しかった!」と言ってくれるのか不思議でした。

 ですが、わかりました。気づきました。どうしてみんなが私と勉強して、「楽しい!」と思ってくれるのか。それは、私自身が、「勉強は楽しい!」と思っているからです。

 私は文章を読むのが好きです。本を読むのが大好きです。おもしろそうな本を手にしたとき、どんなことが書いてあるかとワクワクします。読んでみて、「我が意を得たり!」ということが書かれていると、本当にうれしくなります。本を読んで、内容を理解して、「ああ、そうだったのか!」と思うことも幸せです。書かれていることについて、応用して自分なりに考えてみるのもとても楽しいです。

 私は生徒たちと一緒に勉強して、自分も楽しんでいるということに気がつきました。一緒に文章を読んで、「おもしろいなあ!」と心から思っていることに気がつきました。それぞれのテーマに対して子どもたちはさまざまな反応をしてくれます。その答えがまた感動的で、ますます私は授業が楽しくなります。

 大人がおもしろそうにしていることには子どもも興味をもってくれます。大人が楽しそうにしていることは、子どももやってみたくなります。子どもに何かをしてほしければ、まず大人がそれを楽しそうにやって見せることではないでしょうか。そして一緒にやってみたら、やっぱり「楽しい!」ということになるのです。これは勉強だけにかぎったことではありません。

 Yくんに勉強する理由を尋ねられて、私は二つ目の理由として、「よりよく生きるため、幸せに生きるため」、と答えました。「幸せに生きる」とは、憂いなく、毎日楽しく生きるということですが、これもまた、大人が手本を示すとよいのかもしれません。大人がまず、毎日を心から幸せに楽しく生きていれば、子どももそれを見て、そこから学んで、幸せな一生を送ることができるようになるのではないでしょうか。

 エーリッヒ・フロムは、「母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない」*と言っています。幸福な母親は人生を愛しています。人生を愛する幸福な親を見て、子どもは生きることを肯定し、自分を信じ、他人を信じることのできる幸福な人になることができるのです。

 私は教育者も「幸福な人間」でなければならないのではないかと思っています。「幸福な人間」は、人生や世界や、あらゆるものを愛し、肯定しています。否定からは何も生まれないことを知っているのです。幸福な教育者なら、「何のために勉強するの?」と聞かれて、「おもしろいからだよ。」と答えるのではないでしょうか。

 「何のために勉強するの?」という疑問は、いずれ「何のために生きるの?」という疑問につながるかもしれません。「何のために生きるの?」と質問されたら、「おもしろいからだよ。」と答えたいものです。

 私は言葉を愛しています。読むこと、話すこと、そして書くこと、すべて好きです。言葉とともにある私の幸福が、生徒たちの「楽しい!」につながっているのだとしたら、それこそ、これほど幸福なことはほかにありません。

* エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』、紀伊国屋書店、1991年3月。

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2015年9月18日金曜日

悪とは無知のこと

*先日一人の生徒が、作文で、とても深遠な問題提起をしてくれました。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスです。ソクラテスの倫理を継承する、まさに哲学的なテーマの作文でした。

 次にあげるのは、生徒の作文の全文です(改行など、一部変更あり)。


 「ゴリラの正確な研究結果を広める」

 私は、ゴリラのことについて正確なことをみなさんに知ってほしいと思いました。いまから、なぜゴリラの研究結果が正確に広まったほうがいいのかを説明したいと思います。
 
 ゴリラは、ドラミングという動作をします。以前までは戦いを宣言し、相手をおどす動作とされていたそうです。そのことから、人々はゴリラをおそれるようになりました。凶暴だというゴリラのイメージを元にして、ゴリラを巨大にしたような怪じゅうの「キングコング」という映画まで、つくられたそうです。その映画のえいきょうで、人々は、ゴリラとは凶暴な生きものだと信じてしまったのです。

 おかげで多くのゴリラが殺されました。私はイメージだけで大切な命を殺すのは、絶対にやってはいけないと思います。なぜなら、正確に調べてたくさんの人と相談してから行ったことではないからです。

 みんなでゴリラについて一生けん命調べたら、殺すなんていう選択しはでなかったかもしれません。なので、ゴリラのことについて、正確に知ってほしいと思いました。

 私はゴリラについて正確な研究結果が広まればいいと思いました。そして、ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといいと思いました。


