高校一年生のTくんが、「懐かしいという気持ちがわからない」と言いました。主人公が、何十年ぶりかで、故郷を訪ねたという文章を読んでいたときのことです。その主人公にとって故郷は、よいことも悪いこともあったところです。
「主人公の気持ちは複雑だね。そこで起こったよくないことを思い出して嫌な気分になったり、反対に楽しかったことを思い出して懐かしくなったり…。Tくんは昔のことを思い出して、懐かしくなったりすることない?」と私は聞きました。
すると、「…ありません。」とTくんは答えました。
たしかに、高校一年生のTくんは、たかだか十数年生きてきたに過ぎません。多くのことを経験しているはずもなく、昔と言ってもせいぜいここ十年間くらいのことで、これと言った思い出がないと言われれば、そういうものかとも思います。Tくんの何倍も生きている私とはわけが違うのです。
ですが、少し気になるのは、「子どものころ、こんな遊びをして楽しかったとか、どこかへ行って楽しかったとか、そんな思い出もないの?」と尋ねても、「特にありません。」とTくんが答えたことです。
「懐かしい」を辞書で引くと、「昔のことが思い出されて、心がひかれる。」(大辞林)とあります。「懐かしい」とは、「心」が感じることなのです。心が感じる感情、「懐かしい」という心の動き、つまり「懐かしい」は感動の一つなのです。
そういえば、Tくんは、日ごろ自分の感情をおもてに出すほうではありません。表情もあまり豊かとは言えず、今、Tくんがどういう気持ちなのかを推し量るのは簡単ではありません。笑った顔を見せたこともほとんどなく、もしかしたらTくんは、自分の感情を制御しながら、毎日を合理的に暮らしているのかしら?と思ってしまうことがあります。そんなTくんはまだ、楽しそうに文章を読んでくれたことがありません。
実は私は、楽に学ぶためには、感情を味方につけるのが一番いいのではないかと思っています。なぜかと言うと、本来の学びには感情がともなうものだと考えているからです。
「いったいこれはどういうことなんだ!」ととまどったときに、だれかからそのことについての説明を受けたり、自分で調べたりして納得し、「そうか、そうだったのか!」と軽く興奮したことはないでしょうか?その興奮が感動です。新しい知識をえて、心が動いたのです。普段あまり意識はしないかもしれませんが、学びにはたしかに感情がともなうのです。
しかもその感情は、決してネガティブなものではありません。「知って、うれしい!」という喜びの感情です。うれしければ学びたいと思います。知ること、学ぶこと自体がおもしろくなります。そのような経験を積み重ねると、あらゆることへの興味がどんどんわいてきて、学ぶことが楽しくなるのです。
勉強はやらなければならないもの、という意識でやっている子どもは多いと思います。入りたい学校に入るためには勉強しなければならない、本当はやりたくないけれど、しかたないからがんばっている、そんな子どもはたくさんいるでしょう。でも、そんな気持ちで学んで、「知って、うれしい」という感動はえられるのでしょうか?
「今の時代、学校に入れなければ話にならない。」と言った人がいました。その言葉が本当かどうか私にはわかりません。けれども、そのような意識で勉強したとしたら、「知って、うれしい」という感動をえられるどころか、学びが苦痛になってしまわないでしょうか?
学校に入るために勉強していて「うれしい」という気持ちになれるのは、成績が上がったときなどでしょう。ですが、そのような喜びは一時的なもので、すぐまた次の試験に備えなければなりません。次から次へと追われることになります。いつも試験に追われていては、気の休まるときがないのではないでしょうか?
要は、学び自体を目的にすることではないかと思います。学校に入ることを目的とはしないで、学ぶこと自体を目的として、学ぶこと自体を楽しむとよいのではないでしょうか?学ぶこと自体を楽しんだ結果として、成績も上がる、それはあるでしょう。
国語であれば、まず、文章を読むことを楽しむ、内容について考えることを楽しむ、そして、自分の意見をまとめ、それを書くことを楽しむ、それができたときに、学びにともなう感動がえられ、同時に実力がつくのです。教室でも、「文章を読むことが楽しい」と言えるようになった生徒はめざましい成果を出します。
人間にとって感情は、非常に大切な要素です。Tくんのように、自分の感情をおさえつつ、大きな成果を出すことは実はとても難しいことなのです。それよりも、自分の感情に正直に向き合い、今自分がどんな気持ちなのかと常に自分自身に尋ねてあげるとよいでしょう。感情は、その人がおかれている状況や、その人にとって、まわりの人がどうであるかということなどを伝えてくれる重要な指標なのです。
ことは塾にとって、勉強することは、入りたい学校に入る方法ではありません。学ぶことは、それ自体を楽しむものです。学ぶことは目的なのです。そして学ぶときには、気持ちを本来のあり方にリセットして、それぞれの課題と向き合わなくてはなりません。気持ちが本来のあり方をしているとき、学ぶことは苦痛ではなく、喜びになるはずだからです。
ときどき、受験勉強が負担になって気持ちが不安定になってしまったというお子さんの話を聞きます。そのような話を聞くにつけても、人間にとって、感情というものが何よりも大事なものだという意識をあらたにします。苦痛があるということは、どこかに無理があるということです。そのようなときには、心の状態に注目し、なによりも、まず気持ちを整えるという作業と時間が必要でしょう。
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「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2016年9月18日日曜日
2016年6月19日日曜日
五感で学ぼう、そして言葉にしよう!
今年も夏休みが近づいてきました。夏は太陽のエネルギーも最大になります。そのエネルギーを体いっぱいにうけて、こころも体も大きく成長したいものです。ことは塾では、今年も夏休みに、体験型の授業をおこないます。
体験授業の一つは、和菓子屋さんでの和菓子作り体験です。和菓子、特にお茶席で出される和菓子には、日本人のもてなしの精神や美意識などが凝縮されています。和菓子は日本文化を学ぶための、恰好の素材の一つです。
そんな和菓子はいったいどのように作られるのでしょう?和菓子を作ることには、どんな工夫や苦労があるのでしょう?
