2014年11月25日火曜日

どっちもいい!

* 引き続き南の島の人々のくらしについて学んでいます。(島はフィリピンにあります。)



アリー塾長    :   今日は、島の子どもたちの生活についてみていこうね。島には小学校があ
               るよ。あ、島の小学校では1年生から英語の勉強を始めるんだって。だか  
               ら6年生になると、みんな英語が話せるようになるんだって。すごいね。



生徒たち     :    (うなずきます。)



アリー塾長    :   お昼休みにはみんな家にもどってご飯を食べてくるんだって。給食がない    
               んだね。どう?みんなもそうしたい?



女の子      :    そうしたい。だって、うちで食べれば、嫌いなものを食べなくていいから。


アリー塾長    :    ○○ちゃんはお魚が嫌いだったっけ?



男の子      :    ぼくもうちで食べたい。ゆっくりできるから。



アリー塾長    :    学校では給食をゆっくり食べられないのかな?



アリー塾長    :    島の子どもたちは学校が終わると、みんなで集まって遊ぶんだね。いろ
                いろな遊びをしてるみたいだね。木登りをしたり、縄跳びをしたり、生きも
                のを捕まえたり、砂浜の砂を掘ったり、ままごともしてるね。みんなと同じ
                だね。



女の子      :     ゲームしてない。



アリー塾長    :    あ、ゲーム!確かにしてないね。○○ちゃん、ゲーム好き?



女の子      :    (うなずきます。)



アリー塾長    :    島の子どもたちは家の手伝いをよくするみたいだね。小さい子どもの面
                倒をみたり、料理の火をおこしたり、水くみや洗濯をしたり。島には水道も
                ないし、ガスもないんだね。火をおこすって大変そうだね。



男の子      :     火をおこすやり方を教えてもらったことがある!



アリー塾長    :     ○○くん、やってみた?



男の子      :     やらなかったけど、大変そうだった。



アリー塾長    :     島のくらしは自給自足だって。自給自足ってわかる?



女の子      :     食べるものとかを全部自分で作ったりとったりすること。



アリー塾長    :     そうだねえ。くらしに必要なものを全部自分たちで用意することだね。
                 この島は海に囲まれているし、一年中夏だから、食べるものはいつも
                 あるのかもしれないね。一年中夏ってどう?



女の子      :     いやだ!雪で遊べない!



アリー塾長    :     ○○ちゃんは雪で遊ぶのが好きだもんねえ。夏ばかりで冬がないと雪が
                 降らないもんね。


アリー塾長    :     私たちの住んでる日本には春と夏と秋と冬があるよね。こういうのなん
                 て言ったっけ?


女の子       :     四季。


アリー塾長    :     そうそう、四季!日本には四季があるけど、この島にはないよね?夏
                 ばっかりだ。どっちがいいと思う?この島に住みたい?


女の子      :      住みたくない!だって、冬がないと雪で遊べない!


アリー塾長    :      ○○くんは?


男の子      :      うーん、…。うーん、…。どっちもいい!どっちも楽しいことがあるから。




* 女の子の作文の一部です。


 わたしは、フィリピンの人に少しなってみたいです。なぜなら、みんなでいっぱいあそべるからです。でも、あまりなりたくないです。なぜなら、さかなは好きじゃないし、台風の時は、大変だし、あめもあびたくないからです。
(中略)
 でももしこの国の人だったら、たぶんみんなといっぱいあそんだり、台風のときもそうして(い)ると思います。


* 男の子の作文の一部です。


 
 ぼくはこのところ(この島)のくらしがいいなと思いました。木のぼりや(、)魚などをつかまえることができて、楽しそうだと思ったからです。でも、日本のくらしも春夏秋冬がありいいなと思いました。
(中略)
 家の家事(原文のまま表記しています。)をするのも楽しそうだと思いました。とくに火をおこすのが楽しそうです。いつも家の手伝いをしてひまはないので(、)つまらない時はないし(、)いいなと思いました。あらしがきたとき家のやねやかべがこわれてしまうので直すのが大変です。でも直すのが楽しそうです。ぼくがいちばん楽しそうだと思ったことは魚をとることと、食べることです。とるのは楽しいし、いろいろな種類の魚を食べ(ら)れてあきないなと思いました。いつかこの島にいってみたいです。


* アリー塾長の一言


 男の子の作文には、「楽しそう」、「楽しい」という言葉が6回も出てきます。彼の言うとおり、南の島でのくらしは本当に楽しそうです。毎日楽しくくらすというのはとても幸せなことです。島の人たちは幸せなんだろうなあと思います。
  
 それから、対話の中で、男の子は、四季のある日本のくらしも、夏だけの南の島のくらしも、「どっちもいい!」と言っていました。四季それぞれの季節を楽しめる日本と、エネルギッシュな暑い気候を一年中楽しめる南の島。どちらのくらしにもそれぞれのよさがあります。「どっちもいい!」というのは、まさに、「文化相対主義」の根幹にある考えです。


 女の子は、魚が嫌いだったり雪が好きだったりという個人的な理由で、南の島ではあんまりくらしたくないようです。でも、そこに生まれたら、そこの人のようにくらすだろうとも言っています。島の子どもになって、「みんなといっぱいあそ」ぶのはきっと楽しいことでしょう。


http://www.ko-to-ha.com/
                 

                

2014年11月7日金曜日

『赤毛のアン』に学ぶ、かわいそうな人にならない方法

 以前、邪悪なオーラをまとわないためには、かわいそうな人にならなければいいと書きました。今回は、それでは、かわいそうな人にならないようにするにはどうしたらよいのか考えてみます。

 「死刑囚の中に、こんなに恵まれた環境で育って、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと思うような人物は一人もいなかった。」

 法務大臣を経験したある政治家さんが、このように言っていたそうです。この言葉は、死刑囚のような、人を傷つける邪悪な人物はみんな、かわいそうな子ども時代をおくっていたということをあらわしているかもしれません。

 トルストイではありませんが、幸福な家庭はどこも似通っているけれど、不幸な家庭は様々です。経済的に恵まれていなかったり、難しい家族と暮らしていたりと、いろいろな事情が考えられます。問題が表面化しないだけで、かわいそうな子どもというのは、案外たくさんいるのではないでしょうか?

 かわいそうな人は邪悪なオーラをもっています。かわいそうな子どもは、やがてかわいそうな人になって、人を傷つけるという最悪のことをしてしまう場合さえあります。邪悪なオーラをもたないために、かわいそうな子ども、かわいそうな人にはならないようにしなければなりません。

 さて、ここに大変よいお手本があります。『赤毛のアン(L・M・モンゴメリー作)』のアンです。ご存知のように、アンは赤ちゃんのときに両親が死んで、知り合いのうちを転々としたのち、孤児院に入れられ、その後、グリーンゲイブルスに引き取られました。

 アンは典型的なかわいそうな子どもでした。でも、『赤毛のアン』を読んだ人ならだれでも、アンには邪悪なオーラなんてなかったと言うでしょう。私もアンには、邪悪なオーラの存在をみじんも感じません。人が見たらかわいそうなアンは、かわいそうな子どもではなかったようなのです。

 アンをもっともアンらしくしていたのは、「想像力」です。アンはつらい境遇の中、「想像力」を発揮して、その状況を楽しみます。ガラスの扉に写った自分の姿を、友達になぞらえて話しかけてみたり、自分の着ている粗末な服を、美しい絹の服だと「想像」してみたり。「想像」することによって、アンは楽しく幸せな気分になることができたのです。

 アンは自然の美しさを楽しむのも天才的です。白い花が満開のリンゴ並木に「雪の女王様」と名付けて、アンはうっとり見とれます。また教会の窓から見えるきらめく池の面には見飽きることがありません。美しい自然を与えてくれた神様に、アンは深く感謝します。そして、そのようなアンの感性や、中でもアンの最高の持ちものである「想像力」は、やがてまわりの人々をも魅了していきます。

 もっとも、アンにも自分の境遇を嘆くことはあります。初めてグリーンゲイブルスに来たとき、男の子じゃないからいらないと言われ、アンは大きな声を出して泣き、悲しみます。でも嘆くだけ嘆いたあと、アンは静かに自分の運命を受け容れます。

 運命を受け容れたあとで、アンはだれを恨むでも、何を呪うでもなく、「想像力」を友として、再び生きることを楽しもうとします。そのまま孤児院へ帰されることになるかもしれない馬車でのドライブの途中で、アンは、「私、このドライブを楽しむことにするわ!」と言って、マリラを驚かせるのです。

 そんなアンはかわいそうな子どもでしょうか?アンはかわいそうな子どもではありません。なぜならば、アン自身が自分のことをかわいそうだと思っていないからです。かわいそうな自分の運命をひとたび受け容れたなら、もう自分のことをかわいそうだと思う必要はありません。木々や草花は美しいし、「想像力」を駆使すれば、世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるのですから。

 このようにアンからは、かわいそうな人にならない優れた方法を学ぶことができます。アンの物語は、かわいそうな人にならないためにはまず、かわいそうな自分の運命を充分嘆き、受け容れることが必要だと言っています。そしてその後は、「想像力」を使ってでも、美しいものに感動し、生きることを楽しむことが大事だとおしえてくれます。

 アンは持ち前の「想像力」で、厳しい境遇の下、いつも幸せな気分でいることができました。アンの幸せな気分は、人を惹きつけ、いずれみんなを幸せな気分にしていきます。その結果、アンは「想像力」を使わなくても本当に幸せな少女になっていきます。

 アンは憧れのふくらんだ袖の服が欲しくて、ふくらんだ袖の服を着ている自分をいつも「想像」していました。すると、ある年のクリスマスに、マシューが美しいふくらんだ袖の服をプレゼントしてくれます。「想像」とはこのように、いずれ現実のものとなるすばらしい夢の集積のことを言うものなのかもしれません。


* L・M・モンゴメリー著、村岡花子訳、『赤毛のアン』、新潮文庫ほか。

http://www.ko-to-ha.com/








 
 

 

2014年10月18日土曜日

文化ってなに?

* 小さな南の島の人たちのくらしについて学び始めました。島の人たちは、私たち日本人とは異なった文化をもっています。

アリー塾長   :   「文化」って言葉を知ってる?

生徒たち    :   (うなずきます。)

アリー塾長   :   じゃあ、「文化」ってなに?説明できるかな?

男の子     :   えっと…、なにか、その国だけにあるもの…。

アリー塾長   :   ああ、そうだねえ、まずはそんな感じでいいかな?じゃあ、どんなものが「文  
              化」だと思う?なにか、具体的なものをあげられる?

男の子     :   和食…。

アリー塾長   :   ああ、いいねえ。そうだねえ。それは「文化」だねえ。ほかにはないかな?
             

女の子     :   着物?

アリー塾長   :   あ、そうそう、それもりっぱな「文化」だね。ほかは?まだまだたくさんあるよ。

女の子     :   お正月にやるバドミントンみたいなやつ…。

アリー塾長   :   ああ、羽根つき?そうだねえ、それも「文化」だ。羽根つき、凧揚げ、コマ回 
              し、遊びはみんな「文化」だよ。

              ほかにはもう出てこないかな?「文化」たくさんあるよ。ほら、これも「文化」
              だ。(畳を指さして、)畳!これも「文化」。

              (正座して、)それからこれも「文化」、正座!(そのままおじぎして、)これも
              「文化」。日本人はこうやってあいさつするけど、違う国の人はこういうあいさ
              つをしないよ。

              衣食住、着るもの、食べるもの、住むところ、すべてが「文化」。それから、い
              ろいろな決まりや規則、お祭りなんかも「文化」。言葉ももちろん「文化」だ
              よ。


              じゃあ、辞書で、「文化」っていう言葉を調べてみよう!

* 「文化」の意味は、みんなの小学生用の辞書には簡単にまとめられていました。大人用の辞書にはもう少し詳しく書いてあります。たとえば三省堂の『大辞林』には次のように書かれています。

 
① 社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低、優劣の差はないとされる。

② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神活動から生み出されたもの。

* アリー塾長の一言

 私にとって、「文化」という言葉はすべての言葉の中でも、もっとも興味深い言葉の一つです。「文化」が、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」だとすれば、「文化」とは、人間が生きていくためにするすべての工夫のことではないでしょうか?「文化」は、人間の生き方すべてにかかわっているものなのです。

 そうであるとするならば、「文化」は、人間が幸せに生きていくための助けであってほしいと思います。『大辞林』の解説にもあったように、「文化相対主義」は、個別文化の間に高低、優劣はみとめず、すべての文化を尊重します。ですが、そのような個別文化の中には、その文化圏に生まれた人をかならずしも幸せにしないようなものもあるのです。

 現在でもアフリカの一部地域などに残っている女子の割礼が、そのような「文化」の一例です。女子の割礼は、割礼を受ける思春期の少女の人権を侵害するだけでなく、劣悪な衛生環境下でおこなわれるため、健康被害を引き起こし、ときには施術を受ける少女の命を奪うことさえあるそうです。

 この女子の割礼については以前から問題視がされており、当事者の女性が声をあげるなどして、反対活動もおこなわれています。しかし、その地域の一部の人々は、割礼は「文化」であり、伝統であるとして、廃止するわけにはいかないというのです。

 同様に、私たちの「文化」の中にも、私たちを幸せにしてくれないものがあるかもしれません。「文化」は、生まれた時から私たちの周囲にあり、当然のこととして私たちの生活になじんでいます。ですから、そのような「文化」を疑うことはとても難しいのですが、時々問い直してみる価値はあるのではないでしょうか?

 「文化相対主義」自体に問題はありません。すべての個人が尊重されるのと同様に、すべての個別文化は尊重されるべきです。けれども、尊重される「文化」が人間を幸せにする「文化」であったなら、もっともっといいなあと私は思うのです。

 
 
http://www.ko-to-ha.com/
 


     

2014年10月6日月曜日

邪悪な心


 写真は「イーブル(Evil)」の像です。ロンドンのウエストミンスター寺院の売店で買ってきました。「イーブル」の意味は「邪悪な」です。theをつけて、「悪魔」という意味もあります。

 先月の毎日新聞に、おそろしく鋭い、こんな詩が載っていました。

 びんぼう神

                                くらとんぼ

 ぼくはいつも
 かわいそうな人をみているんです
 みていると
 ぼくはかわいそうな人から
 じゃあくなオーラをかんじます

 ぼくにもじゃあくなオーラ
 があります

 きっときみにもかわいそうなとき
 じゃあくなオーラがあります
 「フフフ」しつれいしました

 作者は、佐賀県鹿島市・明倫小学校5年の一ノ瀬祐太くんです。

 
 この詩を読んだとき、私はびっくりしました。どうしてこんなすごい真理を、これだけ簡潔に、あますところなく表現できるのでしょう?