* アリー塾長の一言

 とてもよく書けた作文だと思いました。何よりも、文章を貫く論理構成がしっかりしていて、流れがスムースです。自分の意見を述べるために、理由としてさまざまな事実をあげ、「だから、私はこう思う」ときちんと書けています。

 また、ゴリラが「キングコング」の「イメージ」をもたれて殺されたという事実をとらえ、「イメージ」と「正確な研究」という対立する構図を打ち出し、「正確な研究」の必要性を主張しているところもすばらしいです。

 さらに、「ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといい」という意見は、客観的に課題に向き合い、公平かつ冷静に妥協点を見つけていくことの大切さを提案していて、とても理性的です。

 そして中でも一番感銘を受けたのは、この生徒が正確な知識をもつこと、つまり、学ぶこと、研究することの大切さをうったえていることです。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスですが、今回学んだゴリラの話は、まさにそのとおりのケースです。この生徒はそのことに気づいたのです。

 ところで、知識は大切だと言っても、やみくもにたくさんのことを知っていればいいというわけではありません。ましてや、単にたくさんの知識を頭に詰め込んで、試験のときに一気に吐き出せればいいというものでもありません。知識は考えるために必要なのです。考えて、よりよい行動をとるために必要なのです。だから、そのときの知識は正確なものでなければならないのです。

 ゴリラについて学んで、正確な知識をもっていたら、人間はゴリラを殺す必要などありませんでした。学ぶことを怠ったうえ、よく考えもしなかったから、人間はゴリラを殺すという最悪な行為をしてしまったのです。
 
 以前、「教養と寛容」というタイトルで、なぜ学ぶことが大切なのかということについて書いたことがあります。教養があれば、さまざまな立場の人のことを理解することができます。多くの知識があれば、一方的に誰かを攻撃するなどということはできなくなるはずなのです。

 「悪」と言えば、一般的には人を殺したり、物を盗んだりといったことを思い浮かべます。ですが、ソクラテスならこう言うかもしれません。「そのようなことをする人は、何かを知らないからそうするのだ。」と。問題を根本から解決する方法を知っていたら、悪いことをする必要はありません。悪いことをする人は、知るべきことを知らないからそんなことをするのです。

 ゴリラについての正確な知識があったら、人間がゴリラを殺さずにすんだのと同様に、真実を知っていたら、人間同士も争ったり戦ったりする必要はないのではないでしょうか。

 もちろん、すべてを簡単に知ることはできません。長い長い時間をかけて、深い森を踏みわけ踏みわけして前に進んでいくように、少しずつ、少しずつ、本当のことに近づいていくのです。誰が見ても知者であったソクラテスにして、「私は自分が何も知らないということを知っている(無知の知)。」と言っていたのですから。

 哲学(philosophy)の語源はギリシャ語で、知(sophy)を愛すること(philos)を意味します。知を愛し、知識を得るのは、よく考えて、よりよい行動をとるためです。つまり、よりよく生きるために、知識が必要なのです。学ぶことは、実はきわめて哲学的で、倫理的にも価値のあることなのです。

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2015年8月13日木曜日

ブーイングされても平気?

* 作文の書き方を学ぶために、同世代の子どもが新聞に投稿したじょうずな文章を読んでみました。



* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。


アリー塾長   :  私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
             されたら、やる気なくすもん。

Yくん       :  別にブーイングはしてもいいよ。

Kくん       :  ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!

Yくん       :  そうそう、うまくやらないやつが悪い!

アリー塾長   :  ええーっ!?ほんとー?

Kくん       :  ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。

アリー塾長   :  ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
             気持ちにならない?

Yくん       :  ならない、ならない。平気、平気。

アリー塾長   :  ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
             れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?

Yくん       :  出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
             るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!

アリー塾長   :  そうかなあ?

Yくん       :  そうだよー。

アリー塾長   :  私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。

Yくん       :  ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
             がんばれる。


* アリー塾長の一言


 Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。

 Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?

 YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。

 残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。

 フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。

 みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。

 その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。

 このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。

 さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。

 本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?

 たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
 
 大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。

 大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。

 多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。

 もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。

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2015年8月8日土曜日

夏休み・和菓子作り体験

* 夏休みに和菓子作りの体験をしました。



            

        寒天と砂糖を鍋に入れています。



                
        緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。


       

         赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。





         石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
        液を入れて固めるという作業をくりかえします。




        
         涼しげな 「金魚鉢」の完成です!