もう一つの体験は、牧場体験です。私たちが日常的に食べている食品は、塩以外、すべて生きていたものか、生きている動物が産出したものです。私たちが飲んだり食べたりしている牛乳やバターやチーズも、生きている牛や山羊などが出したものをもらっているのです。
牧場では、いつもただおいしく食べているアイスクリームやバターを自分たちで作ってみることもできます。牛や羊などの動物とふれあい、牛乳を材料とした食べ物を作ってみることで、食べ物をとおして見えてくる、動物と私たちとのつながりについて考える機会をえることができます。
和菓子作りも牧場体験も、新鮮な発見をともなった、楽しい経験となることでしょう。
ところで、楽しい体験は、体験しただけで終わらせてしまってよいものでしょうか?せっかくの経験を、確かな記憶としてとどめておくために、できることはないのでしょうか?
ハンナ・アーレントはこんなふうに言っています。
リアリティは、事実や出来事の総体ではなく、それ以上のものである。リアリティはいかにしても
確定できるものではない。「存在するものを語る(レゲイン・タ・エオンタ)」人が語るのは、つねに
物語である。そしてこの物語のうちで個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な
何らかの意味を獲得する。*
何かの経験を、自分が経験した確かな現実として受け容れ、意味のあるものとして記憶し、今後に生かしていくためには、その経験を物語にしなければなりません。物語るとは、すなわち言葉にすることです。経験を言葉にして語り、語ることによって、そこに意味を見出す、つまりそのようにしてそれを物語にすることによって、経験はリアリティを獲得するのです。
物語となってリアリティを獲得した経験は、意味をもっているので、以後はそれぞれのこころの糧となって、長く生き続けることでしょう。
さて、以上は経験を言葉にすることのちょっと難しい理論でした。ですが、方法はそんなに難しくはありません。要は、体験したことを言葉にして語ればよいのです。さらに、それを書けばよいのです。
体験したことを文章にしてみると、頭の中が整理されて、いろいろなことがわかってきます。その体験が自分に教えてくれたこと、その体験の自分にとっての意味、そのほかさまざまなことがわかってきます。それらを書けばよいのです。そうすれば体験は、生きていくうえでも役に立つ、確かな経験として、記憶の中に定着します。
和菓子はとても美しいです。和菓子は食べて舌で味わう前に、目でも楽しむことができます。反対に、牛や羊は臭いです。アイスクリームはとてもおいしいのに、生きものは臭うのです。体験をすると、このように五感を使うことになります。五感で学ぶことができるのです。
五感で学んだあとは、それを言葉にしてみましょう。言葉にし、知的な反省をくわえることによって、体験は確かな経験として蓄積されていきます。
ことは塾では、体験と、それを文章にしていくまでの講座をご用意しております。夏期特別講座へのご参加を、こころよりお待ちしております。
* H・アーレント著、引田隆也・齋藤純一訳、『過去と未来の間』、みすず書房、
1994年9月、357ページ。
http://www.ko-to-ha.com/
体験授業の一つは、和菓子屋さんでの和菓子作り体験です。和菓子、特にお茶席で出される和菓子には、日本人のもてなしの精神や美意識などが凝縮されています。和菓子は日本文化を学ぶための、恰好の素材の一つです。
そんな和菓子はいったいどのように作られるのでしょう?和菓子を作ることには、どんな工夫や苦労があるのでしょう?
もう一つの体験は、牧場体験です。私たちが日常的に食べている食品は、塩以外、すべて生きていたものか、生きている動物が産出したものです。私たちが飲んだり食べたりしている牛乳やバターやチーズも、生きている牛や山羊などが出したものをもらっているのです。
牧場では、いつもただおいしく食べているアイスクリームやバターを自分たちで作ってみることもできます。牛や羊などの動物とふれあい、牛乳を材料とした食べ物を作ってみることで、食べ物をとおして見えてくる、動物と私たちとのつながりについて考える機会をえることができます。
和菓子作りも牧場体験も、新鮮な発見をともなった、楽しい経験となることでしょう。
ところで、楽しい体験は、体験しただけで終わらせてしまってよいものでしょうか?せっかくの経験を、確かな記憶としてとどめておくために、できることはないのでしょうか?
