2025年8月30日土曜日

ハナクソ!

  Kちゃんが辞書をひいていて、「ハナクソ、って出てる!」と叫びました。妹のRちゃんも大騒ぎです。「ハナクソ、ハナクソ!」と二人で大笑いします。「ハナクソ、って出てた?ウンコもあるよ。」と私は挑発します。


 「ハナクソ」という言葉に出合ってしまうのは、紙の辞書をつかっているからです。辞書をペラペラとめくっていたら、たまたま「ハナクソ」と書かれているところに目がいってしまったのです。電子辞書やスマホではこうはいきません。


 私が、すくなくとも小学生のうちは紙の辞書をつかってもらいたいと言うのは、このような偶然の出合いがあるからです。言葉に偶然出合って、ボキャブラリーを豊かにしてもらいたいと思うからです。


 人生におけるさまざまな出合いが偶然であるように、言葉との出合いも偶然です。たまたま読んだ本で、たまたまその言葉と出合うのです。そして、出合いはたまたまだからおもしろい。


 言葉との、偶然の出合いをたくさんしてほしい。偶然の出合いをたくさんして、語彙を増やしてほしい。それが、私が紙の辞書をおすすめしている理由です。


 

アメちゃんの話

 教室では、作文を書き始めてもらう前に、生徒ちゃんたちにアメちゃんを配ります。一人一個。なにか特別なことがあったときにはもう一個。一生懸命資料を読んで、たくさん意見を言ってもらったあとで配ります。ささやかなご褒美です。


 ときどき、このアメを、お母さんにたのんで買ってもらうという話を聞きます。お母さんと二人で、お菓子屋さんでさがしたという話を聞きます。帰り道、お菓子屋さんで買って帰ったと言われることもあります。教室で配られるのと同じものがいいのだそうです。教室で配るのは、ソーダ味のアメ、ミルク味のアメ、カフェオレ味のアメです。


 この間は、ソーダ味のアメをさがしたという話を聞きました。買って帰ってみたら、同じ味ではなく、がっかりしたそうです。教室のアメのメーカーはどこかとお母さんに聞かれました。ソーダ味のアメは、メーカーによって、そんなにちがうのでしょうか。教室にあるアメがおいしくて、別のメーカーのものはおいしくないのでしょうか。


 そんなことはないと思います。どこのメーカーのアメも、それぞれおいしいはずです。ソーダ味のアメも、ミルク味のアメも、どこのメーカーのものでもいいはずです。それなのに、どうして教室のアメと同じアメがいいのでしょうか。


 教室で配るアメには、おそらく、特別な意味があるのでしょう。ちょっと我慢したり、ちょっとがんばったりしたあとでなめるから、おいしいのでしょう。アメがおいしいのは、ちょっと我慢したり、ちょっとがんばった自分はえらかったなあ、と思えるからなのかもしれません。


 教室でもらうアメを食べたいと思うのは、アメを食べて、がんばれる自分を思い出したいと思うからなのかもしれません。


 

2023年5月6日土曜日

「先生が好きです」

 「先生が好きです」と「告白」されました。「告白」されたのは二回目です。前回は当時中学三年生の女の子、今回は小学四年生の男の子です。   
 
 今年は宮沢賢治没後90年だそうです。私はその男の子に、「『銀河鉄道の夜』、読んでみる?」と言いました。  
 「あ、でもちょっと難しいかもしれないね」。『銀河鉄道の夜』は、対象年齢が小学五、六年生以上とされています。  
 「ぼく、読めるよ」とその子は言いました。  
 「ああ、そうだね。読めるかもしれないね。できるかできないか、私が決めることじゃないよね」と私は言いました。  
 子どもは個人差が大きいのです。『銀河鉄道の夜』が読めるかどうかは、その子次第なのです。  
 「あなたができるかできないか、私が決めちゃいけないのよね」自分に言い聞かせるように、もう一度私は言いました。  
 「先生はそんなことしません!」その子が言いました。  
 「先生は優しいから、そんなことしません」もう一度言われました。   
 そして、「先生が好きです」と「告白」されたのです。「どうもありがとう」、私はお礼を言いました。  
 「ぼくのこと、『できない』って言った人がいる」とその子は言います。「ぼくの目の前で言ったんですよ!」と力をこめて、何度も言います。その子の心はとても傷ついたようです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うとき、いったい何が「できない」と言うのでしょう。私の目から見ると、子どもにはできることがたくさんあります。たしかに、それぞれできることは違っていて、その子によって、「これはできるけれど、あれはできない」ということはあります。でも、できることがあるのだから、それを伸ばしていけばよいのではないかと思うのです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うのは、「この子は私が思うようにはできない」ということなのではないでしょうか。大人が、そうあるべきと思っている型に、その子がはまらないので、「この子はできない」と言うだけのことなのではないでしょうか。 
 