        


         あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。



      

         「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!


* アリー塾長の一言

 夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。

 実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。

 Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。

 実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。

 ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。

 文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。

 今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。

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2015年7月29日水曜日

感想文・『ぼくとテスの秘密の七日間』

* またまた読書感想文の季節がやってきました。今年は、『ぼくとテスの秘密の七日間』(アンナ・ウォルツ著、野坂悦子訳、フレーベル館、2014年9月)を読んでみました。

 サミュエルやテスの住むオランダという国は、同性婚はもちろん、必要な条件さえ満たせば安楽死すら合法的に認められている国です。日本などと比べると、より多様な生き方が法律によって保障されている国だと言ってもよいでしょう。
 
 ですが、法律が認めるのと自分が認めるのとではまた意味が違います。シングルマザーの娘であるテスは、法律によってその存在や権利を保障されてはいますが、テス自身が自分で自分の存在を受け容れるというのはまた別な話なのです。
 
 テスは生まれてから一度も会ったことのないパパに会うために策略を練ります。たまたまテスの住むテッセル島にバカンスに来ていたサミュエルは、出会って間もないテスの計画を手伝うことになります。何しろ、その計画にはテスの「人生が、かかって」いたのです。

 テスはサミュエルに言います。
「両親がいうことをサミュエルはぜんぶ信じる?」
「あのね、あたしはママがいってることを、本気で信じてたの。あたしたちは、パパなんかいないほうがうまくやっていけるって。でもね、ある朝、なんとなく疑うようになったんだ。かりに、ママがまちがってたとしたら?ひょっとしたら、あたしはパパと知り合いになりたいのかもしれない。」

 テスは少しずつ大人になっていきます。その途中で、いろいろなことに疑問をもち始めます。パパに対するママの考えは、中でも大問題です。テスはママと自分の考えが違ってきたことに気が付きます。「ママがまちがって」るかもしれないのです。テスは自分で自分の答えを探さなければなりません。

 サミュエルも考える子どもです。兄のヨーレに「教授」と呼ばれています。サミュエルもテスの問題をとおして、一緒にいろいろなことを考えます。死について、孤独について、そして家族について、考えて、二人でさまざまな真実を発見していくのです。

 テスは「たぶん、パパがほしい」。だから、パパが「十一歳になった娘を、ほしいかどうか」がわからないといけない。サミュエルとテスは、パパには本当のことを言わずに、パパとそのガールフレンドと一緒に島の休日を過ごします。テスは、「じぶんのことを、パパに伝えるかどうか」、「じぶん自身で決めたかった」のです。

 残念なことに、テスの期待は裏切られます。テスとサミュエルと、パパとそのガールフレンドの四人で楽しく凧あげをしていたとき、海岸をうるさく駆け回る幼い子どもたちを見て、パパが、「ぼくたちには子どもがいなくて、よかったよ」と言うのです。テスは自分のことをパパには打ち明けないと決心します。

 一方、サミュエルは、こう考えていました。
 「でも、これはたまたま、ぼくの人生なんだ。テスと同じように、じぶんの人生でなにをするかは、ぼくがじぶんで決めるんだ。」
そうして、島から帰ろうとするテスのパパを引き留め、テスには内緒で、テスのことを話します。

  「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決める」がいくつもぶつかって、テスはパパを手に入れることができました。テスのママは、テスたち母子にパパはいらない、と決めた。パパは、ガールフレンドと、子どものいない気ままな生活をすることに決めていた。テスはそんなパパを見て、自分のことを打ち明けないと決めた。

 そしてサミュエルは、テスのことをテスのパパに伝えることを決めた。なぜなら、テスがパパと一緒にいて、幸せそうにしていた様子を見ていたから。

 みんな「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決め」なければなりません。ですが、みんなが「じぶんで決め」ると、「なにをするか」の「なに」が、ときにはほかの人の「なに」のじゃまをしてしまうことがあります。サミュエルは「なにをするか」を「じぶんで決め」、テスが決めた、パパには打ち明けないということのじゃまをしてしまいました。

