*先日一人の生徒が、作文で、とても深遠な問題提起をしてくれました。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスです。ソクラテスの倫理を継承する、まさに哲学的なテーマの作文でした。
次にあげるのは、生徒の作文の全文です(改行など、一部変更あり)。
「ゴリラの正確な研究結果を広める」
私は、ゴリラのことについて正確なことをみなさんに知ってほしいと思いました。いまから、なぜゴリラの研究結果が正確に広まったほうがいいのかを説明したいと思います。
ゴリラは、ドラミングという動作をします。以前までは戦いを宣言し、相手をおどす動作とされていたそうです。そのことから、人々はゴリラをおそれるようになりました。凶暴だというゴリラのイメージを元にして、ゴリラを巨大にしたような怪じゅうの「キングコング」という映画まで、つくられたそうです。その映画のえいきょうで、人々は、ゴリラとは凶暴な生きものだと信じてしまったのです。
おかげで多くのゴリラが殺されました。私はイメージだけで大切な命を殺すのは、絶対にやってはいけないと思います。なぜなら、正確に調べてたくさんの人と相談してから行ったことではないからです。
みんなでゴリラについて一生けん命調べたら、殺すなんていう選択しはでなかったかもしれません。なので、ゴリラのことについて、正確に知ってほしいと思いました。
私はゴリラについて正確な研究結果が広まればいいと思いました。そして、ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといいと思いました。
* アリー塾長の一言
とてもよく書けた作文だと思いました。何よりも、文章を貫く論理構成がしっかりしていて、流れがスムースです。自分の意見を述べるために、理由としてさまざまな事実をあげ、「だから、私はこう思う」ときちんと書けています。
また、ゴリラが「キングコング」の「イメージ」をもたれて殺されたという事実をとらえ、「イメージ」と「正確な研究」という対立する構図を打ち出し、「正確な研究」の必要性を主張しているところもすばらしいです。
さらに、「ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといい」という意見は、客観的に課題に向き合い、公平かつ冷静に妥協点を見つけていくことの大切さを提案していて、とても理性的です。
そして中でも一番感銘を受けたのは、この生徒が正確な知識をもつこと、つまり、学ぶこと、研究することの大切さをうったえていることです。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスですが、今回学んだゴリラの話は、まさにそのとおりのケースです。この生徒はそのことに気づいたのです。
ところで、知識は大切だと言っても、やみくもにたくさんのことを知っていればいいというわけではありません。ましてや、単にたくさんの知識を頭に詰め込んで、試験のときに一気に吐き出せればいいというものでもありません。知識は考えるために必要なのです。考えて、よりよい行動をとるために必要なのです。だから、そのときの知識は正確なものでなければならないのです。
ゴリラについて学んで、正確な知識をもっていたら、人間はゴリラを殺す必要などありませんでした。学ぶことを怠ったうえ、よく考えもしなかったから、人間はゴリラを殺すという最悪な行為をしてしまったのです。
以前、「教養と寛容」というタイトルで、なぜ学ぶことが大切なのかということについて書いたことがあります。教養があれば、さまざまな立場の人のことを理解することができます。多くの知識があれば、一方的に誰かを攻撃するなどということはできなくなるはずなのです。
「悪」と言えば、一般的には人を殺したり、物を盗んだりといったことを思い浮かべます。ですが、ソクラテスならこう言うかもしれません。「そのようなことをする人は、何かを知らないからそうするのだ。」と。問題を根本から解決する方法を知っていたら、悪いことをする必要はありません。悪いことをする人は、知るべきことを知らないからそんなことをするのです。
ゴリラについての正確な知識があったら、人間がゴリラを殺さずにすんだのと同様に、真実を知っていたら、人間同士も争ったり戦ったりする必要はないのではないでしょうか。
もちろん、すべてを簡単に知ることはできません。長い長い時間をかけて、深い森を踏みわけ踏みわけして前に進んでいくように、少しずつ、少しずつ、本当のことに近づいていくのです。誰が見ても知者であったソクラテスにして、「私は自分が何も知らないということを知っている(無知の知)。」と言っていたのですから。
哲学(philosophy)の語源はギリシャ語で、知(sophy)を愛すること(philos)を意味します。知を愛し、知識を得るのは、よく考えて、よりよい行動をとるためです。つまり、よりよく生きるために、知識が必要なのです。学ぶことは、実はきわめて哲学的で、倫理的にも価値のあることなのです。
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「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2015年9月18日金曜日
2015年8月13日木曜日
ブーイングされても平気?