ハンナ・アーレントはこんなふうに言っています。
リアリティは、事実や出来事の総体ではなく、それ以上のものである。リアリティはいかにしても
確定できるものではない。「存在するものを語る(レゲイン・タ・エオンタ)」人が語るのは、つねに
物語である。そしてこの物語のうちで個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な
何らかの意味を獲得する。*
何かの経験を、自分が経験した確かな現実として受け容れ、意味のあるものとして記憶し、今後に生かしていくためには、その経験を物語にしなければなりません。物語るとは、すなわち言葉にすることです。経験を言葉にして語り、語ることによって、そこに意味を見出す、つまりそのようにしてそれを物語にすることによって、経験はリアリティを獲得するのです。
物語となってリアリティを獲得した経験は、意味をもっているので、以後はそれぞれのこころの糧となって、長く生き続けることでしょう。
さて、以上は経験を言葉にすることのちょっと難しい理論でした。ですが、方法はそんなに難しくはありません。要は、体験したことを言葉にして語ればよいのです。さらに、それを書けばよいのです。
体験したことを文章にしてみると、頭の中が整理されて、いろいろなことがわかってきます。その体験が自分に教えてくれたこと、その体験の自分にとっての意味、そのほかさまざまなことがわかってきます。それらを書けばよいのです。そうすれば体験は、生きていくうえでも役に立つ、確かな経験として、記憶の中に定着します。
和菓子はとても美しいです。和菓子は食べて舌で味わう前に、目でも楽しむことができます。反対に、牛や羊は臭いです。アイスクリームはとてもおいしいのに、生きものは臭うのです。体験をすると、このように五感を使うことになります。五感で学ぶことができるのです。
五感で学んだあとは、それを言葉にしてみましょう。言葉にし、知的な反省をくわえることによって、体験は確かな経験として蓄積されていきます。
ことは塾では、体験と、それを文章にしていくまでの講座をご用意しております。夏期特別講座へのご参加を、こころよりお待ちしております。
* H・アーレント著、引田隆也・齋藤純一訳、『過去と未来の間』、みすず書房、
1994年9月、357ページ。
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2015年12月31日木曜日
読むことと生きること
* 中学3年生のKくんが、 課題の文章の中に出てきた「イチゴの旬」がいつなのかわからないと言いました。
Kくんは、すなおで真面目で明るいすばらしい中学生です。その年頃の中学生がしているような経験も十分にしていて、特別ものを知らないというタイプではまったくありません。
Kくんは私に、「イチゴの旬って、冬ですか?」と聞きました。「ああ、イチゴと言えばケーキの飾りだからねえ。クリスマスのころにたくさん出回るよねえ。」と私は言いました。「でもね、今頃のイチゴは、ハウスの中で石油を燃やしてあったかく、あったかくして育てられるものなんだよ。」今は冬です。ですが、すでにイチゴは店頭にたくさん並んでいます。
課題の文章には、今どきの子どもは、イチゴの旬がいつなのかがわからなくなっているから、『シンデレラ』のお話の中で、真冬にシンデレラに「外へ出ていって、イチゴを摘んでおいで。」と言う継母の意地悪の意味がわからないと書いてありました。
「ぼくもわかりません。」とKくんは言いました。「そうねえ、しかたがないかもね。イチゴは一年中あるものね。Kくんのせいじゃあないよね。私の友達も昔、一月にイチゴを食べて、『今がイチゴの旬だよね。』と言っていたことがあるよ。」と私は答えました。
私の友人の例でもわかるように、野菜や果物の旬を知らないのは、Kくんの世代以降ばかりではなく、すでに大人になって久しい人たちも同様なのです。たまたま私は地方に育って、自宅に畑があったから、祖母の植えたイチゴが春から初夏にかけて実ることを知っていたにすぎないのです。
課題の文章は、「イチゴの旬」を知らないと、『シンデレラ』の継母の意地悪の意味を理解できないという例をあげて、人々の「伝え合い」が時や場所や状況を失ったものになりつつあると懸念しています。Kくんは、「イチゴの旬」もわからなければ、課題の文章の主張の意味もわからないと言っていました。この文章とKくんとの「伝え合い」は、「伝え合い」自体に失敗したのです。
それでは、「伝え合い」が時や場所や状況を失うとはどういうことなのでしょうか。
時や場所や状況を言い換えると、「今、ここに生きている」ということになるのではないでしょうか。現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きています。
私たちは快適に生きるために、科学技術を駆使して、自然から身を守ったり、その一部を利用したり、改変したりして暮らしています。おかげで私たちの暮らしは豊かになり、今では一年中イチゴを食べることもできます。
ですが、その結果、私たちは自然の本来の姿を見えにくくしてしまいました。イチゴは冬に実るものだと思い込むようになってしまったのです。
現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きていると言いましたが、「イチゴの旬」と同様に、私たちは自分自身の中の自然のこともわからなくなっているかもしれません。たとえば、私たちの体は自然そのものですが、体の声に耳を傾けず、ついつい無理をしてしまう人は多いのではないでしょうか。
おそらく、それもこれも、私たちが「今、ここに生きている」という感覚をなくしつつあることから起こることなのではないかと思います。課題の文章が懸念するように、現代の情報のあらゆる文脈が時や場所や状況を失いつつあるというのは事実です。ですが、本来の自然の姿を知っていれば、また「今、こここに生きている」という自覚があれば、それらの情報の背後に、まさに生きた情報を
見出すことができるのではないでしょうか。
「伝え合い」がやり取りするのは情報です。もともと情報は、私たちが生きるうえで必要だからやり取りされていたはずのものです。ですから課題の文章をはじめ、世に出回る多くの文章は、私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと問いかけています。私たちはどうしたらよく生きられるのかを考えたうえで、問題提起がなされたり、提案がなされたりしているのです。
このように、文章を読むということは、生きること、しかもよりよく生きるというテーマと結びついています。文章を読むと、倫理的問題に踏み込まざるをえません。良い、悪いという価値判断を離れて、文章を読むことはできないのです。
もちろん、文章を読むときは、筆者の意見を公平に客観的に読み取らなければなりません。ですが、論者の意見に賛成、または反対というのは、当然あってしかるべき反応なのです。
いわゆる入学試験をはじめとする学校で課せられる文章の読み取りは、あくまでもニュートラルな立場で、文章の中で述べられていることを読み取ることが課題です。ですが、一方で私は、その文章に賛成したり反対したりしながら読んでもよいのではないかと思っています。課題の文章を、まず正確に読み取ったなら、その文章に対して批判的になってもよいのではないかと考えています。
文章を批判的に読むことによって、よりよく生きるというテーマについての自分の考えがまとまっていきます。読んだ文章の意見を参照することによって、自分の意見が明確になります。どう考え、どう生きるのが自分にとってよいことなのか、読書をすればするほどよく見えてくるようになるのです。