 けれども、そのおかげで、テスにはパパができました。パパはテスの存在を受け容れてくれました。テスは、ママにもパパにも受け容れてもらって、自分の存在を丸ごと認めることができたのではないでしょうか。

 「じぶんで決め」たことがほかの人の決めたこととぶつかるのもよいことです。その結果、みんなにとって一番すばらしい結論が出て、みんなが幸せな未来を思い描けるようになりました。

 自分の親がどういう人かを知りたいのは、自分がどういう人間なのかを知りたいということです。自分で自分のことを知って、自分で自分の存在を受け容れて、自分自身になる。どうして自分自身にならなければいけないかと言うと、サミュエルの言うように、人生は自分で何をするかを決めなければならないものだからです。

 サミュエルは成熟した子どもです。自分の存在を軸に、いろいろな人に出会って、さまざまなことを経験し、多くのことを考えて、発見し、成長していきます。サミュエルは、そしてテスも、自分で自分の人生を切り開き、自分なりの幸福な日々を、これからも過ごしていくことでしょう。

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2015年5月11日月曜日

思い込みをはずす

 思い込みという言葉がいい意味でつかわれることはありません。文章を読むときも、思い込みをもって読んでしまうと、見当違いの読み方をすることになってしまいます。

 中学三年生のRくんと国語の問題を解いているときでした。それは本文のある箇所の意味を説明しなさい、という問題でした。Rくんの解答には、「邪魔なもの」という言葉がつかわれていました。

 「うーん、ここで「邪魔」という言葉をつかうのはどうかなあ?筆者はここで否定するようなことを言っているんじゃないよね?肯定してるよね?それはいいことだと思ってるんだよね?それなのに、「邪魔」という言葉をつかってしまうと、合わないよね?」私はRくんに言いました。

 「もういちど書き直しみよう!」私の言葉にRくんはうなずいて、もういちど書き直してくれました。

 ところが、書き直した解答を読んでみると、今度は「いらないもの」という言葉が入っていました。「
邪魔なもの」と「いらないもの」はほとんど同じ意味の言葉です。Rくんの解答の内容は書き直してもあんまり変わらなかったのです。

 「これはもしかしたら、Rくんの価値観が入ってしまっているのかもしれないね。「邪魔なもの」という言葉も「いらないもの」という言葉も、たしかに本文には出てくるけど、Rくんの価値観がそればっかりを拾ってきてしまっているのかもしれないね。Rくんの「それは邪魔なもの、いらないもの」っていう思い込みが反映しちゃってるのかもしれないよ。」私の指摘に、Rくんは少しとまどったようでした。

 このようなことはときどきあります。以前も別の生徒が、どうしても最初に考えた解答から離れることができずに、何度説明しても内容を正しく理解できなかったことがあります。いちど「そうだ!」と思い込んだら、それを捨てることができなくなってしまうのです。文章を読むとき、国語の問題に解答するとき、思い込みははずさなければなりません。

 もっともそうは言うものの、その気持ちはわからないでもありません。実は私も、思い込みがはずせなくて、悪戦苦闘したことがあるのです。今でもその思い込みを完全にはずせたとは言えないかもしれません。

 あるとき私はなぜか歌が歌いたくなって、ボーカルレッスンに通うことにしました。歌を正式に習うのは初めてだし、もともと歌うことが得意だったわけでもありません。でも、気持ちよく声を出すことができたらどんなに楽しいだろうと思って、一念発起したのです。

 ですが、実際に歌ってみると、声が出ない!!こわれちゃったクラリネットではありませんが、ラより上の音がどうしても出ない!声を出そうと思えば思うほど、のどが絞まって、絞め殺されそうになっているにわとりのかすれた悲鳴みたいになってしまうのです。

 「先生、どうしたら声が出ますか?」私は歌の先生にすがるような思いで聞きました。「声は出ます。」「…?私の場合、全然出ませんけど?」「それは思い込みです。」先生はあっさりおっしゃいました。「声は出ないと思い込んでるから出ないんです。もっとも大人の場合、その思い込みをはずすのが一番むずかしいんですけどね。」

 思い込みをはずす。これは本当にむずかしいことです。私はその後、10か月くらいボーカルレッスンに通いましたが、ついに声は出ませんでした。

 声の例でもわかるように、思い込みはあらゆる可能性を閉ざしてしまいます。本を読むときには読みの可能性を狭めてしまうばかりか、まちがった読みをしてしまうこともあります。むずかしいことではありますが、思い込みからは自由にならなければなりません。