* 作文の書き方を学ぶために、同世代の子どもが新聞に投稿したじょうずな文章を読んでみました。
* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。
アリー塾長 : 私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
されたら、やる気なくすもん。
Yくん : 別にブーイングはしてもいいよ。
Kくん : ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!
Yくん : そうそう、うまくやらないやつが悪い!
アリー塾長 : ええーっ!?ほんとー?
Kくん : ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。
アリー塾長 : ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
気持ちにならない?
Yくん : ならない、ならない。平気、平気。
アリー塾長 : ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?
Yくん : 出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!
アリー塾長 : そうかなあ?
Yくん : そうだよー。
アリー塾長 : 私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。
Yくん : ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
がんばれる。
* アリー塾長の一言
Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。
Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?
YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。
残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。
フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。
みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。
その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。
このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。
さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。
本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?
たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。
大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。
多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。
もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。
http://www.ko-to-ha.com/
* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。
アリー塾長 : 私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
されたら、やる気なくすもん。
Yくん : 別にブーイングはしてもいいよ。
Kくん : ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!
Yくん : そうそう、うまくやらないやつが悪い!
アリー塾長 : ええーっ!?ほんとー?
Kくん : ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。
アリー塾長 : ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
気持ちにならない?
Yくん : ならない、ならない。平気、平気。
アリー塾長 : ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?
Yくん : 出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!
アリー塾長 : そうかなあ?
Yくん : そうだよー。
アリー塾長 : 私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。
Yくん : ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
がんばれる。
* アリー塾長の一言
Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。
Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?
YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。
残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。
フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。
みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。
その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。
このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。
さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。
本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?
たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。