 そうです。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうな人」にあるのです。「じゃあくなオーラ」は、その人が「かわいそうなとき」にあるのです。

 新聞記事の講評には、「人間には、やさしい気持ちとじゃ悪な気持ちが二つともある」、「でも人間だからじゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」とあります。これは大人が書いた意見です。でも、ほんとうでしょうか?

 「くらとんぼ」さんは、「じゃあくなオーラ」が、いつでも、誰にでもあるとは言っていません。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうなとき」、「かわいそうな人」にあると言っているのです。

 ではどうして「かわいそうな人」、「かわいそうなとき」には「じゃあくなオーラ」があるのでしょう?

 「かわいそうな人」は「かわいそうなとき」、「どうして自分だけこんなひどい目にあわなきゃいけないんだ!」と神様に文句を言ったりします。「世の中は不公平だ」と、まわりの人にあたったりもします。「誰もわかってくれない、誰も助けてくれない」と言って、人を恨んだりします。そんな人には確かに、「じゃあくなオーラ」が満載です。

 一方、「かわいそうな人」の中には我慢をする人がいます。つらかったり悲しかったりしているときに、つらいとも悲しいとも言わず、そんな状況にじっと耐えて、明るく親切にふるまったりします。自分のことはさておいて、人にはやさしくしないといけないと思っているのです。そんな人には一見「じゃあくなオーラ」はないように見えます。

 でも実は、文句を言っても我慢をしても、結果は同じです。どっちの人にも「じゃあくなオーラ」があるのです。

 残念ながら、「かわいそうな人」は誰でも、自分の不幸を見つめているうちに、ほかの人たちの幸運がうらやましくなります。うらやましいだけでなく、妬ましくなります。そうして怒りがわいてきて、ほかの人たちも不幸になればいいと思い始めるのです。

 文句を言っても我慢をしても、「かわいそうな人」にはものすごい怒りがたまっています。「かわいそうな人」は怒りから、自分以外の人たちの不幸も願うようになっていくのです。我慢をする人は、「自分はそんなことはない」と言うかもしれませんが、やっぱり、「自分が不幸なら、みんな不幸であってほしい」と心のどこかで思っています。そうして「じゃあくなオーラ」を放つのです。

 だから、新聞の講評にあった、「じゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」というのは違うのではないかと思います。少なくとも、「じゃ悪な気持ちを抑え」ることは根本的な解決にはなりません。「じゃあくなオーラ」を放たないためには、「かわいそうなとき」に、「かわいそうな人」にならないことしかないのです。

 「かわいそうなとき」に「かわいそうな人」にならないためには、工夫が必要です。それは場合によってはそんなに簡単なことではないかもしれません。でも、それができる人は確かにいます。私もそんな人たちを見て、「かわいそうな人」にならない方法を学びたいと思っています。人のものであろうと自分のものであろうと、「じゃあくなオーラ」なんてまっぴらですから。

http://www.ko-to-ha.com/

2014年9月23日火曜日

研究への第一歩

* アカオニグモと、そのエサになる虫たちの生態について学びました。アカオニグモは、網をはって、エサになる虫がかかるのを、葉っぱのかげの隠れ場所にひそんで、じっとしんぼう強く待
ちます。

  学んでいくと、いろいろな疑問がわいてきます。作文には、その疑問を書いてもらいました。

* 男の子の疑問と、それに対する仮説です。

 (疑問の)一つはヒラタアブがクモのあみの前で急に止まりくるりと方向をかえられたことです。自由に飛ぶ方向をかえられたとしてもたまたまとは思えません。アブは目がよく細かく見えるのです。なのであみが見えたのかもしれません。でも人間にも、クモのすが見えないことがあるのでふしぎです。

 もう一つは、クモは飢えにとても強く何も食べなくても水さえあれば何十日も生きていけるのですごいと思いました。でもなぜ何十日も何も食べなくて生きていけるのかとてもぎ問に思います。

 ぼくは、クモと人間は体の作りがちがうんだなと思いました。クモは人間より虫がとれることが少ないから(人間にはいつも食べものがあるけれど、クモはなかなかエサを取れないから)、(何も食べなくても)何十日も生きていけるんだと思います。

* 女の子の疑問と、仮説です。

 わたしは、クモがカメムシをつかまえて、いとをぐるぐるまきにして、かくればしょにはこんでいくときに、すべったりして、おちないのかなと思いました。

 わたしはクモは目があまりよくないのかなと思いました。なぜなら、クモは、ムシがあみにひっかかったときのゆれで、ムシがひっかかったとわかるからです。ほかにもクモは、かかったムシをすぐにみつけられないからです。

* 作文を書いてもらった後で、話し合いをしました。

アリー塾長     :     みんなはクモになりたい?クモになって、網をはって、虫がかかるのを
                  じっと待てる?

女の子        :     ええーっ?やだあ…。

アリー塾長     :     じゃあ、何にだったらなってもいい?

女の子        :     犬とか猫とか…。飼われてる犬とか猫とか。

アリー塾長     :     ○○ちゃんはどうして犬とか猫になりたいの?

女の子        :     自由だから。宿題とかもないし…。

アリー塾長     :     確かに、猫なんかは気ままに暮らしてるよねえ。
                  ○○くんは何にだったらなってもいい?

男の子        :     ぼくはアリ。夏に一生懸命働いて、ためたものを食べて冬過ごす。
                  (イソップの「アリとキリギリス」の影響かな?)

アリー塾長     :     アリになりたいんだ?

男の子        :     人間じゃない生きものは、自然の中だけで生きていけるからいい。

アリー塾長     :     ああ、なるほどー、おもしろい考え方だねえ。そうだねえ、人間以外の
                  生きものは自然の中だけで生きていけるよねえ。自然の中だけのも 
                  のを使って、自然の中だけのものを食べて。

                  人間は人工的に作ったものの中で生きているよねえ。それがなかっ
                  たら生きていけないよねえ。○○くんは自然の中で生きていきたいん
                  だ。

男の子        :     うん。

アリー塾長      :     人間も、なるべく自然の中で、自然と一緒に、自然に近い生き方が  
                   できるかもしれないよ。○○くん、将来研究してみたらどうかなあ。
                   ○○くん、虫も好きだったよね?

男の子         :    (うなずきます。)

アリー塾長      :     大学の農学部でそういう研究ができるよ。

* ところで…

 女の子の作文にはこんな一節がありました。

「(なかなか結果がでなかったら、私はかんさつを)あきらめると思います。なぜなら、虫がたくさんいてきもちがわるいし、はちとかがいて、さされそうでこわいし、ガとかハエはきたないからです。」

 これはこれで、正直でとてもよいと私は思いました。嫌いなものは嫌いです。好きになるときがくれば、そのときに観察すればよいのです。何はともあれ、とりあえず自分の正直な気持ちに向き合わないと、本当の意味で先には進めないと思います。

* アリー塾長の一言

 研究は、まずは疑問をもつことから始まります。どうなっているのか、どうしてそうなのかと考えることが第一歩です。次に、どうなっていそうか、どうしてそうなるのか、自分で理由を考えて、仮説をたててみます。そうして、たてた仮説にもとづいて、実験や観察や調査をおこないます。実験や観察や調査の結果、仮説が正しかったり、間違っていたりすることが証明されます。

 今回の作文には、疑問と仮説がそれぞれ書かれていました。みんな、研究への第一歩を疑似体験することができました。

 ところで、○○くんの「自然の中だけで生きていける生きものになりたい」という意見には感動しました。自然の中だけで生きていければ、環境破壊をすることもないでしょう。○○くんには、ぜひ、人間もそのような生きものに近い生き方ができるようになる研究を将来してもらいたいものです。

http://www.ko-to-ha.com/


              

2014年9月8日月曜日

本はなんの役に立つ?

 「華氏451」(1966年、イギリス・アメリカ)という映画を観ました。監督は私の大好きなフランソワ・トリュフォーです。トリュフォーにはすばらしい作品がたくさんあります。中でも「恋のエチュード」は何度観ても飽きません。それから、「トリュフォーの思春期」は、トリュフォーの子どもたちへの愛情が遺憾なく発揮された感動的な作品です。

 映画監督としてのトリュフォーですが、たとえば「恋のエチュード」と「トリュフォーの思春期」がずいぶん違った趣を持っているように、その守備範囲はとても広いという印象をあたえます。「華氏451」も、またその二作品とはまったく異なったテーマを扱っています。

 「華氏451」の原作はSF作家のレイ・ブラッドベリです。時代は近未来。映画の画面は当時としてはすこぶるモダンな雰囲気を出していて、室内の装飾も役者の衣装もとてもおしゃれで、合理的な美しさを表現しています。家電製品も現代的で、テレビなども薄型の大画面で、今見ても違和感がありません。

 そして肝心の内容ですが、これが焚書、つまり本を読むことが法律で禁止されており、本を持っていると、見つかって燃やされてしまうという世界の話なのです。華氏451とは、その温度になると本が燃え始める温度なのだそうです。本を燃すのはなぜか消防士です。人々は不燃物でできた家に住んでいるので火事はおこりえず、消防士はもっぱら本という「火」を消し続けます。

 主人公はその消防士です。彼は何の疑問も持たずに本を燃やす毎日でしたが、ある時、本を愛好する一人の女性に出会って、本の魅力に目覚めます。妻とも別れ、仕事も失って、彼は本を愛する人々と合流して、林の中、川のほとりで本を暗誦しながら隠れ住むようになります。

 この映画のような世界はもちろん現実にはありえません。ですが、このようなフィクションは現実のとある細部を拡大して見せてくれます。この映画の場合は、読書の禁止と焚書というテーマでもって、本の持つ意味と役目について考えさせてくれるのです。

 映画の中で、主人公は本を読むことに目覚め、すっかり夢中になっていきます。そしてある日、自宅に集まっていた妻の友人たちの前で小説を朗読します。すると、その中の一人が突然すすり泣きを始めます。彼女は「感情がこみあげてきて。」、「こんな感情忘れてた。」と言いながら帰っていきます。

 このエピソードは、本はまず人間の感情にうったえるものだということをあらわしています。泣くのですから、心地よい感情とは言えません。悲しみの記憶が呼び覚まされたのでしょう。では、不快な気持ちにならないように、本は読まなければよいのでしょうか。

 主人公の上司は、哲学書を前に、「こういうものが一番いけない。こういうものを読んで、人よりものがわかったと思うようになるのがいけない。」、「人間は同じでないといけない。平等でないと幸せを感じないからだ。」と言います。

 主人公の上司の言葉からは、本を禁止するのは、人々に幸福感を感じさせ続けるためだということがわかります。そしてその幸福とは、感情を乱されず、淡々と暮らすこと。何かを知って不安になるより、知らないで平穏でいること。みんな同じように、何も感じす、何も考えず、何も知らないでいることが幸福だというのです。

 私は私の生徒の一人とこんな対話をしたことがあります。「書かれている文章は、究極的には、全部人間のことについて書かれているよ。人間は人間に興味がある。だから、本を読むんだよ。」…「人間はみんな幸せになりたいんじゃないかな?だから、本を読むんだよ。」私は言いました。

 彼は、「本を読んで、参考にする…。」と言いました。「参考にする」、そう、たぶんそうです。たとえ気持ちを乱されても、自分で感じて、考えるために本を読むのです。そうやって心と頭を使って、時間をかけて、自分に合った幸せを見つけていくのが本当の幸福への道ではないでしょうか。

 映画は、主人公と隠れ住む人々がいつまでも、本の内容を暗誦しながら、雪の降る林の中を行き交う様子を映し出して終わります。文章は、声を出して読まれることによって体を獲得し、生きはじめます。まさに文体として、そこに立ち上がるのです。それが象徴的に映像として表現されていて、実に感動的なラストシーンです。

http://www.ko-to-ha.com/
 

2014年8月23日土曜日

お母さん、いつも幸せでいてね

 


 読書感想文の季節です。私も生徒と一緒に、課題図書の一冊を読んでみました。『かあちゃん取扱説明書』(いとうみく作・佐藤真紀子絵、童心社、2013年5月。)です。

 『かあちゃん取扱説明書』の主人公、哲哉はいつもかあちゃんに怒られてばかり。哲哉にも言い分があります。だから、そんなかあちゃんのことを作文に書きました。そうしたら、先生にはほめられるし、とうちゃんには大爆笑されます。

 とうちゃんは言います。「扱い方を間違わなければ、かあちゃんをあやつるのなんて簡単だ。」かあちゃんにも機械と同じように、取扱説明書を作ればいい!哲哉は「かあちゃん取扱説明書」をつくることを決心します。

 哲哉のトリセツは、役に立ったんだか立たなかったんだかよくわかりません。トリセツどおりにやって、うまくいったような時もあれば、うまくいかなかったような時もあります。かあちゃん自身も、哲哉にはあいかわらずでも、職場では強くて優しくてかっこいいし、なんだかよくわかりません。とにかく、かあちゃんの気分をよくしてやりさえすればいいみたいなのですが。

 そんなある日、哲哉はかあちゃんが大切にしているゴブレットを壊してしまいました。てっきり怒られると思った哲哉でしたが、かあちゃんは怒りません。哲哉は翌日からお手伝いを一生懸命します。かあちゃんは毎日楽しそうです。

 その日の夕飯のおかずは焼き肉でした。哲哉ととうちゃんにだけお肉を食べさせながら、かあちゃんは宣言します。「私は本場の韓国で焼き肉を食べるからいいの!」韓流ファンのかあちゃんは、ひそかに韓国旅行を計画していたのです!