 ボーカルレッスンを受けてから2年以上がたちます。歌うことをあきらめたわけではないので、ときどき私は一人で歌ってみます。声は、まったく出ないということもなくなりました。気分がいいとき、心の底から「出る」と思っているときに、声は出ます。反対に、「出ないんじゃないかな?」と、ちょっとでも疑ったりすると、とたんに出なくなります。本当に不思議なものです。

 思い込みは言葉とともにあります。私の場合、「声は出ない」でした。声を出したいと思ったら、その言葉を、「声は出る」に変えてあげればよいのではないでしょうか。そしてその言葉を心底信じる。それができたときに、声は出るのです。

 本当はできるのに、できないと思い込んでいることはまだまだたくさんありそうです。どんどん思い込みをはずして、いろいろなことにチャレンジしていきたいものです。
 

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2015年4月18日土曜日

自由な裁量

* 各学校の国語の入試問題には、実は興味深い、よい文章がたくさん取り上げられています。生徒と一緒に問題演習をやっていると、課題の文章のおもしろさに、おもわず興奮してしまうことがあります。

 中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。

 わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの         
 であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
 --これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
 のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
 (中略)
  ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
 存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
 かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
 にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。

 「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。

 「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」

 「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」

 「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」

 「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。

 人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。

 もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。

 しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。

 世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。

 考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。

 「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。

 Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。

 最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。

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2015年4月4日土曜日

体験型授業「和菓子の試食」

説明を追加

 上は、「春の水」という銘のお菓子です。
   

  右、お抹茶も飲んでみました。




 * 和菓子の試食の体験型授業をおこないました。

  








 以下は、参加した生徒の作文です。

  「和菓子について」

 和菓子のことを勉強して、和菓子を3回楽しむことや、季節ごとにちがう和菓子があることを知りました。

 わたしは、和菓子を食べる前に、目で楽しんだり、耳で楽しんだりしてから口で楽しむ事を知って、今まで目や耳で楽しんでなかったから、目で、何に見えるか、耳でその和菓子の名前を聞いてイメージしてから口でゆっくり味わおうと思いました。 

あと、季節ごとでちがう和菓子があったり、一月から十二月まででいろいろな和菓子があってすごいと思いました。

その中でいちばんきれいだと思った和菓子は、夏の氷みたいに見える和菓子です。理由は、とう明でとてもきれいだったり、その中に入っているお菓子の色あいがよかったりするところです。

秋のもみじに見える和菓子や、冬のゆきだるまみたいな形をしている和菓子や春のさくらの形でうすいピンク色になっているのもとてもきれいだと思いました。

ほかにも、食べた、こちょうというちょうに見える和菓子もきれいでした。あと、和菓子のことのテレビを見て、その和菓子を作っている人は、こまかい所もきれいにやっていてすごいと思いました。

氷に見える和菓子は、昔、夏に氷がなかったときにその和菓子を作って食べていたことを知って、和菓子はそんなふうにも食べたり、楽しめたりしてすごいと思いました。

わたしは、氷もいいと思ったけれど、和菓子で作った、氷みたいなお菓子も食べてみたいと思いました。

 和菓子に、いろいろな楽しみ方があって、今度食べるときは目、耳、口で楽しみたいと思いました。それで、いろいろイメージしてみたいと思いました。和菓子に、日本の文化がたくさんあってすごいと思いました。

* アリー塾長の一言

 授業の中では、和菓子の中でももっとも洗練されている、上生菓子(お茶の席でつかわれます)を試食してみました。また、今回選んだのは、京菓子です。

 京菓子を特に選んだのは、そこには日本の伝統と、日本人の美意識がふんだんにもりこまれているからです。京菓子は手のひらにのるほど小さいけれど、そこには日本の文化がぎゅっとつめこまれているのです。

 京菓子は季節をうつしています。たとえば、春には桜の花を、夏には涼しげな水を、秋には色づいたもみじを、冬には雪をかぶった松をかたどります。日本人は昔から、季節を敏感に感じて楽しんできたのです。