大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。
多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。
もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。
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2015年8月8日土曜日
夏休み・和菓子作り体験
* 夏休みに和菓子作りの体験をしました。
寒天と砂糖を鍋に入れています。
緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。
赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。
石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
液を入れて固めるという作業をくりかえします。
涼しげな 「金魚鉢」の完成です!
あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。
「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!
* アリー塾長の一言
夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。
実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。
Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。
実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。
ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。
文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。
今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。
http://www.ko-to-ha.com/
寒天と砂糖を鍋に入れています。
緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。
赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。
石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
液を入れて固めるという作業をくりかえします。
涼しげな 「金魚鉢」の完成です!
あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。
「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!
* アリー塾長の一言
夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。
実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。
Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。
実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。
ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。
文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。
今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。
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2015年7月29日水曜日
感想文・『ぼくとテスの秘密の七日間』
* またまた読書感想文の季節がやってきました。今年は、『ぼくとテスの秘密の七日間』(アンナ・ウォルツ著、野坂悦子訳、フレーベル館、2014年9月)を読んでみました。
サミュエルやテスの住むオランダという国は、同性婚はもちろん、必要な条件さえ満たせば安楽死すら合法的に認められている国です。日本などと比べると、より多様な生き方が法律によって保障されている国だと言ってもよいでしょう。
ですが、法律が認めるのと自分が認めるのとではまた意味が違います。シングルマザーの娘であるテスは、法律によってその存在や権利を保障されてはいますが、テス自身が自分で自分の存在を受け容れるというのはまた別な話なのです。
テスは生まれてから一度も会ったことのないパパに会うために策略を練ります。たまたまテスの住むテッセル島にバカンスに来ていたサミュエルは、出会って間もないテスの計画を手伝うことになります。何しろ、その計画にはテスの「人生が、かかって」いたのです。
テスはサミュエルに言います。
「両親がいうことをサミュエルはぜんぶ信じる?」
「あのね、あたしはママがいってることを、本気で信じてたの。あたしたちは、パパなんかいないほうがうまくやっていけるって。でもね、ある朝、なんとなく疑うようになったんだ。かりに、ママがまちがってたとしたら?ひょっとしたら、あたしはパパと知り合いになりたいのかもしれない。」
テスは少しずつ大人になっていきます。その途中で、いろいろなことに疑問をもち始めます。パパに対するママの考えは、中でも大問題です。テスはママと自分の考えが違ってきたことに気が付きます。「ママがまちがって」るかもしれないのです。テスは自分で自分の答えを探さなければなりません。
サミュエルも考える子どもです。兄のヨーレに「教授」と呼ばれています。サミュエルもテスの問題をとおして、一緒にいろいろなことを考えます。死について、孤独について、そして家族について、考えて、二人でさまざまな真実を発見していくのです。
テスは「たぶん、パパがほしい」。だから、パパが「十一歳になった娘を、ほしいかどうか」がわからないといけない。サミュエルとテスは、パパには本当のことを言わずに、パパとそのガールフレンドと一緒に島の休日を過ごします。テスは、「じぶんのことを、パパに伝えるかどうか」、「じぶん自身で決めたかった」のです。
残念なことに、テスの期待は裏切られます。テスとサミュエルと、パパとそのガールフレンドの四人で楽しく凧あげをしていたとき、海岸をうるさく駆け回る幼い子どもたちを見て、パパが、「ぼくたちには子どもがいなくて、よかったよ」と言うのです。テスは自分のことをパパには打ち明けないと決心します。