そのような読書は「おもしろい」ものとなります。すべての人にとって、自分がよりよく生きること、これ以上に興味深いテーマはありません。それは、大人だけではなく、子どもにとっても同じであると私は考えています。
とかく勉強としての国語は、点さえ取れて、学校に入れさえすればよいということになりがちです。ですから、「とにかく、表面的にであっても、読み取れるテクニックを教えてください。」と言われることがあります。ですが、Kくんの例でもわかるように、現実に自分が生きていることと結びつけて考えないと、文章が何を言っているのかさっぱりわからないということになるのです。
実は、文章を読むことを「おもしろい」と言えるようになった生徒は、国語の成績も上がりました。以前はどうしても国語の点数が伸びないと言っていた子どもたちです。私はそのような生徒たちには、技術的な読解の方法だけでなく、文章を読むことが生きることとつながるということを暗に教えたつもりです。
結局は急がば回れなのではないでしょうか。深く本質的なことを知ったら、いろいろなことがわかるようになります。いろいろなことがわかったら、結果として成績も上がるのではないかということです。
http://www.ko-to-ha.com/
Kくんは、すなおで真面目で明るいすばらしい中学生です。その年頃の中学生がしているような経験も十分にしていて、特別ものを知らないというタイプではまったくありません。
Kくんは私に、「イチゴの旬って、冬ですか?」と聞きました。「ああ、イチゴと言えばケーキの飾りだからねえ。クリスマスのころにたくさん出回るよねえ。」と私は言いました。「でもね、今頃のイチゴは、ハウスの中で石油を燃やしてあったかく、あったかくして育てられるものなんだよ。」今は冬です。ですが、すでにイチゴは店頭にたくさん並んでいます。
課題の文章には、今どきの子どもは、イチゴの旬がいつなのかがわからなくなっているから、『シンデレラ』のお話の中で、真冬にシンデレラに「外へ出ていって、イチゴを摘んでおいで。」と言う継母の意地悪の意味がわからないと書いてありました。
「ぼくもわかりません。」とKくんは言いました。「そうねえ、しかたがないかもね。イチゴは一年中あるものね。Kくんのせいじゃあないよね。私の友達も昔、一月にイチゴを食べて、『今がイチゴの旬だよね。』と言っていたことがあるよ。」と私は答えました。
私の友人の例でもわかるように、野菜や果物の旬を知らないのは、Kくんの世代以降ばかりではなく、すでに大人になって久しい人たちも同様なのです。たまたま私は地方に育って、自宅に畑があったから、祖母の植えたイチゴが春から初夏にかけて実ることを知っていたにすぎないのです。
課題の文章は、「イチゴの旬」を知らないと、『シンデレラ』の継母の意地悪の意味を理解できないという例をあげて、人々の「伝え合い」が時や場所や状況を失ったものになりつつあると懸念しています。Kくんは、「イチゴの旬」もわからなければ、課題の文章の主張の意味もわからないと言っていました。この文章とKくんとの「伝え合い」は、「伝え合い」自体に失敗したのです。
それでは、「伝え合い」が時や場所や状況を失うとはどういうことなのでしょうか。
時や場所や状況を言い換えると、「今、ここに生きている」ということになるのではないでしょうか。現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きています。
私たちは快適に生きるために、科学技術を駆使して、自然から身を守ったり、その一部を利用したり、改変したりして暮らしています。おかげで私たちの暮らしは豊かになり、今では一年中イチゴを食べることもできます。
ですが、その結果、私たちは自然の本来の姿を見えにくくしてしまいました。イチゴは冬に実るものだと思い込むようになってしまったのです。
現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きていると言いましたが、「イチゴの旬」と同様に、私たちは自分自身の中の自然のこともわからなくなっているかもしれません。たとえば、私たちの体は自然そのものですが、体の声に耳を傾けず、ついつい無理をしてしまう人は多いのではないでしょうか。
おそらく、それもこれも、私たちが「今、ここに生きている」という感覚をなくしつつあることから起こることなのではないかと思います。課題の文章が懸念するように、現代の情報のあらゆる文脈が時や場所や状況を失いつつあるというのは事実です。ですが、本来の自然の姿を知っていれば、また「今、こここに生きている」という自覚があれば、それらの情報の背後に、まさに生きた情報を
見出すことができるのではないでしょうか。
「伝え合い」がやり取りするのは情報です。もともと情報は、私たちが生きるうえで必要だからやり取りされていたはずのものです。ですから課題の文章をはじめ、世に出回る多くの文章は、私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと問いかけています。私たちはどうしたらよく生きられるのかを考えたうえで、問題提起がなされたり、提案がなされたりしているのです。
このように、文章を読むということは、生きること、しかもよりよく生きるというテーマと結びついています。文章を読むと、倫理的問題に踏み込まざるをえません。良い、悪いという価値判断を離れて、文章を読むことはできないのです。
もちろん、文章を読むときは、筆者の意見を公平に客観的に読み取らなければなりません。ですが、論者の意見に賛成、または反対というのは、当然あってしかるべき反応なのです。
いわゆる入学試験をはじめとする学校で課せられる文章の読み取りは、あくまでもニュートラルな立場で、文章の中で述べられていることを読み取ることが課題です。ですが、一方で私は、その文章に賛成したり反対したりしながら読んでもよいのではないかと思っています。課題の文章を、まず正確に読み取ったなら、その文章に対して批判的になってもよいのではないかと考えています。
文章を批判的に読むことによって、よりよく生きるというテーマについての自分の考えがまとまっていきます。読んだ文章の意見を参照することによって、自分の意見が明確になります。どう考え、どう生きるのが自分にとってよいことなのか、読書をすればするほどよく見えてくるようになるのです。
そのような読書は「おもしろい」ものとなります。すべての人にとって、自分がよりよく生きること、これ以上に興味深いテーマはありません。それは、大人だけではなく、子どもにとっても同じであると私は考えています。
とかく勉強としての国語は、点さえ取れて、学校に入れさえすればよいということになりがちです。ですから、「とにかく、表面的にであっても、読み取れるテクニックを教えてください。」と言われることがあります。ですが、Kくんの例でもわかるように、現実に自分が生きていることと結びつけて考えないと、文章が何を言っているのかさっぱりわからないということになるのです。
実は、文章を読むことを「おもしろい」と言えるようになった生徒は、国語の成績も上がりました。以前はどうしても国語の点数が伸びないと言っていた子どもたちです。私はそのような生徒たちには、技術的な読解の方法だけでなく、文章を読むことが生きることとつながるということを暗に教えたつもりです。
結局は急がば回れなのではないでしょうか。深く本質的なことを知ったら、いろいろなことがわかるようになります。いろいろなことがわかったら、結果として成績も上がるのではないかということです。
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2015年11月14日土曜日
何のために勉強するの?