 以前「告白」してくれた女の子にも言われました。「先生は、『ああしなさい、こうしなさい、そうしなきゃダメ、ああしなきゃダメ』って言わないじゃない?」。そう言われればそうです。でも、そう言ってはいけないと思うから言わないのではありません。それより大事なことがあると思うから、それを優先しているのです。  
 
 子どもには、「できない」と言って無理にやらせるより、できることを探してそれを伸ばしたほうが効果があります。できることをやってもらっているうちに、なぜかできなかったこともできるようになってしまうことさえあります。「できない」と言って、まず子どもの心をくじいてしまわないことが大切なのではないでしょうか。

2018年7月4日水曜日

ウソをつく子どもたち

 意外と言うべきか、当然と言うべきか、子どもたちの中には、ウソをつく子どもも存在します。もちろん、大人も含めて、ウソをついたことのない人などいないだろうし、罪のないちょっとしたウソをついて、バレなかったなどという経験はだれもがしているでしょう。

 ですが、ここで気になるのは、相手を見て態度を変え、だませそうな相手だったら、ウソをついてでも得をしようとする大人顔負けの子どもの策士がいるということです。

 ウソと言えば、以前こんなことがありました。衣替えの季節に、前の年にクリーニングに出したニットのパーカーを衣装ケースから出し、ハンガーにかけようとして、フードのひもの先に付いていた筒状になった金属の付属品が一つないことに気づきました。フードのひもの金属は左右に付いていたはずです。それが片方ないのです。

 パーカーがクリーニングからかえってきたときには、私はそのことに気づきませんでした。気づかずに、そのままケースに入れてしまったのです。どうして気づかなかったのか。それは、気づかれないように工夫されていたからだと思わないわけにはいきません。パーカーは、きちんと上までファスナーがあげられていたうえ、ひもがリボン結びにされていたのです。それでは一見して付属品がとれているとは気づきません。

 クリーニングの営業担当の方はとても誠実な方で、パーカーの件についても、丁寧に対応してくださいました。こちらが申し訳なく思うほど、懸命に対処していただきました。けれども、営業の方が真面目な方であればあるほど、どうして工場のほうではこんなごまかしをするのだろうと思いました。第一、隠したとしても、いずれバレてしまうのです。そのときは逃れることができても、最後は責任をとらなくてはならなくなります。

 クリーニング工場は確かに、付属品をなくしたことを隠したと思われます。パーカーのひもをリボン結びにした際に、付属品がとれていることに気づくはずだからです。ではなぜ工場の担当者は、そのことを隠してそのまま出荷したのでしょう。

 お互いに顔が見えないとしても、業者と客の間にもコミュニケーションが成立しています。業者と客は、お互いにコミュニケーションの相手なのです。双方の考えや行動には、お互いのあり方が影響しあっているはずです。つまり、客がこうだから業者もこう、客がそうだから業者もそう、というように、客の態度に応じて業者の反応も違うのではないかということなのです。

 「お客様は神様です」などという言葉があるように、とかく客は業者に対して厳しくなりがちです。「お金を出すのだからそれに見合ったサービスを受けるのはあたりまえ、失敗なんて許さない!」という人も多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、そのクリーニング業者も客のクレームが怖かったのではないでしょうか。容赦のない客からのクレームにさらされ続け、たとえ一時逃れにしかならなくても、とにかく失敗は隠すというやり方になってしまったのかもしれません。客が業者に対してもう少し寛大であったら、業者も失敗を隠すことなく、正直に申し出てくれるのではないかと思うのです。

 さて、ウソをつく子どもたちです。ウソをつく子どもたちのコミュニケーションの相手は大人たちです。子どもたちは大人たちとコミュニケーションするうちに、ウソをつくようになってしまったということはないでしょうか。

 クリーニングの例にもみるように、「できてあたりまえ、失敗なんて許さない!」という態度は、相手を委縮させるだけでなく、叱責から逃れるためのウソをつかせることにもなりかねません。失敗する子どもを受け入れず、叱責ばかりしていると、子どもは自分のことをダメだと思い、やる気をおこすこともなくなります。