一方、サミュエルは、こう考えていました。
「でも、これはたまたま、ぼくの人生なんだ。テスと同じように、じぶんの人生でなにをするかは、ぼくがじぶんで決めるんだ。」
そうして、島から帰ろうとするテスのパパを引き留め、テスには内緒で、テスのことを話します。
「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決める」がいくつもぶつかって、テスはパパを手に入れることができました。テスのママは、テスたち母子にパパはいらない、と決めた。パパは、ガールフレンドと、子どものいない気ままな生活をすることに決めていた。テスはそんなパパを見て、自分のことを打ち明けないと決めた。
そしてサミュエルは、テスのことをテスのパパに伝えることを決めた。なぜなら、テスがパパと一緒にいて、幸せそうにしていた様子を見ていたから。
みんな「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決め」なければなりません。ですが、みんなが「じぶんで決め」ると、「なにをするか」の「なに」が、ときにはほかの人の「なに」のじゃまをしてしまうことがあります。サミュエルは「なにをするか」を「じぶんで決め」、テスが決めた、パパには打ち明けないということのじゃまをしてしまいました。
けれども、そのおかげで、テスにはパパができました。パパはテスの存在を受け容れてくれました。テスは、ママにもパパにも受け容れてもらって、自分の存在を丸ごと認めることができたのではないでしょうか。
「じぶんで決め」たことがほかの人の決めたこととぶつかるのもよいことです。その結果、みんなにとって一番すばらしい結論が出て、みんなが幸せな未来を思い描けるようになりました。
自分の親がどういう人かを知りたいのは、自分がどういう人間なのかを知りたいということです。自分で自分のことを知って、自分で自分の存在を受け容れて、自分自身になる。どうして自分自身にならなければいけないかと言うと、サミュエルの言うように、人生は自分で何をするかを決めなければならないものだからです。
サミュエルは成熟した子どもです。自分の存在を軸に、いろいろな人に出会って、さまざまなことを経験し、多くのことを考えて、発見し、成長していきます。サミュエルは、そしてテスも、自分で自分の人生を切り開き、自分なりの幸福な日々を、これからも過ごしていくことでしょう。
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サミュエルやテスの住むオランダという国は、同性婚はもちろん、必要な条件さえ満たせば安楽死すら合法的に認められている国です。日本などと比べると、より多様な生き方が法律によって保障されている国だと言ってもよいでしょう。
ですが、法律が認めるのと自分が認めるのとではまた意味が違います。シングルマザーの娘であるテスは、法律によってその存在や権利を保障されてはいますが、テス自身が自分で自分の存在を受け容れるというのはまた別な話なのです。
テスは生まれてから一度も会ったことのないパパに会うために策略を練ります。たまたまテスの住むテッセル島にバカンスに来ていたサミュエルは、出会って間もないテスの計画を手伝うことになります。何しろ、その計画にはテスの「人生が、かかって」いたのです。
テスはサミュエルに言います。
「両親がいうことをサミュエルはぜんぶ信じる?」
「あのね、あたしはママがいってることを、本気で信じてたの。あたしたちは、パパなんかいないほうがうまくやっていけるって。でもね、ある朝、なんとなく疑うようになったんだ。かりに、ママがまちがってたとしたら?ひょっとしたら、あたしはパパと知り合いになりたいのかもしれない。」
テスは少しずつ大人になっていきます。その途中で、いろいろなことに疑問をもち始めます。パパに対するママの考えは、中でも大問題です。テスはママと自分の考えが違ってきたことに気が付きます。「ママがまちがって」るかもしれないのです。テスは自分で自分の答えを探さなければなりません。
サミュエルも考える子どもです。兄のヨーレに「教授」と呼ばれています。サミュエルもテスの問題をとおして、一緒にいろいろなことを考えます。死について、孤独について、そして家族について、考えて、二人でさまざまな真実を発見していくのです。
テスは「たぶん、パパがほしい」。だから、パパが「十一歳になった娘を、ほしいかどうか」がわからないといけない。サミュエルとテスは、パパには本当のことを言わずに、パパとそのガールフレンドと一緒に島の休日を過ごします。テスは、「じぶんのことを、パパに伝えるかどうか」、「じぶん自身で決めたかった」のです。
残念なことに、テスの期待は裏切られます。テスとサミュエルと、パパとそのガールフレンドの四人で楽しく凧あげをしていたとき、海岸をうるさく駆け回る幼い子どもたちを見て、パパが、「ぼくたちには子どもがいなくて、よかったよ」と言うのです。テスは自分のことをパパには打ち明けないと決心します。
一方、サミュエルは、こう考えていました。
「でも、これはたまたま、ぼくの人生なんだ。テスと同じように、じぶんの人生でなにをするかは、ぼくがじぶんで決めるんだ。」
そうして、島から帰ろうとするテスのパパを引き留め、テスには内緒で、テスのことを話します。
「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決める」がいくつもぶつかって、テスはパパを手に入れることができました。テスのママは、テスたち母子にパパはいらない、と決めた。パパは、ガールフレンドと、子どものいない気ままな生活をすることに決めていた。テスはそんなパパを見て、自分のことを打ち明けないと決めた。
そしてサミュエルは、テスのことをテスのパパに伝えることを決めた。なぜなら、テスがパパと一緒にいて、幸せそうにしていた様子を見ていたから。
みんな「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決め」なければなりません。ですが、みんなが「じぶんで決め」ると、「なにをするか」の「なに」が、ときにはほかの人の「なに」のじゃまをしてしまうことがあります。サミュエルは「なにをするか」を「じぶんで決め」、テスが決めた、パパには打ち明けないということのじゃまをしてしまいました。
けれども、そのおかげで、テスにはパパができました。パパはテスの存在を受け容れてくれました。テスは、ママにもパパにも受け容れてもらって、自分の存在を丸ごと認めることができたのではないでしょうか。