 かあちゃんのきげんがよかったのは、韓国旅行が楽しみだったからです。哲哉がいい子になってお手伝いをしたからではありませんでした。ゴブレットを壊しても怒らなかったのは、かあちゃんを韓国旅行が待っていたからなのです。

 

* 生徒が書いた『かあちゃん取扱説明書』の感想文の一部です。

「私は哲哉がかあちゃん取扱説明書をつくった理由がわかります。おかあさんにおこられると悲しいからです。私もおかあさんにおこられると悲しいです。」
「私は、かあちゃん取扱説明書はいらないなと思いました。かあちゃんは韓国旅行が楽しみだからきげんがよかったからです。」
「私のおかあさんもいつもきげんがいいといいなと思いました。」

 この本を読むと、お母さんが子どもの振る舞いにイライラして腹をたてるのは、本当は、子どもの責任じゃないということがわかります。お母さん自身が毎日楽しく暮らしていれば、子どもの失敗も大目に見て、優しく導いてやることができると、哲哉のかあちゃんの例がおしえてくれます。

 童心社のホームページで、小説家の越水利江子さんは、この本の感想を次のように言っています。

 「どう生きたいか、どう生きるかは、子どもも大人も、自分自身で覚悟を決めなけらばならないのです。誰かによりかかって生きるのではなく、自分の生き方を見つけて一人でも頑張る。家族の幸せはそこからはじまるのだと…。」

 越水さんの感想は、この本のもっとも核心的な部分を読み込んでのものだと思います。哲哉のかあちゃんは、韓国旅行という楽しみを見つけて、自分自身の幸せを追求します。それは決して自分勝手なことではなくて、そうするからこそ、家族にも優しくなれて、みんなが幸せになれるのです。

 本には、哲哉の友達のカズオも出てきます。カズオのお母さんは一見優しいいいお母さんだけど、実は子どもにかまいすぎで、かえってカズオに嫌がられています。ですが、そんなカズオのお母さんも、昔からの夢だったお菓子屋さんで働くことになり、自分自身の生きがいを求めるようになります。

 越水さんの言うように、どう生きるかを自分で決めるのには覚悟がいります。自分で決めることなので、他人のせいにはできないからです。反対に、他人を言い訳にして自分の生き方をしないで、「誰かによりかかって生き」れば楽ですが、そのような生き方は誰も幸せにしてはくれないでしょう。

 
 自分の楽しみを見つけて幸せになることはよいことです。「お母さん、いつも幸せでいてね。」というのは、子どもの切なる願いだと私は思います。


 
 
http://www.ko-to-ha.com/

 

 

2014年8月10日日曜日

いつか行く旅



* 夏休みの特別企画として、「いつか行く旅」の計画を立ててみました。

 
 旅行会社の店頭から、旅行のパンフレットをたくさんもらってきました。ガイドブックもあるだけ集めてみました。いつか行ってみたいところはどこでしょう?

 旅は3回楽しめると言った人がいます。行く前と、行っているときと、帰ってきてからだそうです。その人は、「行く前は計画を立てて、準備をするのが楽しい。実際に行っているときはもちろん楽しい。そして、帰ってきてから、写真を整理したり、おみやげを配ったりするときに楽しかったことを思い出してまた楽しい。」と言っていました。

 今回は、旅の最初の楽しみ、計画を立てる楽しみを味わいます。

アリー塾長   :   今日はいつか行ってみたいと思っているところへ行く旅行の計画を立てても
              らうよ。旅行のパンフレットやガイドブックがたくさんあるから、行きたいところ
              を選んでね。
              (みんな、口元で小さく笑いながら、顔を見合わせてパンフレットを探りま
               す。)

* 行き先は、イギリス・ロンドン、屋久島、沖縄、ハワイ(沖縄とハワイは一人が二か所選びました。)となりました。

アリー塾長   :   行き先は決まったかな?じゃあ、計画を立ててもらうよ。計画を立てるときに
              考えることを書くから、それを見ながら書いてね。

* 計画を立てるときのポイントをあげます。

① 行き先 … どうしてそこへ行きたいのか
② いつ行くのか … 何月何日
③ どのくらいの期間 … 何泊何日
④ だれと行くのか … 全部で何人
⑤ どこ・何を見学するのか … 名所・旧跡、そこの博物館にしかない展示品など
⑥ 行った先で何をしたいのか … そこでしかできない遊びや体験など
⑦ どこに泊まるのか … ホテル、旅館、民宿、ホームステイ、ユースホステルなど
⑧ おみやげ … 買って帰りたいもの
⑨ 食事 … そこで食べたいもの
⑩ 交通 … 電車、飛行機、バス、車など
⑪ 予算 

* 一人目の女の子の沖縄旅行の計画です。

行き先 … 沖縄
        8月23日出発のジャングルピクニックツアー
行きたい理由 … カヌーをこいでみたいし、いろいろな木とかを見たいから。
期間 … 3泊4日
見学することろ … 川(川がきれいなのか?)
泊まるところ … ホテル
だれと行くのか … 家族
交通 … 沖縄では車
予算 … 200,000円

* 女の子は水と泳ぐことが大好きです。旅の行き先も沖縄、ハワイ、と、楽しく泳げるところが  選ばれました。ハワイでは、大好きなプールに行って、「すべりだいですべって、プールにいきおいよく入りたい」そうです。カヌー漕ぎもとても楽しそうですね。

* 男の子の屋久島旅行の計画です。

行き先 … 屋久島
行きたい理由 … 世界遺産を見て、つりをしたり、海で泳いだり、魚を見たりしたい。
泊まるところ … ホテル・山や海などの景色がよいところ。
だれと行くのか … お父さんとお母さんと行く。
行ってみたい・見てみたいところ … トローリのたきを見たり、屋久島をまわりたい。
食べたいもの … 屋久島にしかない食べもの、魚
交通 … 飛行機・レンタカー
いつ行くのか … 6月22日~26日、3泊4日
予算 … 272,900円(3人分)

* 男の子はつりが好きです。この夏も家族でつりのできるところに旅行するそうです。屋久島の世界遺産のことはどうして知っていたのでしょう?この日はお母さんとお会いできたので、「帰ったら二人で、屋久島のことについてたくさん会話をしてください。」とお願いしました。

* 二人目の女の子の行き先はイギリス・ロンドンです。

行き先 … イギリス
行きたい理由 … 国会議事堂とビッグベン、バッキンガム宮殿を見たいから。
期間 … 5泊7日、4月13日~19日。
やってみたいこと … おいしいものを食べて有名なものを見る。

* この女の子は、以前、古い建物を見るのが好きなので、海外、特にイギリスや北欧に行ってみたいと言っていました。女の子はこのごろ英語の勉強にもう一つ身が入らないとのこと。イギリスはもちろん、英語ができると海外旅行が飛躍的に楽しくなります。いつか行く旅を目標に、英語、がんばってみようね!

* アリー塾長の一言

 みんなまだまだ、世界にはどんな国があって、どんな人が住んでいるとか、日本にはどんなところがあって、どんなすばらしいものがあるとかいうことをよくわかっていません。これからいろいろな地域について学んでいって、ぜひ、いつか行く旅の旅先に、そういうところを選んでもらえるといいかな?と思います。

http://www.ko-to-ha.com/

2014年7月28日月曜日

寛容(tolerance)と寛容(generosity)

 先日は、教養を身に着けることが寛容さを育てるということを書きましたが、「寛容」という言葉について、そのとき思い出したことがあります。英語には、日本語で「寛容な」と訳される言葉が二つあるということです。tolerantとgenerousです。

 もともと英語には、ゲルマン語から来た言葉とラテン語から来た言葉とがあり、同じような意味を持つ二つの言葉が何組も存在します。torelantとgenerousもそのような言葉で、どうやらgenerousのほうがラテン語由来のようです。

 私がtolerantとgenerousの違いについて考えることになったのは、英会話を習っていたときのことです。当時の私の先生は、大学を卒業したばかりの若い黒人の女性で、メジャー(専攻)が何であったかは忘れてしまいましたが、マイナー(副専攻)が文化人類学で、日本文化を学んだということでした。

 先生は、黒人であり、女性でもあったので、差別意識ということに敏感だったのかもしれません。私との会話の中でも、ときどき差別についての話題が出ました。たとえば、「黒人の場合、スポーツやエンターテインメントのカテゴリーの中で話題にされ尊敬されても、決してintelligentと言われることはない。」などと言っていたのです。

 そんな先生と、あるとき、このtolerantとgenerousの違いについて話し合うことになりました。先生は、tolerantのほうが使われる状況として、こんな例をあげました。「レストランで、白人の紳士が一人で食事をしているところに、黒人が来て近くに座る。白人の紳士は「ちょっと嫌だな」と思ったけれども、そんなそぶりは見せずに、普通に食事を続ける。そんなときに使うのがtolerantよ。」

 その白人の紳士は、私のようなアジア人が行っても、同じようにtolerantな態度をとるんだろうな、と思ったら、少し複雑な気分になりましたが、なるほど、toleranceとは、相手のために、本音を隠して我慢して見せる寛容さなんだなと合点がいきました。そういえばtoleranceを辞書で引くと、「我慢」という訳語も出ています。

 では、generousはどうなんでしょう?英語の先生は、「無理しなくても受け容れられることよ!」と明快でした。本当は嫌だけどそれを態度に表わさないのではなく、そもそも嫌だとも思わないのがgenerousのようです。

 「じゃあ、イエス・キリストはどっち?tolerant?それともgenerous?」私は聞きました。「もちろん、generousよ!キリストはtolerantになる必要なんてないわ!」先生の答えは多くのことを暗示しています。キリストがgenerousなら、愛するということがgenerousの基本にはあるということだからです。

 教養は、toleranceという意味での寛容さを身に着けるためには有効です。知識は、あらゆる立場の人たちのことを理解させ、その人たちを嫌悪することにはまったく正当性がないことを教えてくれます。しかし一方で、知識や教養、そして理性というものは、私たちのもつ感情というものを置き去りにします。

 そう考えると、教養を身に着けてtolerantになるだけではなく、いずれは心からの寛容=generosityを目指したいと思うのも必然です。少しずつでも、無条件で受け容れる、無条件で愛するということができるようになっていきたいものです。

* tolerant(形容詞)寛容な ・ tolerance(名詞)寛容
 

  generous(形容詞)寛容な ・ generosity(名詞)寛容

  intelligent(形容詞)知的な

http://www.ko-to-ha.com/
 
 

2014年7月16日水曜日

教養と寛容

 本格的な夏が始まりました。暑くて大変ではありますが、夏から大きなエネルギーをもらって、何かができそうな、何かがおこりそうな、そんなワクワクする季節でもあります。夏と言えば旅行!私にもたくさんの旅行の思い出があります。

 旅には過去も未来もありません。旅行者は、旅先のその土地に過去をもちませんし、またその土地に未来も予定されていません。旅は、純粋に、「今、ここ」を生きる経験なのです。だからこそ、旅は自由で楽しい!過去にとらわれることもなく、未来を憂える必要もないのです。

 ところが、私は、旅が自分以外の人たちの過去に影響されてしまうということを経験したことがあります。

 ずいぶん前のことになりますが、春先のオランダを旅行しました。連れと二人だけでまわる、いわゆる個人旅行だったので、現地で見つけたツアーの観光バスに乗って、キューケンホフ公園にチューリップを見に行きました。そのときのことです。

 バスに東洋人は私たち二人だけでした。すると、観光バスのガイドが、私たちを終始無視するのです。ガイドは、おそらく当時60歳は超えていたと思われる年配の男性で、英語、ドイツ語、フランス語をたくみにあやつり、乗客を巻き込んで冗談を言いながらガイドをするのですが、私たちとは目も合わせません。

 とても不愉快かつ悲しい気分で帰国し、私は、通っていた大学院の文化人類学の先生に質問してみました。「旅先のオランダで嫌な思いをしたのですが、オランダ人は日本人が嫌いなのですか?」先生は、「第二次世界大戦のときに、オランダ領だったインドネシアを占領しましたからねえ。日本人を嫌いなオランダ人はいるでしょう。」とお答えになりました。

 「こう言ってはなんですが、そのとき、そのガイドがさかんに話しかけていた乗客の女性たちは、あんまり教養がなさそうで、品のいい感じではなかったんですよ。」と私が言うと、「そりゃそうですよ。教養というのはそういうものなんですから。教養というのは、そういう偏見をなくすために身につけるものなんです。」と先生はおっしゃいました。

 大学院と名の付くところに在籍していながら、「教養」ということについて、あらためて考えたこともなかったのですが、なるほど、そうだったのですね。このときの先生のお言葉は深く心に刻まれ、長く私を導き続けてくれました。

 オランダ人バスガイドの態度は、単なる人種差別だった可能性もあります。ですが、いずれにしても、ある種の偏見が彼にそのような態度をとらせたのです。彼はきわめて主観的な感情を、そのまま態度にしてあらわしてしまっていたのです。残念ながら、それを知性的な態度と言うことはできません。

 教養とは、社会のさまざまなことを理性で理解することによって、主観的な感情や感覚を留保するために身につけるものです。異なった人、異なった文化に接する際に偏見をもたないためには、相手のことについて正しく理解する努力をしなければなりません。教養は寛容を生みます。寛容は他者との共存のために、なによりも大切な心がけです。

* 「教養」について教えてくださった先生は、当時、文化人類学の第一人者でいらっしゃった綾部恒雄先生です。残念ながらすでにお亡くなりになりましたが、先生の著書を読むことはできます。今考えると、先生のお答えは、いかにも文化人類学者らしいものです。異文化理解のための本として、参考書を一冊以下にあげます。

『文化人類学の名著50』、綾部恒雄編、株式会社平凡社、1994年4月。

http://www.ko-to-ha.com/

 

2014年7月9日水曜日

合図

 「合図」について学びました。

 合図というのは、言葉で言うのとは別の方法で、だれかに何かを伝えるためにするものです。信号も、救急車のサイレンも、だれかに手を振るのも、呼び鈴を鳴らすのも、みんな合図です。唇に指をあててシーッと言うのも、耳の聞こえない人や声の出ない人が、手を使って話す手話も合図です。すべての合図が意味をもっています。

アリー塾長     :     みんなのまわりにもいろんな合図があるよねえ。どんなのがある?

女の子        :     パン屋さんに行ってドアを開けると、チリンチリンってベルが鳴る。

アリー塾長     :     ああ、あの新しくできたパン屋さん?
                  ベルが鳴って、何を知らせているんだと思う?

女の子        :     うーん?

アリー塾長     :     ベルが鳴ると、だれかが来たことがわかるよね?ベルが、「お客さん
                  が来ましたよ!」って知らせてるんだよ。
                  (女の子がうなずきます。)

男の子        :     夕方になると「夕焼けチャイム」が鳴る。(夕方になると、「夕焼け小焼
                  け」のメロディが流れてくる、あれです。)

アリー塾長     :     ああ、それは、「もう夕方だから、おうちに早く帰りなさい。」って言って
                  るんだよねえ。みんなは「夕焼けチャイム」でおうちに帰るのかな?