 上にあげた作文は、ところどころに幼い表現がありますし、重複したり、反対に言い足りなかったりするところもあって、まだまだ文章としては完成していません。

 ですが、京菓子についての知識を得、実際に試食をしてみたときの感動がすなおに表現されていて、読んでいるこちらも感動するようなすばらしい作文となりました。

 ほかにも、序論・本論・結論の三段構成で書かれているところや、結論のところで最後に、「文化」という難解で抽象的な言葉をつかってまとめているところなど、これまでに学んできた成果が随所にあらわれていいます。

 ○○ちゃん、とてもよい作文が書けたね!和菓子は日本のすばらしい文化の一つです。世界に誇りましょうね。

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2015年3月21日土曜日

「価値」について考える

*その島に暮らす人たちは、週に一回、別の島で開かれる「交換の市」に行って、海でとっ   た魚や貝を必要なものと交換します。

Yくん          バケツ5分の2くらいの魚を、マンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナのふ
              さ4つと交換するって、なんか変じゃない?

アリー塾長  :    ん?どういうこと?もしかして、魚バケツ5分の2って、少ないってこと?

Yくん     :     うん。バケツ5分の2って、ちょっとしかない。それなのに、マンゴー9個
              とトウモロコシ10本とバナナのふさ4つって多いと思う。

アリー塾長  :    いいところに気が付いたねえ。確かにそうだねえ。じゃあ、なんでだと思う?

Yくん     :     うーん?

アリー塾長  :    価値の問題じゃないかな?

Yくん     :     価値?

アリー塾長  :    そう、価値。バケツ5分の2の魚をマンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナ
              のふさ4つと交換した人にとっては、魚が貴重で価値があったんだよ。
              だからたくさんの品物と交換したんだよ。価値のある貴重なものは高いじゃ                                        
              ない?宝石なんてあんなに小さいのにものすごく高いでしょ?

Kくん     :     ぼくはマンゴーもトウモロコシもバナナもいらない。だって好きじゃないもん。
              ぼくだったら魚をマンゴーやトウモロコシやバナナとは交換しない。

アリー塾長  :    Kくんにとって、マンゴーやトウモロコシやバナナは価値がないんだね?
 
Kくん     :     うん。ぼくだったら魚を米と古着と交換する。

アリー塾長  :    そっかあ。Kくんにとってマンゴーやトウモロコシやバナナは、米や古着より
              価値がないんだ。 同じものでも人によって価値があったりなかったりするん
              だね。価値は人によって違うんだね。ほかにも同じものでも価値が違うって
              ことがある?

Yくん     :     災害のときは食料が貴重。

アリー塾長  :    そうだねえ、本当にそうだね。災害のときは食料の価値が高くなるよね。
              価値って、人によっても変わるけど、ときや場合によっても変わるんだね。
              そのほかにも、価値は場所によって変わるよ。国によって価値が変わるもの
              があるからね。
               
              みんなにとって価値があるものってなに?価値があることでもいいよ。

              (ちょっと古びた洋書のポップアップ絵本を見せて)
              
              私にとって価値のあるものはこれ。これは昔イギリスのロンドンから買って
              きた本。今、こういう本、ロンドンに行っても売ってないんだよ。だから価値が
              ある。

Yくん     :     …それから、その本には思い出がある。

アリー塾長  :    そうそう!だから、私にとって価値がある。みんなはどうかな?ものでは
              なくて、ことでもいいよ。

Rちゃん    :    生きてることには価値がある!

アリー塾長  :    生きてること!?それはいい答えだね!!Rちゃん、生きてることにはなん
              で価値があるの?
  
Rちゃん    :     生きてると、楽しいことやうれしいことがたくさんあるから!

アリー塾長  :     Rちゃん、生きてるって楽しい?

Rちゃん    :     うん!!

アリー塾長  :     それはすばらしいことだね。生きてるって価値があるんだね。あ、それか
               ら、みんなが生きてることに価値がある理由はほかにもあるよ。だって、み
               んなが生きてると喜ぶ人がいるでしょ?

Kくん      :     あ、いる!

アリー塾長  :     だれ?