 さらに、失敗することも含めて自分を受け入れてもらえることのない子どもは、人間関係を利害関係で見ることしかできなくなります。過程ではなく、結果がすべてになってしまい、失敗するか成功するか、うまくやるかやらないか、損をするか得をするか、そんなことにしか興味をもたなくなってしまうからです。人間関係を利害関係としてしかとらえられないと、他人とは利用するものという考え方になっていき、だれかと真の信頼関係を築くことができなくなります。

 子どもにウソをつかせないために、大人は寛大にならなければならないでしょう。子どもを甘やかしてはいけないという人がいますが、子どもに対して、寛大であることと甘いこととはもちろん違います。子どもに対して寛大であるというのは、寛大であることの意味と必要性を自覚し、子どもの可能性を信じて、成長の過程としてのその子の失敗を受け入れながら、根気強く見守るということです。

 子どもの失敗に対する大人の反応は、その子の将来の人間関係にまで影響をおよぼします。それは、その子が将来幸せになれるかなれないかということと同じ意味です。子どもが失敗したとき、大人はどう反応すればよいか、よくよく考えなければならないことだと思います。

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2018年3月4日日曜日

子どもの葛藤、もう一人の自分

 小学2年生のHくんが、「もう一人の自分」という題名の作文を書きました。

 Hくんが映画を観ていたときのことです。館内で赤ちゃんが泣きだし、「うるさいからやめてくれ」と思う自分が出てきたそうです。でも、映画が終わってしばらくしたら、「まあ、赤ちゃんだから許そう」というもう一人の自分が出てきたのだそうです。Hくんは、「ぼくは、かならず人は二人以上いるものだとわかりました。」と書いています。

 Hくんとよく話してみると、実はHくんの中には、二人どころか、ときには三十人くらいのHくんがいることがあるそうなのです。

 どんなときに三十人のHくんが現れるかというと、学校や家で、先生や親などの大人に、「こうしましょう」と指示されたときのようです。「こうしましょう」と言われると、「え、今?」、「やらないといけないのかな?」、「どうしてやらないといけないの?」、「やったほうがいいのかな?」、「めんどうだな」、「怒られたくないな」、「よし、やろう!」などと、三十人のHくんたちは、際限のない議論をするのだそうです。

 では、どんなときにHくんは一人でいられるのかと聞いてみました。すると、サッカーやボルダリングなど、自分が好きなことをしようと思ってするとき、という答えが返ってきました。

 「ぼくは、もう一人の自分にでてきてほしくありません。なぜならまよいたくないからです。でもまようからでてくるのですよね。」とHくんの作文は結ばれています。子どもといえども、葛藤と無縁ではありません。

 私は、葛藤自体は悪いことではないと思っています。葛藤とは、自分自身との対話であり、そうして自分と対話をかさねることによって、自分の考えをまとめていくことができるからです。自分自身との対話を通して、自分が本当に望んでいることや、自分が今すべきことがだんだんはっきりしていきます。自分との対話はおおいにしたほうがよいのです。

 問題は、何十人ものHくんが出てきてしまうときというのが、大人からの指示をうけたとき、ということです。やはり、私が「こうしてね。」と言っても、葛藤する子どもはいるということです。そして中には、指示通りにしてくれない子どももいるわけです。

 大人は基本的に、指示をするのはその子のためになるからだと信じています。ですから、「そうしなさい。」と指示します。ですが、指示というのはあくまでもその子の外側からくるものだから、子どもにとっては、その外側のものに無理にでも自分を合わせないといけないということになります。そこで子どもは葛藤するわけです。

 指示の内容にはもちろんいろいろありますが、もし、その内容が、その子がよりよく生きていくうえで大事なことであった場合、指示は決して命令になってはいけないのではないかと思います。自分の外側から来た命令に従わなければいけないと考えたら、いくらよいことであったとしても、抵抗したくなる気持ちがわいてくることもあるでしょう。

 それでは、「よいこと」をしてもらうためにはどうしたらよいのでしょう。それには結局、気づいてもらうしかないのではないでしょうか。それが「よいこと」であることをなんらかの仕方で伝え、気づいてもらう、その作業をくり返すしかないように思います。

 「よいこと」の重要性に気づいた子どもは、主体的にその「よいこと」に取り組みます。子どもが主体的に物事に取り組むようになれば、大人は楽になります。そのときどきに、「よいこと」の提案をするだけですむからです。