女の子        :     チャイムが鳴る前に帰る。

アリー塾長     :     そう?「夕焼けチャイム」は○○ちゃんの帰る時間より遅い時間に鳴る
                  んだね。

男の子        :     ぼくもチャイムより早く帰る。

アリー塾長     :     そう。

女の子        :     「夕焼けチャイム」は、夏と冬で違う時間に鳴るよ。

アリー塾長     :      夏と冬だと、昼間の時間の長さが違うからね。ほかにも合図はない
                   かな?

女の子        :     この間、学校で、Eちゃんと暗号で話した。

アリー塾長     :      暗号!暗号も合図だねえ!楽しかった?

女の子        :     楽しかった!だって、暗号は二人だけにしかわからないから。

男の子        :     ぼくは、この間野球をしたときに、サインを考えた。サインをだして、
                  野球をやった。

アリー塾長     :     いいねえ、サインはやっぱり合図だねえ。サイン、うまくいった?

男の子        :     うまくいった!


* 合図についての二人の作文は、暗号とサインの成功について書かれていました。

女の子の作文からの抜粋です。

 あいずとは、言葉で伝えるかわりにやるものです。暗号は、二人にしか分からないルールを作って意味をつたえあうことです。

 わたしは、この前友だちと、暗号でものをつたえあいました。おもしろかったです。

 みんな(ほかの人)が見ても分からないから、自分たちだけの言葉みたいで楽しくて、少しうれしかったです。

男の子の作文の一部です。

野球をした日、ぼくはキャッチャーだったので、サインを考えました。グーがストライクゾーンに入れるで、三本目までの指を広げるとスローボールで、二本目までの指を広げて三本目の指を少しまげるのはもっと速くでした。バッターの子は三しんになりました。
 ぼくはサインをつける(送る?)のは楽しいなと思いました。こんどはもっと多くのサインを作りたいです。


* 男の子は、それぞれのサインの手の形を絵に描いてくれました。

* アリー塾長の一言

 
 
 女の子の言っていた暗号は、合図とも言えるし、記号の一種とも言えるでしょう。暗号の魅力は、女の子が言っていたように、それを解読できる仲間だけにしかわからないというところです。秘密は私たちを、なんだかドキドキわくわくさせてくれます。

 合図は、言葉とは別の方法で、その時々に何かの意味を伝える手段です。合図は言葉と同様に、さまざまな形でこの世界に満ちています。知らせたいことがたくさんあるのです。

 世界には、合図、記号、言葉、そのほかにもたくさんの意味をもったものがあります。読み取ってもらいたがっている意味があふれているということです。それらの意味を解読していくことも、けっこう楽しい作業なのではないでしょうか?

http://www.ko-to-ha.com/
 


2014年6月30日月曜日

二つの時間 その2

 テーマ、二つの時間の最終回です。
 

 今回は、それぞれの人がもっている時間の感覚についての実験をしてみました。実験の方法は、一人ずつ、自分がちょうどいいと思うテンポで、机をたたきます。そして、時計を使って、10回たたくのにかかった時間を計ります。

 この実験でわかることは、それぞれの人のもつテンポが、早めか遅めかということです。机を10回たたくのにかかる時間は、普通、4秒から9秒だそうです。かかった時間が4秒に近ければ、その人のテンポは早め、9秒に近かったり、それより長かったら、ゆっくりめということになります。

 実験の結果、男の子も女の子も8秒、アリー塾長は9秒でした!

アリー塾長      :    ここにいる3人は、みんなテンポはゆっくりめの、のんびり屋さんってこ
                  とになるね。
                  本当かな?みんな、いつも何かをやるときはゆっくりめ?

男の子         :    ぼくは、給食を食べるのがいつも遅いから、ゆっくりめかもしれない。

アリー塾長      :    そう。○○くんはのんびり屋さんなのかな?
                  クラスにほかにものんびり屋さんはいる?

男の子         :    いる!Nくん。Nくんは、いつも何かをやるのが遅い。マイペースだ!

女の子         :    ああ、Nくん、マイペースだね。

アリー塾長      :     マイペースかあ。

* 「マイペース」、この言葉こそ、それぞれの人がもつ、一種の心の時間のことをあらわしています。

 今回は、二人の作文がそれぞれすばらしかったので、一部を手直しして、ほぼ全文を掲載します。

* 男の子の作文

 自分が時計を使って十回たたくのにかかった時間は八秒でした。四秒に近かったり、それよりも短い場合は早口でしゃべり、せっかちな人だということがわかります。ぎゃくに九秒に近かったり、それよりも長い場合はゆっくり話し、のんびり屋だということが分かります。
 
 

 ぼくは八秒だったので、のんびり屋だということが分かりました。きゅう食を食べるのは時間ぎりぎりで、食べ終わるのが少しすぎてしまうことがほとんどです。それは心の時間が長いということかもしれません。少しマイペースだからおそくなってしまうのかもしれません。
 

 ぼくはのんびり屋もいいなと思いました。やることがおちついてできるからです。でも、人のことを考えるのも大切だなと思います。のんびり屋でもいつも人のことを考えられるようにしたいです。

* 女の子の作文

(実験の結果では、女の子ものんびり屋だということになりました。)

 (前略)でも、わたしは、のんびりかと思ったら、先生には、「しゃべるのがはやすぎ。」と言われたり、お母さんには、「おちつきがない。」と言われて、やっぱりせっかちなのかなと思いました。

 わたしは、「しゃべるのがはやすぎ。」と言われたときに、「自分ではゆっくりしゃべっているのに。」と思いました。あと、お母さんに「おちつきがない。」と言われて、自分では「おちついているのにな。」と思いました。

 わたしは、先生のテンポはおそいなと思いました。せっかちでもいいなと思いました。だって、はやくおわれば、いろいろなことができるからです。

アリー塾長の一言

 今回の作文は、二人とも本当によく書けています。とくに女の子。ついに自分の意見を作文に書くことができました!これまでの彼女の作文には、ほかの人のことや、客観的な意見しか書かれていませんでしたが、今回ついに、自分自身の考えを書くことができました。

 そうです。先生やお母さんがなんと言っても、「せっかちでもいい」んです!「だって、はやくおわれば、いろいろなことができる」んですから。先生やお母さんがそれでも「ダメ!」と言ったら、お互い納得のいくまで話し合えばいいのです。きっと妥協できるところが見つかるはずです。

 女の子は、顔を赤くして、決死の覚悟で今回の作文を書きました。彼女にとって、自分の気持ちや思い、考えを書くことは簡単なことではなかったのだと思います。

 さて、男の子の作文です。こちらにも、しっかり自分の考えが書かれています。本当に、「のんびり屋もいい」よねえ。いろいろなことを味わって楽しむには、ゆっくりのほうがいいことがたくさんあるからねえ。もっとも、彼には、まわりのことを配慮する余裕もあります。ひとのことを考えながら、のんびりを楽しむのでしょう。

 男の子の作文は、多少の手直しをしましたが、これで全文です。指示通り、三段落の構成で書かれていて、序論・本論・結論の形をとっています。ここにきて、ついに作文(論文)の形式も整ってきました。

http://www.ko-to-ha.com/

2014年6月12日木曜日

文化と多様性


毎年この季節になると、手持ちのリバティプリントで、ブラウスを仕立ててもらいます。仕立ててもらうと言っても、仮縫いもしない簡単なやり方なので、布さえ持っていれば、既製品を一着買うくらいの値段です。リバティプリントは軽くて涼しくて、真夏の外出着に最適です。私のささやかなぜいたくの一つなのです。

 リバティプリントとは、イギリスのリバティ百貨店がつくっている、小花柄で有名なコットンの布です。日本でも人気が高く、今年も、リバティプリントをつかったブラウスやタンクトップが、一般のお店で売られているのを見かけました。

 私はずいぶん昔に、このリバティプリントの販売員だったことがあり、そのときに買ったものがたくさんありました。それを毎年少しずつ仕立ててもらってきたのです。プリントの在庫は年々減り、新しいものが欲しくなりました。

 リバティプリントは日本でも手には入るのですが、種類は多くない。いっそロンドンの本店で買おうと、何年か前に、本当に久しぶりでロンドンに行きました。

 
 実はその年ロンドンに行ったのには、もう一つ目的がありました。それは、イギリス製の美しい絵本を買うことでした。イギリス製の絵本は美しい!その昔、初めてロンドンに行ったときに感動したことの一つが、本屋さんにおかれている絵本の美しさでした。

 当時私は、ポップアップ絵本や、切り抜いて工作をするようになっているものなど、何冊か買って帰りました。イギリスの絵本はとにかく美しかったのです。毒々しい原色は一切つかわれておらず、微妙な中間色で、細密に自然や動物が描写されていて、上品な素朴さがありました。

 イギリスの絵本の美しさは、小花という自然を写したリバティプリントの美しさと通じるものがあります。リバティプリントは、19世紀の画家であり、デザイナーでもあったウィリアム・モリスのデザインを原点としている伝統的なものです。有名なピーターラビットの例をあげるまでもなく、上品で繊細な自然描写はイギリス文化に特有のものだと言えるでしょう。

 ところが、久しぶりのロンドンで、何件の本屋さんを探しても、私の求めているような本はありませんでした。かろうじて、ピーターラビットの本がある程度で、私の言う、上品で繊細な自然描写がなされている絵本は、ほかにまったくないのです。子ども向けの絵本と言えば、単色でべったりと塗りつぶされた、ディズニーアニメのような絵のものばかりなのです。

 日本に帰ってから、近くの子どもの本の専門店の方に伺ったところ、イギリスでは、ここ20年の間に、たくさんの出版社が倒産したそうです。出版関係の規制が廃止されるか緩和されるかしたため、経営が成り立たなくなった小さな出版社が続出し、大資本の出版社に席巻された。その結果、イギリスらしい美しい絵本はなくなり、ディズニーアニメのような絵本ばかりになってしまったというのです。

 肝心のリバティプリントですが、リバティのロンドン本店にも、かつてのような独特な美しさをもったものはあまりありませんでした。こちらも伝統の継承が難しくなっているのでしょうか?

 私は、ディズニーアニメが悪いと言っているのではありません。ディズニーアニメにも、感動的なすばらしい作品がたくさんあります。それから、初めてディズニーランドに行ったときの、驚きと感動は今でもおぼえています。アメリカ文化が悪いわけではないのです。

 アメリカ文化が悪いのではなく、美しい絵本という、イギリス文化が駆逐されてしまったことが問題なのです。多様な文化が共存し、選択肢が多ければ多いほど、世界は豊かになります。文化が多様であれば、世界は寛容になります。それぞれの個性は尊重されるばかりでなく、ときには珍重されます。

 生物の世界を見ればわかるように、「多様性」は、生き残りのためのすぐれた戦術であるはずです。人間は賢いのですから、種としての生き残りのためにも、多様性を拡大していきたいものです。
個人的には、美しいイギリスの絵本の復活を心から願います。
 
 

http://www.ko-to-ha.com/

2014年5月31日土曜日

二つの時間

 毎日普通に暮らしていると、一日はあっという間に終わります。子どものころは、もっと一日が長かったような気がするのに…。時間はずっと同じ速さで流れているはず。それなのに、なぜ、速く過ぎる時間とゆっくり過ぎる時間があるのでしょう?

 今回は、時間には二つの時間があるということを学びました。時計の時間と、心の時間です。

アリー塾長     :     さて、最初に確認しておくよ。この授業は、学校の授業とはちょっと違
                  うからね。この授業で一番大切なのは、考えることだからね。たくさん
                  疑問をもってね。

                  疑問は、「どうしてだろう?」「なぜなんだろう?」というのがいいよ。何
                  かを聞いて、何かを知ったら、「どうして?」「なぜ?」と考えてみてね。
                  何かを覚えることだけが勉強じゃないからね。

 今回こんな前置きをして授業を始めたのには理由があります。実は前回から時間についての勉強を始めたのですが、その時の質問が、「誰が時間を発明したのか?」、「いつ時計や暦ができたのか?」というような、特定の人や時代を尋ねるものが多かったからです。

 何かの発明者や、それが発明された時代を知ることはもちろん悪いことではありません。そのような知識も大切です。ですが、ここでは、「どうして?」「なぜ?」という理由を問うような質問をしてほしかったのです。

 どうして人間が時間の概念を必要として、時間というものの存在を認めるようになったのか。そのためにどのようなことがおこったのか。時間と人間の関係はうまくいっているのか、いないのか。
考えられることはたくさんあります。

アリー塾長     :     時計の時間はいつも同じ速さで進んでいるはずなのに、時間がゆっく    
                  り過ぎているように感じるときと、速く過ぎているように感じるときとが
                  あるみたいだね。

                  どんなときに、時間がゆっくり過ぎているように感じる?

男の子        :     学校の授業。算数とか…。

女の子        :     短く感じるときもあるよ!体育とか、音楽とか、理科とか!

男の子        :     そうだ!速いときもある!体育とか!

アリー塾長     :      どうして時間が進むのが速く感じるときと遅く感じるときがあるんだと
                   思う?

男の子        :     退屈なときに遅く感じる。授業中、時計ばっかり気にしてる。早く終わ
                  らないかなって思ってる。だから時間が長く感じる。

女の子        :     速く感じるのは楽しいとき。体育とか。
  
          

アリー塾長     :     ○○ちゃん、体育好きなんだ。うらやましいな。

                  時間には、二つの時間があるという話をしたよね?時計の時間と心
                  の時間だったね?今二人が話してくれた時間は、どっちの時間だと思
                  う?

男の子・女の子   :     心の時間。
                     
                  

アリー塾長      :    そうだね。退屈とか、楽しいとかいうのは、気持ちだよね?みんなの
                  心から出てきたものだよね?その気持ちが、時間の感じ方を変える
                  んだね。だから、心の時間って言うんだね。


* アリー塾長の一言

 対話を終え、作文を書いてもらって、「はい、今日はここまで!お疲れ様でした。」と言ったら、男の子が、「えっ!?もう7時?」と言いました。(授業は5時から7時までです。)その時、時刻は6時50分でした。実は、次の日が運動会だったので、少し早めに終了することになっていたのです。

 「明日、運動会だから、少し早めに終わりにすることになっていたんだよ。」と私が説明すると、「誰が言ったの?」と男の子は食い下がります。もしかして、私の授業、○○くんの心の時間で計ると早く終わった?