* 小学5年生のYくんが、「何のために勉強するのかがわからない」と言いました。
Yくんは来年中学受験をすることになりました。それでも、「勉強する目的がわからない」と言います。「だって、試験に合格して、今の友達と別れてその学校に入ったら、いじめられちゃうかもしれないじゃない?」とYくんは言います。
中学合格の先にまず、「いじめ被害」というネガティブな未来を想像するYくんは少し心配性です。でも、確かに言われてみれば、たとえ試験に合格して志望校に入れたとしても、その先の輝かしい未来までもが確約されているというわけではありません。
そう言えば、せっかく第一志望の難関校に合格したのに、受験勉強で燃え尽きてしまって、入学してから勉強についていけなくなったという人の話を聞いたことがあります。それから、これは大人の話ですが、いわゆる超難関校を卒業して社会的に尊敬される職業についている人たちでも、必ずしも幸せそうにくらしてはいないという例がたくさんあります。
Yくんの言うように、勉強して「いい学校」に入ったとしても、幸せになれるという保証はないのです。ですが、だからと言って、勉強はしなくてもよいのでしょうか。
「勉強には二種類あるって考えればいいんじゃないかな?」とっさのことで、私はこのように答えるのがせいいっぱいでした。「試験に合格するための勉強と、生きるための勉強。受験のための勉強と、自分の人生をよりよく生きるための勉強、幸せになるための勉強だよ。」
「まず、勉強はしたほうがいいと思うよ。だって、ものを知らないと、人を傷つけてしまうことがあるからね。知識がないと、やってはいけないことをやってしまうことがあるんだよ。」私は以前にも書いた、ゴリラの悲劇を思い出していました。ゴリラは凶暴な生きものだという誤った考えが、ゴリラを絶滅の危機に陥らせたという「無知の罪」の話です。
「普通の塾でやっているのは試験に合格するための勉強だよね。でも、私はここでは、みんなと、よりよく生きるための勉強もしたいと思ってるよ。みんなで幸せに生きるためには、まずたくさんのことを知らないといけない。それから、どうしたら幸せな生き方ができるかと考えないといけない。それの全部が勉強なんだよ。」
私の話にYくんが納得してくれたかどうかはわかりません。ですが、その日の授業には以前よりも真剣に取り組もうとしてくれていたように感じました。
さて、あらためて「何のために勉強するのか?」と質問されたら、私はもう一つの答えを提示したいと思います。Yくんに質問されたときにも少し触れたのですが、深く掘り下げて考える余裕はありませんでした。ですが、もう一度考えてみると、この答えがもっともふさわしいように思えます。その答えとは、「おもしろいから」です。
ありがたいことに、私のところで勉強している生徒たちは、授業の後、「楽しかった!」と言ってくれているようです。時々お母さま方からそのようなご報告をいただきます。私自身は正直に言うと、小中学生だったころ、塾に行っても習い事をしても、楽しかったと思った記憶がないので、どうして生徒たちが「楽しかった!」と言ってくれるのか不思議でした。
ですが、わかりました。気づきました。どうしてみんなが私と勉強して、「楽しい!」と思ってくれるのか。それは、私自身が、「勉強は楽しい!」と思っているからです。
私は文章を読むのが好きです。本を読むのが大好きです。おもしろそうな本を手にしたとき、どんなことが書いてあるかとワクワクします。読んでみて、「我が意を得たり!」ということが書かれていると、本当にうれしくなります。本を読んで、内容を理解して、「ああ、そうだったのか!」と思うことも幸せです。書かれていることについて、応用して自分なりに考えてみるのもとても楽しいです。
私は生徒たちと一緒に勉強して、自分も楽しんでいるということに気がつきました。一緒に文章を読んで、「おもしろいなあ!」と心から思っていることに気がつきました。それぞれのテーマに対して子どもたちはさまざまな反応をしてくれます。その答えがまた感動的で、ますます私は授業が楽しくなります。
大人がおもしろそうにしていることには子どもも興味をもってくれます。大人が楽しそうにしていることは、子どももやってみたくなります。子どもに何かをしてほしければ、まず大人がそれを楽しそうにやって見せることではないでしょうか。そして一緒にやってみたら、やっぱり「楽しい!」ということになるのです。これは勉強だけにかぎったことではありません。
Yくんに勉強する理由を尋ねられて、私は二つ目の理由として、「よりよく生きるため、幸せに生きるため」、と答えました。「幸せに生きる」とは、憂いなく、毎日楽しく生きるということですが、これもまた、大人が手本を示すとよいのかもしれません。大人がまず、毎日を心から幸せに楽しく生きていれば、子どももそれを見て、そこから学んで、幸せな一生を送ることができるようになるのではないでしょうか。
エーリッヒ・フロムは、「母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない」*と言っています。幸福な母親は人生を愛しています。人生を愛する幸福な親を見て、子どもは生きることを肯定し、自分を信じ、他人を信じることのできる幸福な人になることができるのです。
私は教育者も「幸福な人間」でなければならないのではないかと思っています。「幸福な人間」は、人生や世界や、あらゆるものを愛し、肯定しています。否定からは何も生まれないことを知っているのです。幸福な教育者なら、「何のために勉強するの?」と聞かれて、「おもしろいからだよ。」と答えるのではないでしょうか。
「何のために勉強するの?」という疑問は、いずれ「何のために生きるの?」という疑問につながるかもしれません。「何のために生きるの?」と質問されたら、「おもしろいからだよ。」と答えたいものです。
私は言葉を愛しています。読むこと、話すこと、そして書くこと、すべて好きです。言葉とともにある私の幸福が、生徒たちの「楽しい!」につながっているのだとしたら、それこそ、これほど幸福なことはほかにありません。
* エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』、紀伊国屋書店、1991年3月。
http://www.ko-to-ha.com/
Yくんは来年中学受験をすることになりました。それでも、「勉強する目的がわからない」と言います。「だって、試験に合格して、今の友達と別れてその学校に入ったら、いじめられちゃうかもしれないじゃない?」とYくんは言います。
中学合格の先にまず、「いじめ被害」というネガティブな未来を想像するYくんは少し心配性です。でも、確かに言われてみれば、たとえ試験に合格して志望校に入れたとしても、その先の輝かしい未来までもが確約されているというわけではありません。
そう言えば、せっかく第一志望の難関校に合格したのに、受験勉強で燃え尽きてしまって、入学してから勉強についていけなくなったという人の話を聞いたことがあります。それから、これは大人の話ですが、いわゆる超難関校を卒業して社会的に尊敬される職業についている人たちでも、必ずしも幸せそうにくらしてはいないという例がたくさんあります。
Yくんの言うように、勉強して「いい学校」に入ったとしても、幸せになれるという保証はないのです。ですが、だからと言って、勉強はしなくてもよいのでしょうか。
「勉強には二種類あるって考えればいいんじゃないかな?」とっさのことで、私はこのように答えるのがせいいっぱいでした。「試験に合格するための勉強と、生きるための勉強。受験のための勉強と、自分の人生をよりよく生きるための勉強、幸せになるための勉強だよ。」
「まず、勉強はしたほうがいいと思うよ。だって、ものを知らないと、人を傷つけてしまうことがあるからね。知識がないと、やってはいけないことをやってしまうことがあるんだよ。」私は以前にも書いた、ゴリラの悲劇を思い出していました。ゴリラは凶暴な生きものだという誤った考えが、ゴリラを絶滅の危機に陥らせたという「無知の罪」の話です。
「普通の塾でやっているのは試験に合格するための勉強だよね。でも、私はここでは、みんなと、よりよく生きるための勉強もしたいと思ってるよ。みんなで幸せに生きるためには、まずたくさんのことを知らないといけない。それから、どうしたら幸せな生き方ができるかと考えないといけない。それの全部が勉強なんだよ。」