 残念ながら、子どもの中には、大人に何か言われたら、とにかくその場をやり過ごせばよいと考え、内容の重要性を理解しないまま、指示されたことをいいかげんにやるという癖がついている子もいます。そのような子は、大人からの叱責を避けるために、うわべをとりつくろったり、嘘をつくことさえあります。また、相手を見て態度を変えたりすることもあります。ですが、そんなことをするのは、もともとはその子の責任ではないのではないかとも思います。そのような子は、もしかすると、周囲の大人から指示され続けてうんざりし、自分の身を守るためにそのような処世術を編み出したのかもしれないのです。

 気づいてもらうために、具体的にどのようなことをしていけばよいのかということは、その都度、その子どもごとに考えるしかないでしょう。いずれにしても、大人は、なるべく外側から指示するだけにとどまらず、その「よいこと」がどうしてよいのか(前提として、その「よいこと」は、その子にとって、本当に「よいこと」でなければなりませんが)を子どもに理解してもらう努力を続け、いずれ子どもが主体的に「よいこと」をしてくれるように導く必要があるでしょう。そうすれば、子どもの頭の中で、三十人の議論が行われることもなくなるのではないかと思うのです。

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2017年8月19日土曜日

くろねこのどん

 私がおこなっている読書感想文講座のなかには、親子参加可能なものがあります。そこではときどき、本の読み方について、お母さんやお父さんから質問をされます。今年は、課題図書の一冊、『くろねこのどん』についてでした。

 『くろねこのどん』は、どこからともなく現れたくろねこと、えみちゃんという女の子との不思議な交流と別れが描かれたお話です。

 えみちゃんは小学校一年生です。まだまだ小さな女の子なのに、お母さんがお出かけをしてしまって、ときどき一人でおるす番をしています。その日もえみちゃんは一人でおるす番をしていました。そんなときやってきたのが、4本の足先と鼻先だけが白くって、ほかはまっ黒の子猫のどんでした。外は雨。えみちゃんはびしょぬれのどんのからだをふいてやります。

 そんなことがあってから、どんは、えみちゃんが一人でいるとやってきます。夜中に来ることもあります。ときにはなかまの猫たちをつれて、どんはえみちゃんのところに遊びに来ます。えみちゃんとどんは話をすることもできれば、ごっこ遊びをすることもできるのです。

 あるときえみちゃんとどんは、高い松の木に登って雲を呼びよせ、雲に乗って空を飛びます。なんてすてきな旅だったことでしょう。どんといっしょだと、夢でしか見ることができないことでもできてしまいます。えみちゃんとどんは、おたがい一人でちょっとさみしいとき、いっしょに遊ぶことのできるこの上ないなかまでした。

 季節がうつりかわり、どんは大きくなりました。人間のえみちゃんはまだまだ子どもです。えみちゃんはどんと遊びたいと思っているのに、どんはそうでもなさそうで、えみちゃんはちょっと不満です。えみちゃんは遊びに来なくなったどんを探します。でも、やっと見つけたと思ったら、「だめだよ、こっちにきちゃ」なんて、冷たく言われてしまいます。

 えみちゃんはどんのことが好きで、前のようにいっしょに遊びたいと思っているのに、どんはそうではないようです。えみちゃんは前とあんまり変わっていないのに、どんは変わってしまったのです。

 お話の最後で、えみちゃんは夢を見ます。どんと、前にいっしょにサーカスごっこをしたことのある三毛猫の結婚式の夢です。えみちゃんの夢の中で、どんは三毛猫と結婚したのです。えみちゃんは、「どん、おめでとう!」とやっとのことで言うことができました。どんはもう三毛猫といっしょだから、えみちゃんのところには遊びに来ないにちがいありません。……

 子どもがこの本を選んだお母さんは、私に言いました。「これは難しいですねえ。どうやって子どもに教えたらいいのかわかりません。」お母さんの解釈はこうです。「これは、子猫が成長してしまって、発情期をむかえたってことですよねえ。はっきり書かれてはいないけど、これはそういうことですよねえ。となりのみみにどんが乱暴するようになったから、どんが来れないようにしたっていうのはそういうことですよねえ。」

 お母さん、鋭いです。たしかにそのように読めます。人間と猫の成長のスピードはあまりに違うので、えみちゃんはまだ子どもなのに、どんは大人になってしまいました。猫と人間という種の違いをこえて仲のよい関係をきずいていたどんとえみちゃんは、種の違いではなく、成長の度合いの違いという違いによって、へだてられてしまったのです。