 だったらうれしいな。○○くん、今日はとっても集中していて、たくさん考え、たくさん話して、たくさん笑ったもんね。私の心の時間も速く過ぎたよ。

http://www.ko-to-ha.com/
 


 
                     

2014年5月24日土曜日

奇蹟とフィクション

 ビデオで、映画「フィールド・オブ・ドリームス」を観ました。「フィールド・オブ・ドリームス」は1989年のアメリカ映画で、封切当時とても評判がよく、私も観て感動した記憶があります。今回は、実に四半世紀ぶりの鑑賞ということになります。

 映画のあらすじはこうです。36才の妻子ある農場主(ケビン・コスナー)が、ある日自分の畑の中で不思議な声を聞き、その声に導かれて、トウモロコシ畑の一部をつぶして野球場を作ります。するとそこに、マイナーリーグの選手だった彼の父親にとってのヒーロー選手、”シューレス・ジョー”が現れます。

 周囲からは変人扱いされ、お金のやりくりに苦労しながら、夢のかなう場所に集まってくるかつての野球選手たち(これみんな幽霊です)のために、球場を守ろうとする主人公。そんな日々の最後に、仲たがいしたまま死に別れてしまった、ユニフォーム姿の若き日の彼の父親が現れます。

 不思議な声、「それを作れば彼がやってくる」の「彼」とは、主人公の父親のことだったのです。主人公は父と、暗くなった野球場で灯りに照らされ、何十年ぶりかでキャッチボールをします。シューレス・ジョーは、「不思議な声は、自分の声だったんだよ」、と主人公に告げます。

 「それ(野球場)を作れば彼がやってくる」、と信じることができれば奇蹟は起こる__と、映画は言っています。映画はすばらしい!奇蹟は起こる!信じるところに奇蹟は起こる!でも、それは映画です。現実に奇蹟なんて起こるんでしょうか?

 実は私は、奇蹟を簡単に信じることができるんです。奇蹟!いつでもどこでも、たくさん起こっています!本当に、信じられないことが、でも、現実に起こっているのです。なんのことかと言うと、私が長年親しんできた文芸作品などの芸術のことです。

 すぐれた小説などの芸術作品に触れたとき、どうしてこんなことが書けるんだろうと、何度びっくりしたことでしょう。今回取り上げた映画も同様です。「フィールド・オブ・ドリームス」は”奇蹟”を描いていましたが、「フィールド・オブ・ドリームス」の映画自体が奇蹟なのではないでしょうか?

 奇蹟は、人智を超えた力の存在を感じさせます。すぐれた芸術作品は、フィクションの形で、常に私に奇蹟と不思議な力の存在を信じさせてくれるのです。そしてフィクションとは、事実をあらわすものではないけれど、真理をあらわすものです。物事と人間の普遍性がそこには描かれるのです。

 普遍的な人間の姿は心を打ちます。「フィールド・オブ・ドリームス」の、純粋に夢を追うこと、そして夢の実現という奇蹟を信じる人間の姿に、私は深く感動しました。

*フィクションの普遍性について

 「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。」
 
                               (アリストテレース著、『詩学』、第九章)

 『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』、松本仁助・岡道男訳、岩波書店。
 

http://www.ko-to-ha.com/




 

 

2014年5月20日火曜日

言葉のちから

 私は、日本文学研究を中心に、長い間、「言葉」というものに意識的にかかわってきました。「言葉」というものについて、その本質から問うような議論にも常々目配りをしてきたわけです。ですから、時々、「言葉」についての考え方の最前線に近づいてしまったりします。

 「言葉」についてわかっていることにはいろいろあります。その中に、私をがっかりさせたことがあります。それは、厳密に言うと、「言葉はけっしてそのままの現実を言い表すことができない」ということです。そんなことはあたりまえだろう?と思われるかもしれません。たとえば、深い悲しみや大きな喜びなどの私たちの感情は、とても「言葉」で言い尽くされるものではないからです。

 このように私たちは、それぞれの経験から、「言葉」には限界があることを知っています。しかもそればかりでなく、そのうえでさらに、「言葉」について考え、勉強していくと、「言葉」のできることはまったく限定的で、できないことのほうがむしろ多いということがいよいよ明らかになっていくのです。

 けれども、すべてのものに光と影があるように、「言葉」にも光の部分があるはずです。私は「言葉」が大好きです。それは「言葉」にはまた、とてつもない魅力があるからに違いありません。

 「言葉」についての絶望的な側面ばかりを強調する本を読んでいて、なんだか暗い気分になっていたら、偶然よいテレビ番組に出会いました。その番組は、高度な専門性をきわめた職業人を紹介する番組で、その回は、それぞれの専門家たちを成功へと導いた「言葉」の特集をしていたのです。

 これだ!と思いました。「言葉」は導きの光です。よりよい今を生きるために、よりよい未来をつくるために、私たちはよい「言葉」を大事にしなければならないのではないでしょうか?

 番組の登場人物の一人を導いた「言葉」は、「気づきが、大切だよ」だったそうです。「気づき」、私も実感します。「気づき」は本当に大切です。気づくことによって、すべてのものの見方が変わります。世界が一変してしまうのです。見方が変われば行動が変わります。生き方が変わります。

 よい「言葉」はかならず、よい未来へと導いてくれます。よい「言葉」はきっと、私たちを幸福へと導いてくれます。「言葉」は無力ではありません。「言葉」には絶大な力があります。


* 言葉について、興味深い考察が展開されている参考書を以下にあげます。

   『応答する呼びかけ』、湯浅博雄著、未來社、。
 
   『仮面の解釈学』、坂部恵著、東京大学出版会。

http://www.ko-to-ha.com/


 
 

2014年5月8日木曜日

発見!

国語の問題集や試験で取り上げられる問題文には、植物について書かれたものが時々あります。科学的な文章の読解が課題なのです。それぞれの問題文は、いずれも植物学の専門家によって書かれたものの抜粋で、そこだけ読んでもとてもおもしろいよい文章です。

 先日私は、そのような問題文の一つに、とても興味を惹かれました。その文章によると、どんなに都市化が進んでいる地域でも、雑草に代表される自然は、そこここで見ることができるということでした。その真偽を確かめるには、この季節がぴったりです。私は買い物に行く途中、都市の中の自然を発見するべく、観察してみることに決めました。

 すると、本当にありました!その観察の結果が上の写真です。タンポポ、オオイヌノフグリ、ネコジャラシ、スミレ、それにヨモギまでありました。摘み草をして、草だんごだってできます。

 私の住んでいるところは繁華な商業地域で、アスファルトとコンクリートでできたものが大半です。私もコンクリートでできた建物に、もう十二年も住んでいるのです。そんなところで、さまざまな植物が自生しているのを発見したのです。

 草花はけなげに、また大変たくましく生きています。歩道のブロックと駐車場のアスファルトの継ぎ目のところには、タンポポが生えています。道路のアスファルトと、民家のブロック塀の接しているところにできたすき間に、スミレが咲いています。街路樹の植わった小さな地面には、ネコジャラシが生えています。

 そして私は、ここで二つ目の発見をしました。それは、こんな発見をするということについての発見です。

 私は、この地域に住んでもう十二年になります。ところが、かつて一度でも、今回発見したような身の回りの自然に気が付いたことがなかったのです。十二年もの間、何度もとおっている歩道と駐車場の間に咲いていたタンポポに気が付かなかったのです。

 このことは私に、重要なことを気付かせてくれました。それは、「ないと思っているものを発見することはできない」ということです。今回タンポポを発見できたのは、「あるかもしれない」と思ったからです。

 この二つ目の発見は、すべてのことに言えるのではないでしょうか?ないと思っているものは、そこにあっても見えない。ないと思っているものは、その人にとって文字通り、ないも同然。ないと思っているものは、ないのです。

 すべてのものが生き生きとする春から初夏は、私のもっとも好きな季節です。この季節だから今回のような発見があったんだなあ、では、冬には何も見つからないのかなあ、などとさみしく感じながらまた思い出したことがありました。

 もう一昨年のことになりますが、ここに住んで十一年目にして、自宅のベランダからオリオン座が見えることに気付いたのです。全天でもっとも明るい恒星のシリウスも見えました。この辺りは夜でも明かりがこうこうとしているため、星なんて見えないと思っていたのですが、空気の澄み切った真冬には、見える星もあったのです。

 見えないと思っているものは見えない、ないと思っているものはない。ないと思っているからない、あると思っているからある、これは真理です。ですから、あるかもしれないと思うと発見が、できるかもしれないと思うと成功があるのではないでしょうか?ある、と思うことは、想像以上に大事なことなのかもしれません。

http://www.ko-to-ha.com/
 

2014年4月26日土曜日

大人の影響 その2

 今回も、しらずしらずのうちに、大人が子どもに与えてしまう影響について書きます。前回とはまたまったく違うかたちで、子どもは大人の影響を受けているということに気づかされました。

 対話のテーマは「そんなときどうする?」でした。

 急な切り立った崖が向かい合わせにあります。橋はかかっていません。両方の崖の間は、とても飛んで渡れる長さではありません。10メートルくらいはあるでしょうか?それぞれの崖の上には子どもが一人ずついて、二人はお互いのところへ行きたいのです。「そんなときどうする?」


 女の子の作文です。

 
 「 例えば、家が近かったら、はしごなど、わたれるような長いものをもってくるといいと思います。でも、とどかなかったら、とっても長いロープをもってきて向こうがわの人にわたして、向こうがわの人が、ロープを体にまきつけて、とべばいいです。理由は、おちそうになったら、もう一人の人(向こうの人がおもかったら、他の人にも手伝ってもらう)が引っぱればいいと思います。それでもだめだったら、遠回りをすればいいです。」

 作文はこれで終わりにはなりませんでした。ここから、女の子の本当の意見が始まります。

 
 「でも、私は、ロープなんかじゃあぶないので、遠回りをしたいなと思いました。そうしたら、2人とも安全に出会えるからです。なぜなら、向こうの人の体重がおもかったら、ロープが切れてしまって、そのまま、おちてしまったら死んでしまうからです。あともし、おちて死んでしまったら、「ロープでわたろう。」と言った人のせきにんになって、大へんなことになってしまうからです。だから、遠回りをした方がいいなと思いました。」

 「おちて死んでしまったら、「ロープでわたろう。」と言った人のせきにんになって、大へんなことにな」る…この箇所を読んで、私はギョッとしました。こんなことを子どもが言うなんて…。これはいったいどういうことなのでしょうか?

 責任問題になるから、危ないことはしないほうがいいと女の子は書きました。そのこと自体はまあ、悪いこととは言えません。ある意味そのとおりです。でも、何かひっかかるものがあります。こういうことを子どもが考えるということが、なんだか私を嫌な気分にするのです。

 
 こんなことを子どもが自分で考えるでしょうか?責任問題を避けるというのは、安全志向のことなかれ主義です。複雑な利害関係を考慮して、自分の身を守るためにとる方策です。小学生の子どもが本来もっている発想とは思えないのです。

 おそらく、女の子のまわりの大人の誰かが、何かの機会にそのようなことを言ったのだと思います。誰かを傷つけるようなことをしたら、責任を問われるから、そういうことはしないように、と言ったのではないでしょうか?

 くりかえしますが、誰かを傷つけないようにすること自体は悪いことではありません。でも、子どもが責任問題について心配することには、どこか違和感をおぼえます。問題は、誰の責任かということではなくて、みんなが傷つかないようにするにはどうしたらよいかということではないでしょうか?

 ものごとを解決するためには、自分もその当事者であるという意識が必要です。他人事になってしまったら、問題を解決しようという気持ちも薄れ、真剣に考えられなくなってしまいます。責任を逃れて、その問題から遠ざかるよりも、問題の本質的な解決法をみんなで考えられたらよいなと私は思います。

 
http://www.ko-to-ha.com/
 


2014年4月19日土曜日

大人の影響

 

 対話の授業は、生身の人間同士、同じ時間、同じ場所を共有しておこないます。心と体をもった、生きている人間同士がひざを突き合わせて、同じテーマで考え、話し合うのです。そこが今どきのSNSなどのコミュニケーションとは違うところです。

 

 私たちは生きているので、その日によって当然コンディションが違います。体調が悪いときもあれば、悲しい気分のときもあります。それは子どもも同じです。子どもは大人のように取りつくろうことができないので、調子の悪いときにはうまくいきません。残念ですが、そんなときはよい話し合いができないのです。


 先日、○○くんは、入ってきたときから様子が変でした。目がきょろきょろと落ち着かず、私の話を聞いているときも上の空。もぞもぞと体を動かして、集中力がありません。テーマは前回の続き、「そんなときどうする?」でしたが、前回ほどの熱意が感じられません。


 前回○○くんは、テーマを聞いたとき、にやにやと笑いながら、「おもしろそう!」と言ってくれました。そして終始みんなで笑いながら、ときには大笑いしながら話し合ったのです。ところが、今回はニコリともしてくれません。質問をすると答えてはくれますが、やっぱりどこか視線が定まりません。

 

 当然ながら、今回はあまりよい作文を書いてはもらえませんでした。○○くんは、いつもは大人顔負けの鋭い言葉を織り込んだ作文を書いてくれます。「まあ、こんな日もあるかな?」と私はあきらめました。


 さて、実は、ことの真相が後で判明しました。○○くんがその日不調だった理由がわかったのです。○○くんは、その日出がけに、お母さんと一悶着あったというのです。お母さんは○○くんに、「帰りのお迎えには行かない!」と宣言されたそうです。


 ○○くんのお母さんの名誉のために言いますと、やさしいお母さんはそう言いながら、その日も○○くんをお迎えに来てくれました。お母さんが○○くんを見捨てるはずはないのです。でも、○○くんは、お母さんにお迎えに来てもらえないと思って、その日の授業が上の空になってしまいました。


 大人もそうですが、子どもは特に素直なので、その日の気分が直接成果にあらわれます。子どもにその能力を十分に発揮してもらおうと思ったら、まず、よい気分になってもらわないといけません。よい気分とは、幸せな気分ということです。


 そして幸せな気分とは、不安のない、満ち足りた気持ちのことです。お母さんをはじめとした大人に見守られ、信頼されているという感覚です。自分のことを信じてもらえ、ありのままの自分が受け入れられていると感じていると、子どもはもてる才能を最大限発揮します。


 子どもを幸せな気分にするコツがあります。それは、お母さんはじめ、まわりの大人が幸せな気分でいることです。子どもはお母さんが大好きです。お母さんが幸せでいてくれることが何よりもうれしいのです。


 お母さん、もうお気づきですよね?そんな子どもをもったことが、この上ない幸せだということです。


http://www.ko-to-ha.com/

 

