2014年4月14日月曜日

絵画と言葉

 


 先日久しぶりに美術展に行きました。ラファエル前派展をやっていたのです。

 ラファエル前派とは、19世紀のイギリスで、革新的な絵画表現を追求した一派です。日本の少女漫画にも多大な影響を与えたと言われ、物語性の強い、耽美的な表現で有名です。

 
 

 ラファエル前派の絵画の中でもっとも有名なのは、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィリア」でしょう(写真)。私は、高校の美術室の壁に貼られていた「オフィリア」にはじめて出会って以来、大学時代にロンドンのテートギャラリーで、そして日本では、今回も含めて2回と、計3回見ることができました。

 

 今回は、事前に美術展を紹介するテレビ番組を見てから見学に行ったのですが、それはそれで大変興味深かったです。なかでも、解説をしていた大学の先生が、ラファエル前派の絵画の特徴を
一言で言い表しておられたのですが、またしても自分と自分の傾向について悟らされてしまい、苦笑してしまいました。

 
 

 その先生によれば、イギリスというのは絵画の国と言うよりは、文学の国なのだそうです。だから、イギリスの絵画は物語性が強く、ラファエル前派も、シェイクスピア作品に題材をとったり、絵画自体に社会性を織り込んだりして、何かの意味をもたせる傾向があるということでした。

 

 
 「ああ、これだったのか。」と、腑に落ちた感じがありました。ラファエル前派の絵画自体はもちろん、世界が認める立派な絵画です。私の実家にあった世界美術全集にも、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの「受胎告知」の絵が載っており(今回の美術展にも来ていました!)、子どものころよく見ていました。

 
 

 でも私には、ラファエル前派の絵画は、絵画としてはどこか正統ではないように思えてしかたなかったのです。なるほど、ラファエル前派の絵画は、絵画としては、物語性が強すぎる、説明が多すぎる、意味がありすぎる、だから文学に近い。ラファエル前派の絵画は、絵画でありながら、おしゃべりで、画面から言葉が聞こえてくるのです。


 「絵画はこうあらねばならない」という基準があるわけではありません。ですから、おしゃべりな絵画は、それはそれでいいと思います。ただ、絵は、絵くらいは、何も考えないで見たいかなあと思うわけです。意味なんか考えずに、ただ「美しい」とか、「かわいい」とか、「おどろおどろしい」とか、「悲しい」とか、「好き」とか、「嫌い」とか、感覚で感じたいと思うのです。


 そう思いながら、真っ先に思い出すのがフランスの印象派の絵です。そういえば、印象派の絵を見ながら、意味は考えていなかったかもしれません。まさに「印象」なので、柔らかい暖かい感じがするとか、けだるい感じがするとか、五感にうったえるものを感じながら見ていました。


 ラファエル前派の絵画は意味を考えさせます。これが、私がラファエル前派を好んでいた理由だったのです。やはり私はよくよく考えることが好きで、言葉と物語が好きなんだなあ、と実感させられました。

 

 さて、冒頭で、ラファエル前派は日本の少女漫画にも多大な影響を与えたと書きました。ということは、日本の少女漫画には、画期的なものがあるということになります。それは、絵=イメージと意味=言葉との融合がそこにあるということです。何を大げさなことを、と言われるかもしれませんが、文学と同時に少女漫画にもどっぷりとつかった経験のある私には、このことは世界に発信すべき一大文化革命だと思うのです。


 今回は、実は、子どもと美術館をテーマに書くつもりでした。その導入に、先日行った美術展の話を使うだけのつもりでしたが、思いのほか長くなってしまいました。美術展には子どもは一人もいませんでした。平日の昼間でしたが、春休みでもあったし、子どもの姿がまったくないというのは少しさみしいです。


 いずれ本題の子どもと美術館の話について書いてみたいと思います。


 
 

 
http://www.ko-to-ha.com/

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