 この本を読む子どもたちには、えみちゃんとどんがなぜ別れなければならなかったのか、はっきりと理解することはできないでしょう。大人が読めば、あのお母さんのように、猫が大人になって、発情期をむかえて、子どもなんかと遊ばなくなったからだと説明することができるかもしれません。でも、発情期がなんだかわからない子どもには、大人になるということの意味もわかりません。そしてそれは、本の主人公のえみちゃんにとっても同じだったのです。

 えみちゃんはどんとの別れという変化を経験しなければなりませんでした。今まであんなに仲よくしていたどんとなぜ別れなければならないのか、えみちゃんにはよくわかりません。よくわからないけれど、どんがもう自分のところに来ないだろうということはわかります。えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれなければならないのです。

 この本を読んだら、どうしてえみちゃんはどんの結婚式の夢を見たかと考えてみるとよいかもしれません。えみちゃんは、どんの結婚式の夢を見なければいけなかったのです。どんと別れるのはしかたのないことだと、納得する必要があったのです。どんが自分と遊んでくれなくなったのは、三毛猫と結婚したからだと考えれば、納得できます。もうお相手がいるのだから、えみちゃんのことろになど来ないのは当然です。

 えみちゃんは、どんとの別れに、どんが結婚したからだという理由をつけました。えみちゃんの見たどんの結婚式という夢は、えみちゃんがどんとの別れの理由として、編み出したものです。そういう理由があるということにしたおかげで、やっとのことでしたが、えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれることができたのです。

 子どもといえども、生きていれば常に変化にさらされます。よい変化であれば積極的に受けいれることができますが、ちょっとさみしい変化など、なかなか受けいれがたいにちがいありません。そんなとき、子どもたちはその変化を受けいれるために想像をして創造的になります。えみちゃんの夢はそんな一例なのではないでしょうか。

 人生にいやおうなしに訪れる変化ですが、どんとえみちゃんの場合のように、変化の本当の理由を知ることにはそんなに大きな意味はないかもしれません。本当の理由を知ったところで、どうしようもないからです。それよりも、えみちゃんのように、自分が納得のできる理由を編み出したほうがよいでしょう。自分さえ納得できれば、踏みとどまらずに、また前へ歩いて行けるようになるからです。

 どんとは違って、えみちゃんのからだはなかなか大きくなりません。えみちゃんが大人になるまでにはまだまだ長い時間がかかります。ですが、どんとの出会いと別れをとおして、えみちゃんが学んだことはたくさんあるはずです。えみちゃんはそうして、ゆっくりゆっくり大人になっていくのです。

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読書感想文講座

 夏休みも終盤になりました。子どもたちはそろそろ、夏休みの宿題と格闘し始めているころなのではないでしょうか。

 今年も私は、夏休みの定番、読書感想文の指導を行っております。今回は、そのとき気づいたことについて書いてみたいと思います。

 感想文指導をしていて毎年感じることの一つに、子どもたちははたして、本当に自分に合った本を選んでいるのだろうかという疑問があります。昨年も一人、今年も一人いたのですが、話を聞いてみても、「(その本の中に)おもしろかったところなんかない。」、「感動したところなんかない。」あるいは、「どうしてそんな風に思うのか、主人公の気持ちがわからない。ぜんぜんわからない。」などと言われてしまいました。

 こんなとき、どういうアドバイスをしたらよいのでしょう。「もっとよく読んでごらん。きっとおもしろいところがあるよ。」、「よく読んでみれば、きっとわかるよ。」などと、あくまでもその本を読むことをすすめるべきでしょうか。

 感想文講座自体は時間が限られているうえ、ほかの生徒もいるので、そのような子どもたちの話をそれ以上詳しく聞くことはできませんでした。ですからこれは後から考えたことなのですが、私は、選んだ本がおもしろくない、あるいはわからないという子どもたちに、その本を無理に読んでもらう必要はないのではないかと考えます。

 あたりまえのことですが、子どもは一人一人興味や好みが違うし、同じ年であっても、精神的な成長の度合いが違います。一律に課題の図書をあたえても、それらが合う子と合わない子がいるのは当然です。

 もちろん、毎年選定される課題図書もそのあたりは工夫をしていて、学年に応じて、ファンタジーから、社会問題をふくんだ物語、ノンフィクションや科学的なものまで、いろいろ取り混ぜてあります。それぞれの子どもの興味と特性に合わせて、その中から課題の本を選ぶことができるのです。