私の話にYくんが納得してくれたかどうかはわかりません。ですが、その日の授業には以前よりも真剣に取り組もうとしてくれていたように感じました。
さて、あらためて「何のために勉強するのか?」と質問されたら、私はもう一つの答えを提示したいと思います。Yくんに質問されたときにも少し触れたのですが、深く掘り下げて考える余裕はありませんでした。ですが、もう一度考えてみると、この答えがもっともふさわしいように思えます。その答えとは、「おもしろいから」です。
ありがたいことに、私のところで勉強している生徒たちは、授業の後、「楽しかった!」と言ってくれているようです。時々お母さま方からそのようなご報告をいただきます。私自身は正直に言うと、小中学生だったころ、塾に行っても習い事をしても、楽しかったと思った記憶がないので、どうして生徒たちが「楽しかった!」と言ってくれるのか不思議でした。
ですが、わかりました。気づきました。どうしてみんなが私と勉強して、「楽しい!」と思ってくれるのか。それは、私自身が、「勉強は楽しい!」と思っているからです。
私は文章を読むのが好きです。本を読むのが大好きです。おもしろそうな本を手にしたとき、どんなことが書いてあるかとワクワクします。読んでみて、「我が意を得たり!」ということが書かれていると、本当にうれしくなります。本を読んで、内容を理解して、「ああ、そうだったのか!」と思うことも幸せです。書かれていることについて、応用して自分なりに考えてみるのもとても楽しいです。
私は生徒たちと一緒に勉強して、自分も楽しんでいるということに気がつきました。一緒に文章を読んで、「おもしろいなあ!」と心から思っていることに気がつきました。それぞれのテーマに対して子どもたちはさまざまな反応をしてくれます。その答えがまた感動的で、ますます私は授業が楽しくなります。
大人がおもしろそうにしていることには子どもも興味をもってくれます。大人が楽しそうにしていることは、子どももやってみたくなります。子どもに何かをしてほしければ、まず大人がそれを楽しそうにやって見せることではないでしょうか。そして一緒にやってみたら、やっぱり「楽しい!」ということになるのです。これは勉強だけにかぎったことではありません。
Yくんに勉強する理由を尋ねられて、私は二つ目の理由として、「よりよく生きるため、幸せに生きるため」、と答えました。「幸せに生きる」とは、憂いなく、毎日楽しく生きるということですが、これもまた、大人が手本を示すとよいのかもしれません。大人がまず、毎日を心から幸せに楽しく生きていれば、子どももそれを見て、そこから学んで、幸せな一生を送ることができるようになるのではないでしょうか。
エーリッヒ・フロムは、「母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない」*と言っています。幸福な母親は人生を愛しています。人生を愛する幸福な親を見て、子どもは生きることを肯定し、自分を信じ、他人を信じることのできる幸福な人になることができるのです。
私は教育者も「幸福な人間」でなければならないのではないかと思っています。「幸福な人間」は、人生や世界や、あらゆるものを愛し、肯定しています。否定からは何も生まれないことを知っているのです。幸福な教育者なら、「何のために勉強するの?」と聞かれて、「おもしろいからだよ。」と答えるのではないでしょうか。
「何のために勉強するの?」という疑問は、いずれ「何のために生きるの?」という疑問につながるかもしれません。「何のために生きるの?」と質問されたら、「おもしろいからだよ。」と答えたいものです。
私は言葉を愛しています。読むこと、話すこと、そして書くこと、すべて好きです。言葉とともにある私の幸福が、生徒たちの「楽しい!」につながっているのだとしたら、それこそ、これほど幸福なことはほかにありません。
* エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』、紀伊国屋書店、1991年3月。
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2015年9月18日金曜日
悪とは無知のこと
*先日一人の生徒が、作文で、とても深遠な問題提起をしてくれました。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスです。ソクラテスの倫理を継承する、まさに哲学的なテーマの作文でした。
次にあげるのは、生徒の作文の全文です(改行など、一部変更あり)。
「ゴリラの正確な研究結果を広める」
私は、ゴリラのことについて正確なことをみなさんに知ってほしいと思いました。いまから、なぜゴリラの研究結果が正確に広まったほうがいいのかを説明したいと思います。
ゴリラは、ドラミングという動作をします。以前までは戦いを宣言し、相手をおどす動作とされていたそうです。そのことから、人々はゴリラをおそれるようになりました。凶暴だというゴリラのイメージを元にして、ゴリラを巨大にしたような怪じゅうの「キングコング」という映画まで、つくられたそうです。その映画のえいきょうで、人々は、ゴリラとは凶暴な生きものだと信じてしまったのです。
おかげで多くのゴリラが殺されました。私はイメージだけで大切な命を殺すのは、絶対にやってはいけないと思います。なぜなら、正確に調べてたくさんの人と相談してから行ったことではないからです。
みんなでゴリラについて一生けん命調べたら、殺すなんていう選択しはでなかったかもしれません。なので、ゴリラのことについて、正確に知ってほしいと思いました。
私はゴリラについて正確な研究結果が広まればいいと思いました。そして、ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといいと思いました。
* アリー塾長の一言
とてもよく書けた作文だと思いました。何よりも、文章を貫く論理構成がしっかりしていて、流れがスムースです。自分の意見を述べるために、理由としてさまざまな事実をあげ、「だから、私はこう思う」ときちんと書けています。
また、ゴリラが「キングコング」の「イメージ」をもたれて殺されたという事実をとらえ、「イメージ」と「正確な研究」という対立する構図を打ち出し、「正確な研究」の必要性を主張しているところもすばらしいです。
さらに、「ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといい」という意見は、客観的に課題に向き合い、公平かつ冷静に妥協点を見つけていくことの大切さを提案していて、とても理性的です。
そして中でも一番感銘を受けたのは、この生徒が正確な知識をもつこと、つまり、学ぶこと、研究することの大切さをうったえていることです。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスですが、今回学んだゴリラの話は、まさにそのとおりのケースです。この生徒はそのことに気づいたのです。
ところで、知識は大切だと言っても、やみくもにたくさんのことを知っていればいいというわけではありません。ましてや、単にたくさんの知識を頭に詰め込んで、試験のときに一気に吐き出せればいいというものでもありません。知識は考えるために必要なのです。考えて、よりよい行動をとるために必要なのです。だから、そのときの知識は正確なものでなければならないのです。
ゴリラについて学んで、正確な知識をもっていたら、人間はゴリラを殺す必要などありませんでした。学ぶことを怠ったうえ、よく考えもしなかったから、人間はゴリラを殺すという最悪な行為をしてしまったのです。
以前、「教養と寛容」というタイトルで、なぜ学ぶことが大切なのかということについて書いたことがあります。教養があれば、さまざまな立場の人のことを理解することができます。多くの知識があれば、一方的に誰かを攻撃するなどということはできなくなるはずなのです。
「悪」と言えば、一般的には人を殺したり、物を盗んだりといったことを思い浮かべます。ですが、ソクラテスならこう言うかもしれません。「そのようなことをする人は、何かを知らないからそうするのだ。」と。問題を根本から解決する方法を知っていたら、悪いことをする必要はありません。悪いことをする人は、知るべきことを知らないからそんなことをするのです。
ゴリラについての正確な知識があったら、人間がゴリラを殺さずにすんだのと同様に、真実を知っていたら、人間同士も争ったり戦ったりする必要はないのではないでしょうか。