2014年4月14日月曜日

絵画と言葉

 


 先日久しぶりに美術展に行きました。ラファエル前派展をやっていたのです。

 ラファエル前派とは、19世紀のイギリスで、革新的な絵画表現を追求した一派です。日本の少女漫画にも多大な影響を与えたと言われ、物語性の強い、耽美的な表現で有名です。

 
 

 ラファエル前派の絵画の中でもっとも有名なのは、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィリア」でしょう(写真)。私は、高校の美術室の壁に貼られていた「オフィリア」にはじめて出会って以来、大学時代にロンドンのテートギャラリーで、そして日本では、今回も含めて2回と、計3回見ることができました。

 

 今回は、事前に美術展を紹介するテレビ番組を見てから見学に行ったのですが、それはそれで大変興味深かったです。なかでも、解説をしていた大学の先生が、ラファエル前派の絵画の特徴を
一言で言い表しておられたのですが、またしても自分と自分の傾向について悟らされてしまい、苦笑してしまいました。

 
 

 その先生によれば、イギリスというのは絵画の国と言うよりは、文学の国なのだそうです。だから、イギリスの絵画は物語性が強く、ラファエル前派も、シェイクスピア作品に題材をとったり、絵画自体に社会性を織り込んだりして、何かの意味をもたせる傾向があるということでした。

 

 
 「ああ、これだったのか。」と、腑に落ちた感じがありました。ラファエル前派の絵画自体はもちろん、世界が認める立派な絵画です。私の実家にあった世界美術全集にも、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの「受胎告知」の絵が載っており(今回の美術展にも来ていました!)、子どものころよく見ていました。

 
 

 でも私には、ラファエル前派の絵画は、絵画としてはどこか正統ではないように思えてしかたなかったのです。なるほど、ラファエル前派の絵画は、絵画としては、物語性が強すぎる、説明が多すぎる、意味がありすぎる、だから文学に近い。ラファエル前派の絵画は、絵画でありながら、おしゃべりで、画面から言葉が聞こえてくるのです。


 「絵画はこうあらねばならない」という基準があるわけではありません。ですから、おしゃべりな絵画は、それはそれでいいと思います。ただ、絵は、絵くらいは、何も考えないで見たいかなあと思うわけです。意味なんか考えずに、ただ「美しい」とか、「かわいい」とか、「おどろおどろしい」とか、「悲しい」とか、「好き」とか、「嫌い」とか、感覚で感じたいと思うのです。


 そう思いながら、真っ先に思い出すのがフランスの印象派の絵です。そういえば、印象派の絵を見ながら、意味は考えていなかったかもしれません。まさに「印象」なので、柔らかい暖かい感じがするとか、けだるい感じがするとか、五感にうったえるものを感じながら見ていました。


 ラファエル前派の絵画は意味を考えさせます。これが、私がラファエル前派を好んでいた理由だったのです。やはり私はよくよく考えることが好きで、言葉と物語が好きなんだなあ、と実感させられました。

 

 さて、冒頭で、ラファエル前派は日本の少女漫画にも多大な影響を与えたと書きました。ということは、日本の少女漫画には、画期的なものがあるということになります。それは、絵=イメージと意味=言葉との融合がそこにあるということです。何を大げさなことを、と言われるかもしれませんが、文学と同時に少女漫画にもどっぷりとつかった経験のある私には、このことは世界に発信すべき一大文化革命だと思うのです。


 今回は、実は、子どもと美術館をテーマに書くつもりでした。その導入に、先日行った美術展の話を使うだけのつもりでしたが、思いのほか長くなってしまいました。美術展には子どもは一人もいませんでした。平日の昼間でしたが、春休みでもあったし、子どもの姿がまったくないというのは少しさみしいです。


 いずれ本題の子どもと美術館の話について書いてみたいと思います。


 
 

 
http://www.ko-to-ha.com/

2014年4月7日月曜日

そんなときどうする?その2

「そんなときどうする?」の2回目です。

山に登ります。いろいろな登り方があるけど、あなたならどうしますか?

アリー塾長     :   さあ、みんなならどうする?いろいろあるねえ。自分の足で、クネクネと曲

                がった道を、ゆっくりゆっくり歩いていく?それとも、バスや車に乗って行
                く?ロープウェイで行くってのもあるねえ。あ、馬に乗って行ってもいい
                ね。それとも、一気にヘリコプターで頂上を目指す?

みんな       :    うーん…?

女の子       :    私、ロープウェイ!

アリー塾長     :    ああ、○○ちゃんは、高いところから下を見下ろせる乗り物が好きだった
                 よねえ。観覧車も好きだったんだよねえ?  

女の子       :    うん!!

アリー塾長     :    高いところ、怖くない?

女の子       :    怖くない!

男の子       :    ぼくはゆっくり歩いて登っていく。

アリー塾長     :    どうして?

男の子       :    ゆっくり歩いていくと、いろんな景色が見られるから。

アリー塾長     :    いろんな景色?

男の子       :    そう。100メートル登って下を見たときの景色とか、(山の)半分まで登っ
                 て見たときの景色とか。ゆっくり、お茶を飲みながら(そういう景色を)見
                 る。

アリー塾長     :   景色を見ながら山に登るのは楽しそうだね。

男の子       :    うん!あ、それから、道がどうして曲がっているのかわかった!

アリー塾長     :   

男の子       :    南側、北側、東側、西側、全部の景色を見るためだ!

アリー塾長     :   なるほど。道が山をグルグル巻くように、らせん状に、つくられているの
                は、いろいろな景色を見るためだったんだね。


* 対話の後、男の子の書いた作文にはちょっとびっくりしました。

「ぼくなら、ゆっくり歩いてのぼっていきます。」
「それに(景色がゆっくり見られることのほかに)歩いてのぼるとちょうじょうまでのぼれてうれしいし、体力をつけられるからです。」
「山にのぼるとげんかいをこえてのぼると思うので、心が強くなるからいいんじゃないかなと思います。」


アリー塾長の一言

 
 子どもは大人が思っているほど子どもではないのではないでしょうか?子どもは大人と対等であるという以上に、子どもは大人より、本当はよっぽどよくわかっているのではないかと思わされることがよくあります。

 今回の男の子の作文にも驚かされました。男の子の「体力をつけられる」、「げんかいをこえて」、「心が強くなる」という言葉には、厳しい向上心があふれています。男の子は、体こそまだ大きくないけれど、心はすっかり大人のようです。

 
 男の子は、サッカーをやっています。サッカーをしながら、自分の限界をこえて、心を鍛えているのかな?○○くん、かっこいいです。「男」です!


http://www.ko-to-ha.com/

2014年3月28日金曜日

そんなときどうする?

 生きているといろんなことがおこります。いろんな場面に遭遇します。
そんなときには考えなければなりません。決断しなければなりません。

 

 そんなとき、あなただったらどうしますか?
今回はシリーズで、いろいろな場面を想定し、自分だったらどうする?と話し合いました。

その1  種類も大きさも違うくだものが4つあります。そこに子どもが5人。
      どうやって分ける?

アリー塾長    :    さあ、どうしよう?
                (みんなの手がいきおいよく上がります。)

女の子       :    ぜんぶのくだものを、小さく切って、5人に同じように分ける。

男の子       :    ぼくも同じ。

アリー塾長    :    公平に分けるんだね?でも、もっといろんな分け方があるよ。
                じゃんけんで、勝った人から好きなものを選んでいくってどう?

女の子       :    そうすると一番負けた人が食べられなくなる。

アリー塾長     :   そうだね。でも、一番勝ったら、好きなものをたくさん一人で食べられる          
                 
                よ。

女の子       :    負けた人には私のを分けてあげる。

アリー塾長     :   ○○ちゃんはやさしいね。でも、そういうのはなしにしよう。それに、○○ちゃ     
                んが負けても、だれも分けてくれないかもしれないよ。みんなの納得のい
                く方法で分けないと。

 
                あ、それから、こういうこともあるかもしれないね。子どもの中にジャイア
                ンみたいな強い子がいて、かけっこをして、一番勝った人から好きなもの
                を選んでいこうって言ったらどうする?その子は一番大きなスイカをひと
                り占めするつもりなんだよ。

男の子       :   そうしたらぼくは、その子よりもっと速く走って、前に行ってじゃまをする! 


アリー塾長     :   そんなことをしたらけんかにならないかな?
                けんかをしちゃあ、やっぱりだめだよ。

女の子       :    話し合えばいい!!みんなで話し合って決めればいい!

アリー塾長     :   そうだねえ、○○ちゃん、いいことを言うねえ、本当にそうだねえ。
                みんなで話し合えばいいよねえ。

*  対話の後で女の子が書いた作文です。

「わたしなら、「みんなで話し合おう。」と言います。」

「(5人の中に)、わがままな人がいたとします。その子が「ぼく(わたし)は、このくだものじゃなきゃいやだ。」と言ったら、けんかになってしまいます。」

「その子に「みんな同じ数だけ分ければ、おいしいよ。」とおしえてあげればいいです。」


アリー塾長の一言

 
 
 「みんなで話し合う」は、これ以上ない大正解です。私がこの塾を主宰している理由も、この「みんなで話し合う」を存分に学ぶためです。

 ですが、現実に目を移してみると、この「話し合う」がとても難しいことに気づくでしょう。残念ながら世界には、まだまだ力をつかって欲しいものを手に入れている人が多いのです。

 そんな人にはどう話しかけたらわかってもらえるのでしょう?スイカをひとり占めしようとするジャイアンみたいな人には、なんと言ったらよいのでしょう?

 実は、「話し合えばいい」と言った女の子は、自分の気持ちや考えを人に伝えるのがあまり得意ではありません。とても気持ちのやさしいきちんとした子なのですが、まず相手のことを思いやって、自分のことは後回しにしがちです。

 女の子は、人を傷つけたり、人に傷つけられたりするのが怖いのでしょうか?彼女には、世界には、あなたの気持ちをわかってくれる人がかならずいるよ、あなたの考えに共感してくれる人がかならずいるよ、と言ってあげたいと思いました。

 話し合うときに一番大事なのは、実は気持ちなのかもしれません。そうすることが正しいからそうしよう、と言うのではなく、そうするとみんながいい気分になるからそうしよう、と言ったほうがいいのではないでしょうか。

 くだものを公平に分けると、みんな幸せな気分になって、ひとり占めして食べるよりずっとおいしくなるよ、と、ジャイアンみたいな子には言ってあげるといいかもしれません。そのときには、みんなで仲良くくだものを食べたいという気持ちを、一生懸命に伝えるといいでしょう。

http://www.ko-to-ha.com/

 

2014年3月20日木曜日

大人の自由、子どもの自由

 野生動物を自然に帰すお話の最終回です。

今回は、カモのヒナが大人になって卒業していきました。

カモは大人になって、これからは自由に生きていくことができます。

 カモの話から、「自由」がテーマになりました。



* 自由ってなんだろう?人間の場合、自由なのは大人?それとも子ども?

(今回は、3年生の男の子と女の子に、6年生のお姉ちゃんが議論に加わっています。)

アリー塾長     :     カモは大人になって、自由に生きていけるようになったけど、人間の

                  大人は自由かな?

6年生             大人は自由。大人は子どもが行けないような遠い所へも自由に行け
                  る。

アリー塾長     :     遠いところ?

6年生        :     海外とか。お母さんは、ムーミンが好きだから、北欧に行った。
   
                  サンタクロースのふるさとにも行きたかったって言ってた。

アリー塾長     :     ○○ちゃんも海外に行きたいの?


6年生        :     行きたいです。


アリー塾長     :     海外のどこに行きたい?


6年生        :     イギリスとか。お母さんの行った北欧にも行ってみたい。


アリー塾長     :     イギリス?いいねえ。どうしてイギリスに行きたいの?

6年生        :     インテリアに興味があって、建物とかも見てみたい。
   
                  それから、日本でいう天皇陛下みたいな人がいるのも興味がある。

アリー塾長     :     ああ、王室ね?女王様がいるんだよね。
 
                  いいねえ、いつか行けるといいねえ。

アリー塾長     :     さて、大人は行きたいところに行けるから自由、ほんとかな?
   
                  大人が自由じゃないときはないかな?
 
 

                  たとえば、お父さんはお仕事に行かないといけないよね?

女の子       :      お父さんは、朝早くから夜遅くまで働いている。

アリー塾長     :     そうだねえ。でも、○○ちゃんも、学校に行かないといけないよねえ。

女の子       :      学校には短い時間しかいなくてもいい。
 

                  そのあとは友だちと遊んだりできるから自由。
                  

                  子どもには仕事がない。

アリー塾長     :     学校では勉強しないといけないでしょ?

女の子       :      うん。おぼえなきゃいけないことがたくさんある。

アリー塾長     :     だったら子どもも自由じゃないときがあるよね。

生徒全員      :     (うなずく)


アリー塾長の一言

 
 どうやら、人間の場合、大人にも子どもにも、自由と不自由があるようです。そして、自由とは、自分のしたいことができることのようです。大人だったら自分の行きたいところ、たとえば海外へも行けること、子どもだったら、お友達と自由に遊ぶことです。
 


 対話の後に6年生のお姉ちゃんが書いた作文は、なんだかすてきでした。

「(大人の自由と子どもの自由を比較したあとで)自分は大人がいいなと思いました。お酒も飲めるのでいいなと思いました。早く大人になりたいという事ではなく(、)大人の雰囲気をあじわいたいなと思いました。」

「これからも今を楽しく過ごしていって、大人になったら子供の時よりも楽しい生活を送っていきたいです。」

 6年生のお姉ちゃんは作文を書くとき、「雰囲気」という言葉を、辞書で確認しながら書きました。言葉は正確につかいたいので、とてもよい習慣が身についてきたなと思いました。

http://www.ko-to-ha.com/


 

2014年3月17日月曜日

大人になるということ

 今回も、親とはぐれたり傷ついたりした野生動物を、保護したのちに、自然に帰すというお話の続きです。主人公の野生動物は、カワセミでした。

 
 
 

 子どもの野生動物を保護したときは、人間が親の代わりになって、育てて、大人にしてから自然に帰さなければいけません。


 
アリー塾長     :     大人になるってどういうこと?

女の子        :     自分の力で生きていけるってこと!どこかに書いてあった。

アリー塾長     :     そうだねえ、そうだったねえ。
                  じゃあ、自分の力で生きていけるってどういうこと?

