2014年10月6日月曜日

邪悪な心


 写真は「イーブル(Evil)」の像です。ロンドンのウエストミンスター寺院の売店で買ってきました。「イーブル」の意味は「邪悪な」です。theをつけて、「悪魔」という意味もあります。

 先月の毎日新聞に、おそろしく鋭い、こんな詩が載っていました。

 びんぼう神

                                くらとんぼ

 ぼくはいつも
 かわいそうな人をみているんです
 みていると
 ぼくはかわいそうな人から
 じゃあくなオーラをかんじます

 ぼくにもじゃあくなオーラ
 があります

 きっときみにもかわいそうなとき
 じゃあくなオーラがあります
 「フフフ」しつれいしました

 作者は、佐賀県鹿島市・明倫小学校5年の一ノ瀬祐太くんです。

 
 この詩を読んだとき、私はびっくりしました。どうしてこんなすごい真理を、これだけ簡潔に、あますところなく表現できるのでしょう?

 そうです。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうな人」にあるのです。「じゃあくなオーラ」は、その人が「かわいそうなとき」にあるのです。

 新聞記事の講評には、「人間には、やさしい気持ちとじゃ悪な気持ちが二つともある」、「でも人間だからじゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」とあります。これは大人が書いた意見です。でも、ほんとうでしょうか?

 「くらとんぼ」さんは、「じゃあくなオーラ」が、いつでも、誰にでもあるとは言っていません。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうなとき」、「かわいそうな人」にあると言っているのです。

 ではどうして「かわいそうな人」、「かわいそうなとき」には「じゃあくなオーラ」があるのでしょう?

 「かわいそうな人」は「かわいそうなとき」、「どうして自分だけこんなひどい目にあわなきゃいけないんだ!」と神様に文句を言ったりします。「世の中は不公平だ」と、まわりの人にあたったりもします。「誰もわかってくれない、誰も助けてくれない」と言って、人を恨んだりします。そんな人には確かに、「じゃあくなオーラ」が満載です。

 一方、「かわいそうな人」の中には我慢をする人がいます。つらかったり悲しかったりしているときに、つらいとも悲しいとも言わず、そんな状況にじっと耐えて、明るく親切にふるまったりします。自分のことはさておいて、人にはやさしくしないといけないと思っているのです。そんな人には一見「じゃあくなオーラ」はないように見えます。

 でも実は、文句を言っても我慢をしても、結果は同じです。どっちの人にも「じゃあくなオーラ」があるのです。

 残念ながら、「かわいそうな人」は誰でも、自分の不幸を見つめているうちに、ほかの人たちの幸運がうらやましくなります。うらやましいだけでなく、妬ましくなります。そうして怒りがわいてきて、ほかの人たちも不幸になればいいと思い始めるのです。

 文句を言っても我慢をしても、「かわいそうな人」にはものすごい怒りがたまっています。「かわいそうな人」は怒りから、自分以外の人たちの不幸も願うようになっていくのです。我慢をする人は、「自分はそんなことはない」と言うかもしれませんが、やっぱり、「自分が不幸なら、みんな不幸であってほしい」と心のどこかで思っています。そうして「じゃあくなオーラ」を放つのです。

 だから、新聞の講評にあった、「じゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」というのは違うのではないかと思います。少なくとも、「じゃ悪な気持ちを抑え」ることは根本的な解決にはなりません。「じゃあくなオーラ」を放たないためには、「かわいそうなとき」に、「かわいそうな人」にならないことしかないのです。

 「かわいそうなとき」に「かわいそうな人」にならないためには、工夫が必要です。それは場合によってはそんなに簡単なことではないかもしれません。でも、それができる人は確かにいます。私もそんな人たちを見て、「かわいそうな人」にならない方法を学びたいと思っています。人のものであろうと自分のものであろうと、「じゃあくなオーラ」なんてまっぴらですから。

http://www.ko-to-ha.com/

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