Kくん      :     お母さん。


*アリー塾長の一言

 物々交換の話から「価値」について考えることとなりました。対話の中にも出てきたように、同じものでも、人によって、ときと場合によって、あるいは地域によって、その価値は変わります。ものだけではなく、あることの価値も同様にさまざまな条件で変動します。

 「生きていること」に価値を発見したのはすばらしいことでした。私も、まさかそんな答えが返ってくるとは予想していませんでした。
 
 実は、べつの生徒も、生きていることには価値があると思ったそうです。そしてそのことをお母さんに言ったところ、お母さんは、「生まれたら生きるのがあたりまえだから、それでは答えにならない」とおっしゃったそうです。

 ですが、あたりまえに生きるのは、もしかしたらそんなにあたりまえではないかもしれません。生きているといろいろなことがあるからです。最悪の場合、災難にあって、命を落としてしまうことすらあるからです。

 そう考えると、Rちゃんの「生きてることは楽しい!」という答えはすばらしい!せっかく生きているんだから、毎日、楽しいことやうれしいことをたくさん経験したいものです。

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2015年2月5日木曜日

また会う日まで

 二月です。受験シーズンです。毎日、毎日寒いのに、受験生は頑張っています。

 受験の終わった生徒とはお別れです。○○くん、第一志望校合格、本当におめでとう!超難関校合格、本当に、本当に、よく頑張ったね!発表のときはものすごく緊張したんだってね。受かってて本当によかったね。お疲れ様でした。私も心からうれしいです。

 ○○くんは、私の理想の子ども像を体現したような子どもです。好奇心の塊で、なんでもおもしろいと言います。○○くんにかかったら、付箋紙もクリップもおもしろいのです。私にしてみれば、付箋紙なんかより、○○くんのほうがよっぽどおもしろいと思うのですが。

 そんな調子で○○くんは、勉強していても、なんでもおもしろいと言ってくれました。辞書もおもしろい、言葉の由来もおもしろい、漢字の成り立ちもおもしろい、もちろん文章の内容もおもしろい、○○くんにとってはすべてがおもしろかったようなのです。

 私はひそかに、○○くんはかならず第一志望校に合格すると思っていました。あんなになんでもおもしろいと言えたのは、勉強することを楽しめていた証拠です。そして、楽しく勉強できる子が、もっとも成果をあげることができると、私は信じているのです。○○くんのような子は、最強です。

 もっとも、好奇心が旺盛なため、いろいろな方向に興味が散ってしまい、なかなか集中しないこともありました。でも、それこそが子どもの勉強なのかもしれません。子どもの勉強は、遊びとの境界線があいまいなのではないでしょうか。

 私は、「試験が終わったら○○くんと会えなくなってさみしいな。」と言ってみました。○○くんは、「また、遊びに来てあげよっか?」と言ってくれました。ありがとう。でも、違うんだなあ。私は、小学校6年生の、今の○○くんとの別れを惜しんでいるんだなあ。

 中学生の○○くんと会うのも、たぶん、すばらしいことには違いありません。でも、それはもう、今の○○くんではないのです。ボールペンやシャープペンシルを何本も分解したり、火遊びをしたりするのが大好きな○○くんではないのです。

 そうしてみると、私たちは毎日、いろいろなものと少しずつお別れしているのかもしれません。自分を含めたすべてのものが、毎日少しずつ変わっていきます。今日の自分は明日には失われています。今日の自分と付き合えるのは、今日の自分だけなのです。

 だからこそ、今のこの瞬間を大切にしなければいけないと思います。今のこの瞬間を大事にして、存分に味わって楽しむこと、そうすればよい思い出がきっとたくさんできることでしょう。

 別れがあれば出会いがあります。昨日の自分に別れて今日の自分と出会ったように、また新しい生徒たちと私も出会いました。□□くん、○○ちゃん、今月からよろしくね。一緒に楽しく勉強しようね。

 「また、先生のところに行ってもいい?月一回くらい。」「あれ?○○くん、また私のところに来てくれるの?もちろん、大歓迎だよ!」

 実は、○○くんとはそんなやり取りもありました。○○くんの中学校は遠いから、前みたいには来られないかもしれないね。私はずっと待っているから、いつでも来られるときに来てね。そして、一段とパワーアップした中学生の○○くんの姿を、ぜひ私に見せてください。

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2015年1月24日土曜日

「今、ここ」にあるということ

 先日ある生徒に、こんな質問をしてみました。「勉強ってなんのためにするんだと思う?」これは卑怯な大人の質問です。案の定、彼女はこう言いました。「将来希望する職業につくため」。この生徒は中学一年生。すなおで、コツコツと一生懸命勉強するまじめな女の子です。

 将来つきたい職業があるというのはすばらしいことです。そのような志をもって勉強するのは立派なことです。でも、そうやってする勉強はおもしろいかな?将来のことを考えながらする勉強って楽しい?勉強ってもともと、おもしろいものでも楽しいものでもないから仕方ない?それって本当ですか?

