「華氏451」(1966年、イギリス・アメリカ)という映画を観ました。監督は私の大好きなフランソワ・トリュフォーです。トリュフォーにはすばらしい作品がたくさんあります。中でも「恋のエチュード」は何度観ても飽きません。それから、「トリュフォーの思春期」は、トリュフォーの子どもたちへの愛情が遺憾なく発揮された感動的な作品です。
映画監督としてのトリュフォーですが、たとえば「恋のエチュード」と「トリュフォーの思春期」がずいぶん違った趣を持っているように、その守備範囲はとても広いという印象をあたえます。「華氏451」も、またその二作品とはまったく異なったテーマを扱っています。
「華氏451」の原作はSF作家のレイ・ブラッドベリです。時代は近未来。映画の画面は当時としてはすこぶるモダンな雰囲気を出していて、室内の装飾も役者の衣装もとてもおしゃれで、合理的な美しさを表現しています。家電製品も現代的で、テレビなども薄型の大画面で、今見ても違和感がありません。
そして肝心の内容ですが、これが焚書、つまり本を読むことが法律で禁止されており、本を持っていると、見つかって燃やされてしまうという世界の話なのです。華氏451とは、その温度になると本が燃え始める温度なのだそうです。本を燃すのはなぜか消防士です。人々は不燃物でできた家に住んでいるので火事はおこりえず、消防士はもっぱら本という「火」を消し続けます。
主人公はその消防士です。彼は何の疑問も持たずに本を燃やす毎日でしたが、ある時、本を愛好する一人の女性に出会って、本の魅力に目覚めます。妻とも別れ、仕事も失って、彼は本を愛する人々と合流して、林の中、川のほとりで本を暗誦しながら隠れ住むようになります。
この映画のような世界はもちろん現実にはありえません。ですが、このようなフィクションは現実のとある細部を拡大して見せてくれます。この映画の場合は、読書の禁止と焚書というテーマでもって、本の持つ意味と役目について考えさせてくれるのです。
映画の中で、主人公は本を読むことに目覚め、すっかり夢中になっていきます。そしてある日、自宅に集まっていた妻の友人たちの前で小説を朗読します。すると、その中の一人が突然すすり泣きを始めます。彼女は「感情がこみあげてきて。」、「こんな感情忘れてた。」と言いながら帰っていきます。
このエピソードは、本はまず人間の感情にうったえるものだということをあらわしています。泣くのですから、心地よい感情とは言えません。悲しみの記憶が呼び覚まされたのでしょう。では、不快な気持ちにならないように、本は読まなければよいのでしょうか。
主人公の上司は、哲学書を前に、「こういうものが一番いけない。こういうものを読んで、人よりものがわかったと思うようになるのがいけない。」、「人間は同じでないといけない。平等でないと幸せを感じないからだ。」と言います。
主人公の上司の言葉からは、本を禁止するのは、人々に幸福感を感じさせ続けるためだということがわかります。そしてその幸福とは、感情を乱されず、淡々と暮らすこと。何かを知って不安になるより、知らないで平穏でいること。みんな同じように、何も感じす、何も考えず、何も知らないでいることが幸福だというのです。
私は私の生徒の一人とこんな対話をしたことがあります。「書かれている文章は、究極的には、全部人間のことについて書かれているよ。人間は人間に興味がある。だから、本を読むんだよ。」…「人間はみんな幸せになりたいんじゃないかな?だから、本を読むんだよ。」私は言いました。
彼は、「本を読んで、参考にする…。」と言いました。「参考にする」、そう、たぶんそうです。たとえ気持ちを乱されても、自分で感じて、考えるために本を読むのです。そうやって心と頭を使って、時間をかけて、自分に合った幸せを見つけていくのが本当の幸福への道ではないでしょうか。
映画は、主人公と隠れ住む人々がいつまでも、本の内容を暗誦しながら、雪の降る林の中を行き交う様子を映し出して終わります。文章は、声を出して読まれることによって体を獲得し、生きはじめます。まさに文体として、そこに立ち上がるのです。それが象徴的に映像として表現されていて、実に感動的なラストシーンです。
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