 もっとも、すべての子どもが毎年課題図書の中から読む本を選ぶわけではありません。課題図書以外の中から自分が気に入った本を選ぶ子どももいます。そのような子どもはどのようにしてたくさんある本の中から、自分が読む本を決めるのでしょうか。そう言えば、私が子どもだったころ、読む本はどのようにして選んでいたのでしたっけ。記憶の糸をたぐってみます。

 私の場合、父が本好きで、家には常にたくさんの本があったということがあります。ですから、小学校も高学年になると、父の本などもときどき勝手に本だなの中から引っ張り出して読んでいました。そして、それと同時に児童書も読んでいました。学校の図書室から借りる本のほか、本好きの父が私たち子どものために買ってくる本も読みました。父の買ってきた本の中には、今でも手もとに置いてあるようなお気に入りのものもあります。

 このように、私が子どもだったころ、私のまわりには本がたくさんあって、私はたくさんの本に触れて成長しました。それら一冊一冊の本との出会いはすべて偶然です。偶然出会った数多くの本の中から、私は、好きな本、嫌いな本、興味のない本、などと選別していったように思います。結局、自分に合った本を見つけるのには、まず多くの本を手に取ってみないといけないのではないでしょうか。

 本を購入してから、合わないことがわかった場合、ちょっと困ってしまうかもしれません。もう一冊買いなおすのは経済的ではありません。ですので、あまり強くは言えないのですが、もしも選んだ本が自分に合っていないとわかった場合、できれば別の本を選びなおしてもらえればと思います。合わない本を読んで、よい感想などもてるはずがないからです。

 今年の講座で、「主人公の気持ちが全然わからない。」と言った子は、とても聡明で早熟な印象でした。選んだ本は、その子の学年にはおすすめの本だったのでしょう。でも、私が見た限りでは、その本はその子にはやさし過ぎました。その子は、もっと難しい状況や、複雑な心理が描写されているような本のほうが、むしろ理解できたのではないかと思うのです。

 よい読書感想文を書くためには、その本と対話しなければなりません。本が隠しもっている問いかけに気づいて、本と、あるいは主人公と対話をかさねて、その問いに対する答えを探していくのが本を読む醍醐味です。本を読みながら、書かれていることや主人公に共感したり、あるいは反発を感じたりすることでしょう。そうやって心を動かしながら、本を読んでいくことができたら、その読書はよい読書だということができるのです。

 気の合う人や気の合わない人がいるように、合う本もあれば合わない本もあります。感動を共有できる人がよい友だちになれるように、読んで共感できる本はその人にとってよい本です。よい友だちを探すように、よい本を探してみれば、きっと見つかることでしょう。

 さて、自分に合ったよい本だと思って読み始めた本でも、「あれっ?これはちょっとわからないな。」などと思うことが出てくることがあります。仲のよい友だちとでも、ときどき意見が食い違うのと同じです。そんなときは、簡単に賛成してしまわないで、その本や主人公のどこにひっかかったのか、よく考えてみてください。

 本に書かれていることに疑問をもったということは、その本や主人公と自分が違うということです。本や主人公の考えと自分の考えが同じではないということです。仲のよい友だちとでもときどき意見が合わないのと同じで、好きな本であっても、すべて同じ意見とは限らないのです。

 そんなときはチャンスです。徹底的にその本と対話して、自分と本や主人公の違いをはっきりさせましょう。自分とは違う本や主人公のおかげで、自分のことがわかります。自分はこんなとき、こういう考えをもつのだということがわかったり、自分はこういうことが好き、あるいは嫌いだということがわかったり、自分のことがたくさんわかります。

 読書感想文講座では、「本を読むと出会えるものがたくさんあるよ。」と言うことがあります。「どんなものに出会えると思う?」という質問に、子どもたちは、「登場人物!」、「作者!」、「行ったことのない世界!」などと答えてくれます。私は、「もっともっと重要な出会いがあるよ。」と言います。そしてけげんそうな子どもたちの顔を前にして、「本を読むと、自分自身に出会えるんだよ!」と自信満々に宣言します。

 読書経験はこのように、自分自身と出会うよい機会の一つです。自分がどういう考え方をし、どういうものを好み、あるいは嫌うのか。読書は、自分自身のことを知って、生き方を考えるよいチャンスなのです。よい対話相手、つまり、自分に合ったよい本を選ぶ必要があるのはそのためです。

 近年は、大人も子どもも活字離れをしていると言われています。ですが、本を読むという経験は、私たちの人間としての成長を約束してくれます。大人も子どもも、たくさんの本に触れてみてほしいと願います。

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