 この女の子は、勉強に時間をかけているわりには結果が出ないということでした。そこで、勉強方法を見直すと同時に、勉強するってそもそもどういうこと?と徹底的に話し合うことにしました。女の子はまじめなので、教えられたことをすべて覚えなければならないと考えているようでした。勉強するって覚えることなのでしょうか?

 勉強することの本質が覚えることだとすると、私はここまで長く勉強し続けてくることはできませんでした。覚えることが勉強だったなら、私にとってそれは難行苦行になってしまうからです。私が勉強し続けてこられたのはたぶん、勉強すること自体がおもしろかったからです。楽しかったから、やめられなかったということなのです。

 勉強することの本質を、私は、知ること、考えること、分かることだと思います。これらの要素のすべてには感動がともないます。知ることはうれしい、考えることは楽しい、分かることは喜ばしい。それらは幸せな感情です。

 ところが、もしも勉強とは覚えることで、しかも将来のためにやらなければならない義務だったとしたら、そのような幸せな感情とともに勉強することができるでしょうか?「~しなければならない」という義務観念は、気持ちを重たくしてしまいます。

 勉強すること自体を楽しむためには、とりあえず将来のことは考えないで、「今、ここ」に集中するとよいのではないでしょうか?「今、ここ」で知ることがうれしい、「今、ここ」で考えることが楽しい、「今、ここ」で分かることが喜びだ、そんな感じです。

 そうやって勉強すると心が動きますから、必然的にいろいろなことを覚えていきます。感動しながら知ったことは、忘れようとしても忘れることができません。「今、ここ」に集中して感動しながら学ぶと、結果的に、学んだことが知識として定着するのです。

 このような勉強の仕方は、勉強する時間を充実させるということです。自分の「今、ここ」の時間を充実させるということです。それは大げさに言うと、自分の生を充実させるということにもつながります。「今、ここ」に集中すると、ワクワク・ドキドキしてきます。

 「今、ここ」に集中する例としては、旅行することがあげられます。私たちは誰でも、旅先の土地に過去をもちません。いずれ住むことになる土地を下見に行ったのでもないかぎり、私たちの未来もそこにはありません。
 

 旅先で私たちは、まさに「今、ここ」に生きることに集中します。今、見ている景色が美しい、今、味わっている料理がおいしい、今、感じている空気が心地よい、知識と五感を総動員して、私たちは旅を楽しみます。旅における過去とは、せいぜい昨日会った土地の人であり、未来とは、明日行く名所のことであるに過ぎません。

 そうして私たちは、旅先で始終ワクワク・ドキドキしています。次に何に出合えるのか、誰と話ができるのか、何が起こるのか、そんな楽しい経験をするために、私たちは旅行するのです。

 同様の経験は、ライブのエンターテインメントを観にいったときにできます。前もって撮り終わっている映画などを観るのとは違って、「今、ここ」で起こっていることに立ち会うことになるからです。「今、ここ」では、何事も起こりえます。役者が間違うことも、オーケストラのトランペットが裏返った音を出すこともあります。観客の協力も必須です。観客の一人が妨害などしたら、その舞台は台無しになってしまいます。

 「今、ここ」の場ではそのように、一人一人に大きな責任があります。そんなことも、ワクワク・ドキドキの理由かもしれません。そうしてその場にいる全員で、知識と五感をとおして「今、ここ」にあることを楽しむのです。

 「今、ここ」に集中して勉強すると、旅や観劇と同様に、ワクワク・ドキドキしながら学ぶことができます。そしてその結果、感動しながら覚えることができます。勉強は本来おもしろいものです。楽しくてやめられないものです。そのためには、過去や未来にとらわれず、「今、ここ」に集中することが大事なのではないでしょうか?

 そしてそうやって勉強していった結果、知識が本当の意味で自分のものとなり、考える力が身について、将来の夢が実現するのだと、私は信じていいます。

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