女の子        :     自分でエサをとれる。

アリー塾長     :     そうだねえ、まずそれだよね。自分でエサをとれなかったら、おなか
                  をすかせて死んでしまうよね。
                  ほかにはないかな?

男の子        :     自分で自分を守ることができる。

アリー塾長     :      ああ、よく気が付いたねえ。自然の中には危険がいっぱいあるよ   
                  ねえ。自分よりもっと強い生きものに食べられてしまうかもしれない  
                  し、お天気だって、暑かったり寒かったりするよねえ。

アリー塾長     :     ところで、みんなは大人かな?

全員         :     違う!

アリー塾長     :     じゃあ、何?

全員         :     子ども!

アリー塾長     :     どうして子ども?

全員         :     一人で生きていけない。

アリー塾長     :     そういうことだよね。
                  お母さんと、お父さんがいるから、生きていけるんだよね。
          

女の子        :     お父さんが働いて、お金を稼いできてくれるから、生きていける。

アリー塾長     :     お父さんだけ?お母さんは?

男の子        :     お母さんは、ご飯をつくってくれる。

アリー塾長     :     それだけ?

男の子        :     洗濯してくれる。

アリー塾長     :     あと、お掃除もしてくれるよね。

男の子        :     (うなずく)


* 対話の後で女の子が書いた作文です。

「大人になるためには(大人になるということは)、カワセミの場合、一人で、エサをとって、てきから自分で身を守るということです。」

「人間の場合は、自分ではたらいて、ごはんをつくったり、そうじをしたりすることです。今は、お母さんや、お父さんがやってくれているから、大人になったら自分で、できるかなと思ったけれど、
がんばりたいです。」

「わたしも、カワセミなどの、野せいの動物は、野せいに帰してあげたいなと思いました。なぜなら、ずっと人間にたよっていたら、自分でえさもとれないし、もしてきがきても自分でにげられないから、もしかい主が、病気とかで死んでしまったら、てきから身を守れなくて、すぐに死んでしまうからです。」


アリー塾長の一言


 女の子の作文は、つたない表現ながら、今回の授業の内容を要領よくまとめています。テーマの理解と再構成はよくできているといえるでしょう。

 

 ただ、対話のときもそうでしたが、もう少し話が深まるとおもしろかったなあと思いました。たとえば、カワセミにとって、自然に帰ることは幸せだったのか?とか、自然に帰って、自分の力で生きていくことは、自由を意味することなどに話をもっていければよかったと反省しました。


 このような動物のテーマでは、動物を擬人化して、生徒に動物に感情移入してもらうと話が深まるのかもしれません。


 
 なお、議論を深めるヒントは、女の子の作文の最後にありました。「どうしてカワセミを自然に帰すのがよいのか?」という質問をすればよかったのです。


 子どもは、疑問が増えれば増えるだけ考えるようになります。子どもには、大人が良質の質問をたくさんしてみる必要があります。私自身が、今後の課題を与えられた授業でした。


* 「ことは塾」のホームページを開設しました。
      URLは、http://www.ko-to-ha.com/です。
  





2014年2月26日水曜日

美しい日本の私?

 

 今回はちょっと趣向を変えて、対話型の授業をしていて気になったことを書いてみます。


 タイトルに借用した「美しい日本の私」というフレーズは、もう、あまり知っている人は多くないかもしれませんね。「美しい日本の私」とは、『雪国』や『伊豆の踊子』を書いた川端康成が、ノーベル文学賞を受賞したときにおこなった講演のタイトルです。

 

 このタイトルは、当時少し物議をかもしたようです。「美しい」という形容詞が、「日本」にかかるのか、それとも「私」にかかるのか、わからないというのです。


 川端康成は当時は超の付く有名人でしたし、その肖像は多く出回っていたはずなので、それを見れば、「美しい」が「私」にかからないことは自明のことであったと思われます。

 

 川端自身も、そんなことを議論されるのは心外だったことでしょう。やはり、川端にとって、「美しい」のは「日本」だったのです。では日本は、川端にとって、たとえばどう美しかったのでしょう?

 

 さて、なぜこんなことを思い出したかといいますと、先日テレビで、日本文学者のドナルド・キーンさんと作家の瀬戸内寂聴さんの対談を見たからです。


 ご存知の方も多いと思いますが、キーンさんは、東日本大震災のあとに、日本に帰化をされました。キーンさんは番組の中で、そのときの心境を瀬戸内さんに語っておられました。


 (小説家で詩人の)高見順が、敗戦後の焼け跡で、黙って整然と並んで配給を待っている人々を見て、そのけなげな姿に心打たれ、「ああ、自分はこれからこの人たちと一緒に生きていきたいと切に思った」と言っていたとのこと。

 

 キーンさんは、自分も高見順のように、大震災のあと、悲しみにじっとたえて、節度ある態度で支援物資を受け取る東北の人々の姿を見て、「残された日々を、日本人として、この人たちと一緒に生きていきたい」と思った、ということでした。

 

 おもしろいのはここからです。キーンさんのこのような発言を聞いて、瀬戸内さんはこう言いました。


 「でもねえ、私、欲しいときには欲しいって言ってもいいと思うんですよ。」

 

 「日本人がねえ、欲しいって言えないのは、そういう教育を受けてきてるからですよ。」


 「教育がねえ、そうさせてるんですよ。」


 実は私も瀬戸内さんの意見に賛成です。欲しいときには欲しいと言ったほうがいいと思います。やせ我慢してたえても、結局最後はいいことがないような気がするからです。


 そして、教育がそのような日本人をつくっているという意見にも賛成です。教育というか、そのような日本の文化が、そうさせているのではないかと思うのです。


 自分を殺してじっとたえるのは「美しい」という価値観が、日本のどこかにありはしないでしょうか?

 

 川端作品の『伊豆の踊子』や『雪国』のヒロインは、幸薄い自身の運命にじっとたえる女たちです。川端はそれを「美しい」と思ったから作品にしたのではあっても、現代に生きる私には、どうも釈然としないものが残ります。踊り子も駒子も、もっとどうにかできなかったのか?!


 川端康成や、高見順や、キーンさんを感動させた美しい人々は、確かにわがままを言わないけなげな人々です。でも、それで問題は解決するでしょうか?与えられたものを従順に受け取るだけで、本当にいいのでしょうか?


 儒教の影響の名残かもしれませんが、日本人には、上から言われたことには異をとなえずに従順に従うという傾向が強いのではないかと思います。自分自身で考えるということはせずに、誰かの意見に疑問を持つこともなく、従ってしまうという…。


 子どもたちと対話をしていて気になることがあります。あまり具体的ではないテーマになると、とたんに意見が出なくなることです。何度たずねてみても、議論は深まりません。


 近年のフランス映画に『ちいさな哲学者たち』というのがあります。映画は、パリ近郊の幼稚園でおこなわれた哲学の授業に取材したドキュメンタリーです。


 フランスの子どもたちはわずか4,5歳だというのに、「愛」だとか「自由」だとかいう抽象的なテーマについて積極的に意見を述べ合います。


 フランスの子どもたちが自分自身の意見をもって議論できるのに対し、日本の子どもたちはなかなか議論ができません。


 この違いはやはり、それぞれの子どもたちが育っている文化的背景の違いにあるのではないでしょうか?自分の意見をもって、積極的に議論することを求める文化と、上からの命令に疑問をもたず、従順に従うことを求める文化との違い…。


 子どもであろうと、ある文化の中に生まれてからずっとひたっていれば、その文化の価値観に染まります。そして、その文化の持つ限界を自分の中に持ち込んでしまうのです。


 瀬戸内さんのおっしゃるように、「欲しいときには欲しい」ということも大切ではないでしょうか?お互いに「欲しい」と言い合うことになっても、話し合えばよいのです。話し合って、妥協できるところを見出せばよいのです。


 「欲しいときに欲しい」と言わないと、心の底に恨みが残って、そのひずみがどこかにあらわれます。そうなってしまっては元も子もありません。

 

 自分を殺さず、自分で考え、自分の意見をもって、それを表現しあう。そして話し合って、ほかの人たちと共存する。それはけっしてわがままではないし、たえる美しさではない美しさを生む生き方ではないかと私は思うのです。

 

 
http://www.ko-to-ha.com/

2014年2月19日水曜日

保護区という考え方

 

 「きつねの家族は子ぎつねのためにえさを取りに行き、わなにひっかかって殺されてしまいました。」


 野生動物を保護して診療している獣医師さんの記事を読みました。

 

 * 記事のあらすじ  

 鶏を盗んで暮らしているキツネの夫婦がいました。鶏を盗まれて怒った人が、あるときワナをしかけ、キツネ夫婦を殺してしまいます。あとに残った子ギツネが診療所につれてこられました。


 冒頭にあげたのは、記事を読んだ女の子(小学校6年生)の作文の書きだしです。そのあとはこう続いています。


 「私はなぜ親ぎつねを殺さないといけなかったのかと思いました。」


 「殺さない方法はないのかなと思いました。」


 
 そして、女の子は、キツネを「殺さない方法」を考えて、こう書きました。


 「キツネをちがう場所に移すか、森にさくをつくり、キツネのはんいを決める事を考えました。キツネのことを考えると、はんいは広くしたほうがよいと思います。」

 

 「親ギツネは子ギツネのために一生懸命えさをとっているんだなと思いました。」


 「キツネを違う場所に移すか、森にさくをつくり、キツネの範囲を決める」というのは、キツネの保護区をつくるという考え方です。

 

 野生動物の保護・繁殖のために保護区をもうけるというのは、実際におこなわれていることです。保護区をもうければ、動物は人間と争わずに生きていけます。人間も動物の被害にあうことがなくなります。


 女の子は、子どものために「一生懸命えさをとっている」親ギツネが殺されなければならなかったことに心を痛め、なんとか解決法はないかと考えました。それが、保護区という考え方だったのです。


アリー塾長の一言


 作文を書いてもらうときに、テーマの中から問題点を見つけ、その解決法を考えて、作文に書いてほしいと注文をだすことがあります。

 

 今回の女の子の作文は、そのような注文に答えてくれるものになりました。今回の作文のように、じょうずに三段落で書けないことも多いので、この作文は成功例と言ってよいと思います。


 6年生の女の子は、とてもやさしいお姉ちゃんです。お姉ちゃんのやさしい気持ちが、キツネと人間の問題をなんとか解決したいと思わせたのでしょう。


 やっぱり人間、最後は気持ちなんだな、と思いました。強い気持ちがあるから、なんとかしようと思うんですよね…。

 

http://www.ko-to-ha.com/

2014年2月16日日曜日

生きものはつながっている!

 

 植物と虫が、生きていくのに、お互い役に立っているということを学びました。


 蜂や蝶は、受粉の手助けをして、花から蜜をもらっています。花は虫のおかげで受粉ができて、種をつくることができます。


 アリはスミレの種についている白いものが大好きです。ごちそうをもらうために、せっせとスミレの種を運び、スミレがあちらこちらに増えていくのを手伝います。


女の子     :    スミレと蜂は仲がいいんだね。

アリー塾長   :    どうしてそう思うの?

女の子     :    蜂はスミレが種をつくるのを手伝っているし、蜂の食べものの蜜を、スミレが蜂にあげているから。

アリー塾長   :    そうか、そうだねえ。

女の子     :    スミレとアリも友だちだと思う。

アリー塾長   :    どうして?

女の子     :    スミレはアリにごちそうをあげるし、アリはスミレが飛ばしたタネをいろいろなところに運んで、仲間を増やす手伝いをしているから。

アリー塾長   :    そうだねえ、スミレとアリは、両方が、お互いに役に立つことをしてあげているよねえ。

男の子     :    ほかにも助け合って生きているものを知ってるよ。

アリー塾長   :    ほんと?どんなものがある?おしえてくれる?

男の子     :    アブラムシは植物の汁を食べているんだけど、アブラムシのお尻から出てくる汁をアリが食べる。

アリー塾長   :    アブラムシのお尻から出る汁は、アリにとってのごちそうなんだね。

男の子     :    そう。それで、テントウムシがアブラムシを食べようとしてやってきても、アリがアブラムシを守って、テントウムシを追い払う

アリー塾長   :    うん。

男の子     :    アリはアブラムシのお尻から出る汁を飲むために、アブラムシを守る。

アリー塾長   :    そうなんだね。

男の子     :    エビがハゼのために穴を掘って一緒に住んでいるというのもテレビで見た。

アリー塾長   :    エビとハゼが一緒に住んでるの?

男の子     :    うん。それで、敵が来たら、ハゼがエビを守った。
ハゼには毒があるから、敵はいつも逃げていく。

アリー塾長   :    そうかあ、エビとハゼは助け合って生きているんだね。
いろいろな生きものがお互いに助け合って生きているんだねえ。

ほかにもそういう生きものがたくさんいるんだろうね。
あとで調べてみようね。


  ここに登場する男の子は、動物や虫の話が大好きです。お母さんの話によると、テレビで動物や生きものの番組をよく見ているそうです。


 今回の話題について男の子が書いた作文です。

「多くの生きものがほかの生きものと助けあい、キケンから身を守ることなどを手つだってあげていてすごいと思いました。」

「人間も動物に助けてもらったり助けたりして、生きものはやさしいんだなと思いました。」

「生きものがふえているということは、助けあって生きているからこそふえているんだなと分かりました。」


アリー塾長の一言

 

 男の子の作文の最後のほうに書かれていた「生きものがふえているということは、助け合って生きているからこそふえている」という言葉にはっとしました。本当にそのとおりです。生きものすべてのささえがなければ、私たち人間も、生きていくことも増えていくこともができません。


 そして、なによりすごいのは、人間以外の生きものは、別に意識することもなく、そういう助け合いを淡々とおこなっているということです。そうしなければいけないと思ってそうしているのではなく、文字通り、自然におこなっているのです。


 
 
 
 
 

 生きものの助け合いは、そういうことになっているのです。生きものはつながっています。またしても自然に学ぶこととなりましたが、私も人を助けるときは、とくに意識することもなく、あたりまえのこととして、気負わずおこないたいと思いました。

 

 
http://www.ko-to-ha.com/











2014年2月10日月曜日

自分を守る!

 
 

 

 トマトが、自分の身を守るためにもっている秘密について学びました。トマトは虫にいたずらされないように、茎に生えている毛から、いやなにおいを出しているのです。


 アリー塾長   :   トマトの秘密はすごいね。そんな秘密があるから、トマトには虫が近づけないんだね。

ほかにも自分の身を守る工夫をしている植物があるかな?

