「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2014年2月26日水曜日
美しい日本の私?
今回はちょっと趣向を変えて、対話型の授業をしていて気になったことを書いてみます。
タイトルに借用した「美しい日本の私」というフレーズは、もう、あまり知っている人は多くないかもしれませんね。「美しい日本の私」とは、『雪国』や『伊豆の踊子』を書いた川端康成が、ノーベル文学賞を受賞したときにおこなった講演のタイトルです。
このタイトルは、当時少し物議をかもしたようです。「美しい」という形容詞が、「日本」にかかるのか、それとも「私」にかかるのか、わからないというのです。
川端康成は当時は超の付く有名人でしたし、その肖像は多く出回っていたはずなので、それを見れば、「美しい」が「私」にかからないことは自明のことであったと思われます。
川端自身も、そんなことを議論されるのは心外だったことでしょう。やはり、川端にとって、「美しい」のは「日本」だったのです。では日本は、川端にとって、たとえばどう美しかったのでしょう?
さて、なぜこんなことを思い出したかといいますと、先日テレビで、日本文学者のドナルド・キーンさんと作家の瀬戸内寂聴さんの対談を見たからです。
ご存知の方も多いと思いますが、キーンさんは、東日本大震災のあとに、日本に帰化をされました。キーンさんは番組の中で、そのときの心境を瀬戸内さんに語っておられました。
(小説家で詩人の)高見順が、敗戦後の焼け跡で、黙って整然と並んで配給を待っている人々を見て、そのけなげな姿に心打たれ、「ああ、自分はこれからこの人たちと一緒に生きていきたいと切に思った」と言っていたとのこと。
キーンさんは、自分も高見順のように、大震災のあと、悲しみにじっとたえて、節度ある態度で支援物資を受け取る東北の人々の姿を見て、「残された日々を、日本人として、この人たちと一緒に生きていきたい」と思った、ということでした。
おもしろいのはここからです。キーンさんのこのような発言を聞いて、瀬戸内さんはこう言いました。
「でもねえ、私、欲しいときには欲しいって言ってもいいと思うんですよ。」
「日本人がねえ、欲しいって言えないのは、そういう教育を受けてきてるからですよ。」
「教育がねえ、そうさせてるんですよ。」
実は私も瀬戸内さんの意見に賛成です。欲しいときには欲しいと言ったほうがいいと思います。やせ我慢してたえても、結局最後はいいことがないような気がするからです。
そして、教育がそのような日本人をつくっているという意見にも賛成です。教育というか、そのような日本の文化が、そうさせているのではないかと思うのです。
自分を殺してじっとたえるのは「美しい」という価値観が、日本のどこかにありはしないでしょうか?
川端作品の『伊豆の踊子』や『雪国』のヒロインは、幸薄い自身の運命にじっとたえる女たちです。川端はそれを「美しい」と思ったから作品にしたのではあっても、現代に生きる私には、どうも釈然としないものが残ります。踊り子も駒子も、もっとどうにかできなかったのか?!
川端康成や、高見順や、キーンさんを感動させた美しい人々は、確かにわがままを言わないけなげな人々です。でも、それで問題は解決するでしょうか?与えられたものを従順に受け取るだけで、本当にいいのでしょうか?
儒教の影響の名残かもしれませんが、日本人には、上から言われたことには異をとなえずに従順に従うという傾向が強いのではないかと思います。自分自身で考えるということはせずに、誰かの意見に疑問を持つこともなく、従ってしまうという…。
子どもたちと対話をしていて気になることがあります。あまり具体的ではないテーマになると、とたんに意見が出なくなることです。何度たずねてみても、議論は深まりません。
近年のフランス映画に『ちいさな哲学者たち』というのがあります。映画は、パリ近郊の幼稚園でおこなわれた哲学の授業に取材したドキュメンタリーです。
フランスの子どもたちはわずか4,5歳だというのに、「愛」だとか「自由」だとかいう抽象的なテーマについて積極的に意見を述べ合います。
フランスの子どもたちが自分自身の意見をもって議論できるのに対し、日本の子どもたちはなかなか議論ができません。
この違いはやはり、それぞれの子どもたちが育っている文化的背景の違いにあるのではないでしょうか?自分の意見をもって、積極的に議論することを求める文化と、上からの命令に疑問をもたず、従順に従うことを求める文化との違い…。
子どもであろうと、ある文化の中に生まれてからずっとひたっていれば、その文化の価値観に染まります。そして、その文化の持つ限界を自分の中に持ち込んでしまうのです。
瀬戸内さんのおっしゃるように、「欲しいときには欲しい」ということも大切ではないでしょうか?お互いに「欲しい」と言い合うことになっても、話し合えばよいのです。話し合って、妥協できるところを見出せばよいのです。
「欲しいときに欲しい」と言わないと、心の底に恨みが残って、そのひずみがどこかにあらわれます。そうなってしまっては元も子もありません。
自分を殺さず、自分で考え、自分の意見をもって、それを表現しあう。そして話し合って、ほかの人たちと共存する。それはけっしてわがままではないし、たえる美しさではない美しさを生む生き方ではないかと私は思うのです。
http://www.ko-to-ha.com/
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