今回も、しらずしらずのうちに、大人が子どもに与えてしまう影響について書きます。前回とはまたまったく違うかたちで、子どもは大人の影響を受けているということに気づかされました。
対話のテーマは「そんなときどうする?」でした。
急な切り立った崖が向かい合わせにあります。橋はかかっていません。両方の崖の間は、とても飛んで渡れる長さではありません。10メートルくらいはあるでしょうか?それぞれの崖の上には子どもが一人ずついて、二人はお互いのところへ行きたいのです。「そんなときどうする?」
女の子の作文です。
「 例えば、家が近かったら、はしごなど、わたれるような長いものをもってくるといいと思います。でも、とどかなかったら、とっても長いロープをもってきて向こうがわの人にわたして、向こうがわの人が、ロープを体にまきつけて、とべばいいです。理由は、おちそうになったら、もう一人の人(向こうの人がおもかったら、他の人にも手伝ってもらう)が引っぱればいいと思います。それでもだめだったら、遠回りをすればいいです。」
作文はこれで終わりにはなりませんでした。ここから、女の子の本当の意見が始まります。
「でも、私は、ロープなんかじゃあぶないので、遠回りをしたいなと思いました。そうしたら、2人とも安全に出会えるからです。なぜなら、向こうの人の体重がおもかったら、ロープが切れてしまって、そのまま、おちてしまったら死んでしまうからです。あともし、おちて死んでしまったら、「ロープでわたろう。」と言った人のせきにんになって、大へんなことになってしまうからです。だから、遠回りをした方がいいなと思いました。」
「おちて死んでしまったら、「ロープでわたろう。」と言った人のせきにんになって、大へんなことにな」る…この箇所を読んで、私はギョッとしました。こんなことを子どもが言うなんて…。これはいったいどういうことなのでしょうか?
責任問題になるから、危ないことはしないほうがいいと女の子は書きました。そのこと自体はまあ、悪いこととは言えません。ある意味そのとおりです。でも、何かひっかかるものがあります。こういうことを子どもが考えるということが、なんだか私を嫌な気分にするのです。
こんなことを子どもが自分で考えるでしょうか?責任問題を避けるというのは、安全志向のことなかれ主義です。複雑な利害関係を考慮して、自分の身を守るためにとる方策です。小学生の子どもが本来もっている発想とは思えないのです。
おそらく、女の子のまわりの大人の誰かが、何かの機会にそのようなことを言ったのだと思います。誰かを傷つけるようなことをしたら、責任を問われるから、そういうことはしないように、と言ったのではないでしょうか?
くりかえしますが、誰かを傷つけないようにすること自体は悪いことではありません。でも、子どもが責任問題について心配することには、どこか違和感をおぼえます。問題は、誰の責任かということではなくて、みんなが傷つかないようにするにはどうしたらよいかということではないでしょうか?
ものごとを解決するためには、自分もその当事者であるという意識が必要です。他人事になってしまったら、問題を解決しようという気持ちも薄れ、真剣に考えられなくなってしまいます。責任を逃れて、その問題から遠ざかるよりも、問題の本質的な解決法をみんなで考えられたらよいなと私は思います。
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