女の子      :   私は前にオクラをつくったんだけど、オクラにもとげがあった。

オクラのとげも虫よけかな?

アリー塾長    :   よく思い出したね。で、オクラに虫はつかなかった?

女の子      :   うん、つかなかった。

男の子      :   ぼくのオクラには虫がついたよ。

アリー塾長    :   そう?じゃあ、オクラのとげは虫よけじゃないのかな?

詳しく調べてみないとわからないね。今度、調べてみようね。

ほかには?

男の子      :   栗は食べられないようにしている。とげがあるから。

鳥などから身を守って工夫している。

アリー塾長   :   ああ、そうだね。栗のいがはとげだらけだから、触ると痛いよね。

鳥も動物も、いががあったら栗を食べられないね。

男の子     :   トマトじゃないほかの花は、なんで蜜を吸われるようにしてるんだろう?

トマトみたいにすればいいのに不思議。

蜜を吸われないようにしている植物ってあるのかな?

アリー塾長   :   ああ、いいところに気が付いたね。

花はなんで虫に蜜を吸われるようにしているんだろうね。

女の子     :   クモは虫なのに、なんで虫を食べるのかな?
      
普通の虫は葉っぱを食べるのに。

アリー塾長   :   クモがどうして葉っぱじゃなくて虫を食べるのかは、クモに聞いてみないとわからないかもしれないね。

クモは葉っぱじゃなくて、虫を食べる虫なんだって、みとめてあげるしかないね。

そうそう、トマトには虫をやっつける秘密があったね。

だから、トマト畑にクモがいても、エサになる虫は来ないね。クモはおなかがすいて困ってしまうね。

生徒たち    :    引っ越しすればいい。

アリー塾長   :    どこに?

女の子     :     かぼちゃ畑とか。

アリー塾長   :    それはいい案だね!

女の子     :     かぼちゃ畑には虫がいっぱいいて、クモもうれしいし、虫をとってもらえて、かぼちゃもうれしい。

アリー塾長   :    そうだねえ、かぼちゃ畑にクモが行けば、たくさんエサが食べられて、クモもうれしいし、虫をとってもらえて、かぼちゃもうれしいよね。

両方の生きものにとっていいことだよね。


* アリー塾長の一言

  どんな生きものも、過酷な環境の中で生きていくのには、工夫をしなければなりません。今回は、トマトが自分の身を守るための工夫について学びました。葉を食べてしまうような虫はトマトにとっては敵です。敵を撃退するために、トマトは秘密の力をもっているのです。


 ところで、今回は、植物とその敵である虫の戦いの話であるはずでした。ところが、植物と虫はかならずしも敵同士ではないのではないか、という話も同時にでてきました。蜜を吸われる花の話と、クモとかぼちゃの関係の話です。
 

 この植物と虫が助け合って生きている話は、次回に学びました。植物と虫は、敵対するだけでなく、お互いに補い合って生きています。生きものはつながっているのです。


 
 

 …さて、自分の身を守るというのは人間にも必要なことです。ですが、また、信頼できる人とつながって、お互いに助け合って生きていくということも大事なことだし、幸せなことです。人間関係って、いくつになっても難しいなあ、と私などは思いますが、そのあたりのバランスが、自然はとてもうまくいっていると感じます。自分を守りすぎて孤立するでもなく、相手に依存しすぎるでもない…。やはり最後は自然に学べ!ですかね。


http://www.ko-to-ha.com/


 

2014年2月8日土曜日

生きてるってどんなこと?

 生きているってどんなことか考えました。

アリー塾長   :   「生きてるってどんなこと?」

…みんな「えっ?」という顔になりました。

アリー塾長   :   「みんなも生きてるよね?」

              「生きてなかったらここにいないよね?」

…みんなうなずきます。

アリー塾長   :   「生きてるの反対はなに?」

生徒たち    :   「死んでる。」

アリー塾長   :   「それだけ?」

生徒たち    :   「?」

アリー塾長   :   「じゃあ、これは?」

…と言って、机の上のシャープペンシルを指しました。

生徒たち    :   「ああ、生きてない。」

アリー塾長   :   「そうだねえ、生きてるの反対には、生きてないっていうのもあるよねえ。」


…このあと、みんなで、「生きている」ということがどういうことか勉強しました。生きているものにはどういうものがあって、生きていないものにはどういうものがあるかを考えました。


  生きているものには、水と食べものと空気が必要です。

 生きものは、水と食べものと空気をつかって「力」をつくって、大きくなったり、動いたりします。
それは、人間も動物も植物も同じです。それ以外のもの、たとえば、ランドセルや文房具は生きていません。生きていないものは、水と食べものと空気をつかいませんし、大きくなったり動いたりしません。

 
 

アリー塾長   :   「どんなものが生きてて、どんなものが生きてないと思う?」

「ちょっとわかりにくいものについて考えてみようか?」

女の子     :   「茶色くなって地面に落ちちゃった葉っぱは前は生きてたけど、もう生きてない。」

アリー塾長   :   「いいところに気が付いたねえ。」

「そうだねえ、葉っぱは植物だから、水と食べもの(養分)と空気をつかって生きているね。」

「でも、枯れてしまって、茶色くなって地面に落ちていたら、もう、生きていないよねえ。」

「死んでしまったとも言えるねえ。」

男の子     :   「雲は生きてる!」

アリー塾長   :   「クモ?」

 
              「クモって、虫の蜘蛛?」

男の子     :   「違う、空にある雲。」


アリー塾長   :   「ああ、雲!空に浮かんでいる、白い、あの雲?」

 「雲は生きている!!ああ、それはすてきだ!」

「雲かあ、雲が生きていればすてきだねえ。」

「だけど、雲は生きているのかなあ?」

男の子     :   「雲は生きてる。大きくなったり、動いたりするから。」

アリー塾長   :   「そうだねえ、確かに雲は大きくなったり動いたりするねえ。」

「でも、大きくなったり動いたりするだけで、生きてるって言えるのかなあ?」

「生きものの特徴をもう一度思い出してしてみようね。」

「生きているものがそなえている条件は、ほかになにがあるんだったっけ?」

生徒たち    :   「水と食べものと空気をつかっている。」

アリー塾長   :   「そうだったねえ。」

「じゃあ、雲が水と食べものと空気をつかっているか、確認してみよう。」

「まず、水。雲は水をつかっているかな?」

男の子     :   「つかっている。雲は小さい水の粒でできてるって聞いたことがある。」

アリー塾長   :   「よく知っているねえ。水の粒は水蒸気って言うんだよ。」

「水の粒でできているってことは、水をつかっているってことになるかな?」

男の子     :   「なる。」

アリー塾長   :   「そっか。じゃあ、次、雲は空気をつかっているかな?」

男の子     :   「…?、つかっている?空気の中に浮かんでいるし…。」

アリー塾長   :   「では、最後、雲は食べものを食べる?または、養分を吸収する?」

男の子     :   「ああ、雲は生きてない!」

アリー塾長   :   「そうだねえ、空には食べものも養分もないよねえ。」

「それから、水の粒でできてるってことは、水をつかっているってことにはならないね。」

「それ自体が水だってことだからね。」

「水をつかうっていうのは、水じゃあないものが、自分のために、水をつかうってことだからね。」
 


*  最後に書いてもらった二人の作文のタイトルは、女の子が、「一番大事なのは命!」、男の子が、「生きていることはすごい」でした。二人とも、生きていることのすごさや大事さに気づいたようです。

 女の子は、作文のなかで、「わたしは、生きている物でよかったなと思いました。なぜなら、生きていないと、言葉もしゃべれないし、すきな所にも行けないからです。」と書きました。

 男の子は、「生きものは生きていくのに大へんだなあと思いました。」と書いて、そのあと、こう続けています。

「虫や動物は、弱いものを食べてしまうのはダメなんじゃないかなと思いました。でも生きているものは食べ物がいるのでしようがないと思います。カブトムシのメスとオスをかっていた時にメスのほうが強くて、メスがオスを食べてかわいそうでした。人間が人間をころしてしまうのはやめてほしいです。理由は、(人間は)食べものではないし、なかまだからころしてはいけないと思います。」

「ちきゅうおんだんかは人間がやってしまったもので、だんだんあつくなってホッキョクグマが生きていくところがなくなって死んだら、人間がころしたことになると悲しいので、エコをしてほしいです。」


*  アリー塾長の一言

 雲が生きているっていうのは、とても詩的な発想で、それ自体すばらしい!と思いました。でも、現実は、確認してみたとおりです。残念ながら雲は生きていません。

 人間の想像力は無限の可能性をもっています。想像力なくして豊かな人生はない!とすら言えるでしょう。詩的な発想は、想像力と関連させて、今後機会があったら、またみんなで考えてみたい魅力的なテーマです。

 
 

 それから、男の子の作文ですが、私はこれを読んだときに、もう、感動しました。そう、「生きものは生きていくのに大へん」なんだよ!食べていかなくちゃいけないからね。そして、食べものは、みんな生きていたものだから…。

 

 ○○クン、作文、よく書けたね。私も本当にそう思うよ。そうだね、「悲しい」から、弱いものを殺してほしくないし、仲間を殺してほしくないんだよね。「悲しい」って気持ちはきっと大事なんだね。「悲しい」って思うから、やさしくなれるんだよね。


http://www.ko-to-ha.com/






2014年1月23日木曜日

「速い」っていいこと?

 
 
 
 ある日の対話・作文クラスの授業です。

 
問いかけは、「速いってなんだろう?」でした。


アリー塾長    :   「 童話に、ウサギとカメが競争した話があったよね?ウサギは、本当はカメより速く走れる のに、途中で昼寝をしたから、カメに抜かれて、競争に負けちゃったんだよね。」    

「ウサギはカメより走るのが速い。速いって、何かと比べて、速いって言えるんだね。それより遅いものがあるから、速いって言えるんだね。」

アリー塾長    :   「 世界には速いものがたくさんいる。人間では、金メダルのボルト!動物ではチータが一番速い。」

「人間の作った道具も速い。」

「自動車や、新幹線や、ジェット機。」

「新幹線、乗ったことある?」

…小学校3年生の二人(男の子と女の子)はうなずきます。

男の子      :   「秋田に行ったとき、新幹線に乗った。すごく早く着いた。」

アリー塾長    :   「まだまだ速いものがあるよ。音!」

「地球が回ってる速さ。」

「人工衛星や宇宙船。」

「地球が太陽のまわりを回るのは、それよりもっと速いみたいだよ。」

「それから、もっともっと速いのが光!」

「光は速いよ。音よりずっと速いよ。」

「雷を思い出してみて。」

「ピカッと稲妻が光ってから、少したってゴロゴロっていう音がしてくるでしょ?」

…二人、感心して聞いています。

アリー塾長     :   「光は速いんだね。これからほかに見つかるかもしれないけど、今のところ、光より速いものはないって考えられてるんだって。」

「すごいね、光。月からの光は、一秒ちょっとで地球に届くんだって。」

…さて、ゆっくり一回深呼吸して、聞いてみました。

アリー塾長     :   「速いっていいこと?」

男の子・女の子   :   「いいことーっ!!」

…二人同時に元気よく答えました。

アリー塾長     :   「ほんとう?」
「なんで?」

男の子        :   「新幹線は速いから、早く行きたいところに行ける。だから、速いっていいこと。」

女の子        :   「オリンピックでは走るのが速い人が金メダル。だから、速いっていいこと。」

アリー塾長      :   「そっかあ、みんなは速いことはいいことだって思うんだ。」
「でもさあ、遅いほうがいいことってない?」

…しばらく間があきました。

…女の子が小さな声で話し始めました。

女の子        :   「ゆっくりやらなかったから、宿題をまちがえて、お母さんに怒られた。」

アリー塾長      :   「○○ちゃん、怒られちゃったの?」

女の子        :   「うん。急いでやったら、まちがっちゃったの。」

アリー塾長      :   「そっかあ。」

女の子        :   「だから、速くやることがよくないときもある。」

アリー塾長      :   「宿題は、じっくり時間をかけてやったほうがいいんだね。」

女の子        :   「うん。」

アリー塾長      :   「ほかにゆっくりのほうがいいことがある?」

男の子        :   「新幹線は行きたいところに速く着くけど、あんまり景色が見えない。」男の子が言い出しました。

アリー塾長      :   「景色?」

男の子         :   「散歩は歩くからゆっくりだけど、いろんなものが見られる。」

アリー塾長      :   「どんなものが見られる?」

男の子         :   「景色。よその家とか、生えてる草とか、花とか、木とか、ゆっくり見られる。」

アリー塾長      :   「景色がゆっくり見られるって楽しい?」

男の子         :   「うん。」

アリー塾長      :   「そっかあ、ゆっくりのほうがいいこともあるんだね。」

男の子・女の子    :  「うん。」二人がうなずきました。

 そのあと、女の子は、急いでやってしまった宿題の失敗の話を、男の子は、新幹線の旅と散歩を比べた話を作文に書きました。

* アリー塾長の一言

 「速い」と「遅い」は、何かと比べてはじめて「速い」とか「遅い」とか言うことのできる相対的な概念です。それぞれの価値も相対的なもので、「速い」ほうがいいときもあれば、「遅い」ほうがいいときもあります。

 今回の授業では、「速い」という言葉(概念)と、その価値について考えることとなりました。

 
 
 
 
 
 ところで、速いものをたくさん出して、「すごいね、すごいね。」、「速いっていいこと?」って聞いたら、誰だって「いいことーっ!」って答えますよね。ちょっと意地悪だったかな?でも、「ほんと?」と聞いたら、遅いほうがいいことがちゃんと出てきた。すばらしい!

 二人、よく考えられたよね。そうそう、宿題はゆっくりじっくり取り組まないとね。嫌なものを早く片付けたいからって、急いでやったらまちがえちゃうよね?

 
 それから新幹線と散歩の景色の違い!あれにもびっくり!旅の楽しみと移動のスピードについて書かれている文章ってけっこうあって、時々入試問題なんかにもなっています。何も知らずにそのあたりにズバリと切り込んでくるとは…。

 
 二人ではないけれど、本当に、速いほうがいいときもあれば、遅いほうがいいときもあります。事務仕事はすばやく効率的に、オフのときには、ゆっくりと一杯のお茶を心ゆくまで味わって飲む。おいしいお茶、幸せですよねー。楽しいことはゆっくりのほうがいいなあ。あ、速いのが楽しいこともある!ジェットコースター!!

http://www.ko-to-ha.com/