もちろん、すべてを簡単に知ることはできません。長い長い時間をかけて、深い森を踏みわけ踏みわけして前に進んでいくように、少しずつ、少しずつ、本当のことに近づいていくのです。誰が見ても知者であったソクラテスにして、「私は自分が何も知らないということを知っている(無知の知)。」と言っていたのですから。
哲学(philosophy)の語源はギリシャ語で、知(sophy)を愛すること(philos)を意味します。知を愛し、知識を得るのは、よく考えて、よりよい行動をとるためです。つまり、よりよく生きるために、知識が必要なのです。学ぶことは、実はきわめて哲学的で、倫理的にも価値のあることなのです。
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次にあげるのは、生徒の作文の全文です(改行など、一部変更あり)。
「ゴリラの正確な研究結果を広める」
私は、ゴリラのことについて正確なことをみなさんに知ってほしいと思いました。いまから、なぜゴリラの研究結果が正確に広まったほうがいいのかを説明したいと思います。
ゴリラは、ドラミングという動作をします。以前までは戦いを宣言し、相手をおどす動作とされていたそうです。そのことから、人々はゴリラをおそれるようになりました。凶暴だというゴリラのイメージを元にして、ゴリラを巨大にしたような怪じゅうの「キングコング」という映画まで、つくられたそうです。その映画のえいきょうで、人々は、ゴリラとは凶暴な生きものだと信じてしまったのです。
おかげで多くのゴリラが殺されました。私はイメージだけで大切な命を殺すのは、絶対にやってはいけないと思います。なぜなら、正確に調べてたくさんの人と相談してから行ったことではないからです。
みんなでゴリラについて一生けん命調べたら、殺すなんていう選択しはでなかったかもしれません。なので、ゴリラのことについて、正確に知ってほしいと思いました。
私はゴリラについて正確な研究結果が広まればいいと思いました。そして、ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといいと思いました。
* アリー塾長の一言
とてもよく書けた作文だと思いました。何よりも、文章を貫く論理構成がしっかりしていて、流れがスムースです。自分の意見を述べるために、理由としてさまざまな事実をあげ、「だから、私はこう思う」ときちんと書けています。
また、ゴリラが「キングコング」の「イメージ」をもたれて殺されたという事実をとらえ、「イメージ」と「正確な研究」という対立する構図を打ち出し、「正確な研究」の必要性を主張しているところもすばらしいです。
さらに、「ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといい」という意見は、客観的に課題に向き合い、公平かつ冷静に妥協点を見つけていくことの大切さを提案していて、とても理性的です。
そして中でも一番感銘を受けたのは、この生徒が正確な知識をもつこと、つまり、学ぶこと、研究することの大切さをうったえていることです。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスですが、今回学んだゴリラの話は、まさにそのとおりのケースです。この生徒はそのことに気づいたのです。
ところで、知識は大切だと言っても、やみくもにたくさんのことを知っていればいいというわけではありません。ましてや、単にたくさんの知識を頭に詰め込んで、試験のときに一気に吐き出せればいいというものでもありません。知識は考えるために必要なのです。考えて、よりよい行動をとるために必要なのです。だから、そのときの知識は正確なものでなければならないのです。
ゴリラについて学んで、正確な知識をもっていたら、人間はゴリラを殺す必要などありませんでした。学ぶことを怠ったうえ、よく考えもしなかったから、人間はゴリラを殺すという最悪な行為をしてしまったのです。
以前、「教養と寛容」というタイトルで、なぜ学ぶことが大切なのかということについて書いたことがあります。教養があれば、さまざまな立場の人のことを理解することができます。多くの知識があれば、一方的に誰かを攻撃するなどということはできなくなるはずなのです。
「悪」と言えば、一般的には人を殺したり、物を盗んだりといったことを思い浮かべます。ですが、ソクラテスならこう言うかもしれません。「そのようなことをする人は、何かを知らないからそうするのだ。」と。問題を根本から解決する方法を知っていたら、悪いことをする必要はありません。悪いことをする人は、知るべきことを知らないからそんなことをするのです。
ゴリラについての正確な知識があったら、人間がゴリラを殺さずにすんだのと同様に、真実を知っていたら、人間同士も争ったり戦ったりする必要はないのではないでしょうか。
もちろん、すべてを簡単に知ることはできません。長い長い時間をかけて、深い森を踏みわけ踏みわけして前に進んでいくように、少しずつ、少しずつ、本当のことに近づいていくのです。誰が見ても知者であったソクラテスにして、「私は自分が何も知らないということを知っている(無知の知)。」と言っていたのですから。
哲学(philosophy)の語源はギリシャ語で、知(sophy)を愛すること(philos)を意味します。知を愛し、知識を得るのは、よく考えて、よりよい行動をとるためです。つまり、よりよく生きるために、知識が必要なのです。学ぶことは、実はきわめて哲学的で、倫理的にも価値のあることなのです。
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2015年8月13日木曜日
ブーイングされても平気?
* 作文の書き方を学ぶために、同世代の子どもが新聞に投稿したじょうずな文章を読んでみました。
* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。
アリー塾長 : 私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
されたら、やる気なくすもん。
Yくん : 別にブーイングはしてもいいよ。
Kくん : ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!
Yくん : そうそう、うまくやらないやつが悪い!
アリー塾長 : ええーっ!?ほんとー?
Kくん : ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。
アリー塾長 : ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
気持ちにならない?
Yくん : ならない、ならない。平気、平気。
アリー塾長 : ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?
Yくん : 出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!
アリー塾長 : そうかなあ?
Yくん : そうだよー。
アリー塾長 : 私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。
Yくん : ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
がんばれる。
* アリー塾長の一言
Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。
Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?
YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。
残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。
フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。
みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。
その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。
このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。
さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。
本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?
たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。
大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。
多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。
もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。
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* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。
アリー塾長 : 私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
されたら、やる気なくすもん。
Yくん : 別にブーイングはしてもいいよ。
Kくん : ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!
Yくん : そうそう、うまくやらないやつが悪い!
アリー塾長 : ええーっ!?ほんとー?
Kくん : ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。
アリー塾長 : ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
気持ちにならない?
Yくん : ならない、ならない。平気、平気。
アリー塾長 : ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?
Yくん : 出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!
アリー塾長 : そうかなあ?
Yくん : そうだよー。
アリー塾長 : 私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。
Yくん : ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
がんばれる。
* アリー塾長の一言
Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。
Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?
YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。
残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。
フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。
みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。
その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。
このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。
さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。
本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?
たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。
大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。
多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。
もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。
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2015年8月8日土曜日
夏休み・和菓子作り体験
* 夏休みに和菓子作りの体験をしました。
寒天と砂糖を鍋に入れています。
緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。
赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。
石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
液を入れて固めるという作業をくりかえします。
涼しげな 「金魚鉢」の完成です!
あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。
「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!
* アリー塾長の一言
夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。
実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。
Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。
実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。
ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。
文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。
今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。
http://www.ko-to-ha.com/
寒天と砂糖を鍋に入れています。
緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。
赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。
石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
液を入れて固めるという作業をくりかえします。
涼しげな 「金魚鉢」の完成です!
あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。
「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!
* アリー塾長の一言
夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。
実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。
Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。
実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。
ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。
文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。
今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。
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