「じぶんで決め」たことがほかの人の決めたこととぶつかるのもよいことです。その結果、みんなにとって一番すばらしい結論が出て、みんなが幸せな未来を思い描けるようになりました。
自分の親がどういう人かを知りたいのは、自分がどういう人間なのかを知りたいということです。自分で自分のことを知って、自分で自分の存在を受け容れて、自分自身になる。どうして自分自身にならなければいけないかと言うと、サミュエルの言うように、人生は自分で何をするかを決めなければならないものだからです。
サミュエルは成熟した子どもです。自分の存在を軸に、いろいろな人に出会って、さまざまなことを経験し、多くのことを考えて、発見し、成長していきます。サミュエルは、そしてテスも、自分で自分の人生を切り開き、自分なりの幸福な日々を、これからも過ごしていくことでしょう。
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2015年5月11日月曜日
思い込みをはずす
思い込みという言葉がいい意味でつかわれることはありません。文章を読むときも、思い込みをもって読んでしまうと、見当違いの読み方をすることになってしまいます。
中学三年生のRくんと国語の問題を解いているときでした。それは本文のある箇所の意味を説明しなさい、という問題でした。Rくんの解答には、「邪魔なもの」という言葉がつかわれていました。
「うーん、ここで「邪魔」という言葉をつかうのはどうかなあ?筆者はここで否定するようなことを言っているんじゃないよね?肯定してるよね?それはいいことだと思ってるんだよね?それなのに、「邪魔」という言葉をつかってしまうと、合わないよね?」私はRくんに言いました。
「もういちど書き直しみよう!」私の言葉にRくんはうなずいて、もういちど書き直してくれました。
ところが、書き直した解答を読んでみると、今度は「いらないもの」という言葉が入っていました。「
邪魔なもの」と「いらないもの」はほとんど同じ意味の言葉です。Rくんの解答の内容は書き直してもあんまり変わらなかったのです。
「これはもしかしたら、Rくんの価値観が入ってしまっているのかもしれないね。「邪魔なもの」という言葉も「いらないもの」という言葉も、たしかに本文には出てくるけど、Rくんの価値観がそればっかりを拾ってきてしまっているのかもしれないね。Rくんの「それは邪魔なもの、いらないもの」っていう思い込みが反映しちゃってるのかもしれないよ。」私の指摘に、Rくんは少しとまどったようでした。
このようなことはときどきあります。以前も別の生徒が、どうしても最初に考えた解答から離れることができずに、何度説明しても内容を正しく理解できなかったことがあります。いちど「そうだ!」と思い込んだら、それを捨てることができなくなってしまうのです。文章を読むとき、国語の問題に解答するとき、思い込みははずさなければなりません。
もっともそうは言うものの、その気持ちはわからないでもありません。実は私も、思い込みがはずせなくて、悪戦苦闘したことがあるのです。今でもその思い込みを完全にはずせたとは言えないかもしれません。
あるとき私はなぜか歌が歌いたくなって、ボーカルレッスンに通うことにしました。歌を正式に習うのは初めてだし、もともと歌うことが得意だったわけでもありません。でも、気持ちよく声を出すことができたらどんなに楽しいだろうと思って、一念発起したのです。
ですが、実際に歌ってみると、声が出ない!!こわれちゃったクラリネットではありませんが、ラより上の音がどうしても出ない!声を出そうと思えば思うほど、のどが絞まって、絞め殺されそうになっているにわとりのかすれた悲鳴みたいになってしまうのです。
「先生、どうしたら声が出ますか?」私は歌の先生にすがるような思いで聞きました。「声は出ます。」「…?私の場合、全然出ませんけど?」「それは思い込みです。」先生はあっさりおっしゃいました。「声は出ないと思い込んでるから出ないんです。もっとも大人の場合、その思い込みをはずすのが一番むずかしいんですけどね。」
思い込みをはずす。これは本当にむずかしいことです。私はその後、10か月くらいボーカルレッスンに通いましたが、ついに声は出ませんでした。
声の例でもわかるように、思い込みはあらゆる可能性を閉ざしてしまいます。本を読むときには読みの可能性を狭めてしまうばかりか、まちがった読みをしてしまうこともあります。むずかしいことではありますが、思い込みからは自由にならなければなりません。
ボーカルレッスンを受けてから2年以上がたちます。歌うことをあきらめたわけではないので、ときどき私は一人で歌ってみます。声は、まったく出ないということもなくなりました。気分がいいとき、心の底から「出る」と思っているときに、声は出ます。反対に、「出ないんじゃないかな?」と、ちょっとでも疑ったりすると、とたんに出なくなります。本当に不思議なものです。
思い込みは言葉とともにあります。私の場合、「声は出ない」でした。声を出したいと思ったら、その言葉を、「声は出る」に変えてあげればよいのではないでしょうか。そしてその言葉を心底信じる。それができたときに、声は出るのです。
本当はできるのに、できないと思い込んでいることはまだまだたくさんありそうです。どんどん思い込みをはずして、いろいろなことにチャレンジしていきたいものです。
http://www.ko-to-ha.com/
中学三年生のRくんと国語の問題を解いているときでした。それは本文のある箇所の意味を説明しなさい、という問題でした。Rくんの解答には、「邪魔なもの」という言葉がつかわれていました。
「うーん、ここで「邪魔」という言葉をつかうのはどうかなあ?筆者はここで否定するようなことを言っているんじゃないよね?肯定してるよね?それはいいことだと思ってるんだよね?それなのに、「邪魔」という言葉をつかってしまうと、合わないよね?」私はRくんに言いました。
「もういちど書き直しみよう!」私の言葉にRくんはうなずいて、もういちど書き直してくれました。
ところが、書き直した解答を読んでみると、今度は「いらないもの」という言葉が入っていました。「
邪魔なもの」と「いらないもの」はほとんど同じ意味の言葉です。Rくんの解答の内容は書き直してもあんまり変わらなかったのです。
「これはもしかしたら、Rくんの価値観が入ってしまっているのかもしれないね。「邪魔なもの」という言葉も「いらないもの」という言葉も、たしかに本文には出てくるけど、Rくんの価値観がそればっかりを拾ってきてしまっているのかもしれないね。Rくんの「それは邪魔なもの、いらないもの」っていう思い込みが反映しちゃってるのかもしれないよ。」私の指摘に、Rくんは少しとまどったようでした。
このようなことはときどきあります。以前も別の生徒が、どうしても最初に考えた解答から離れることができずに、何度説明しても内容を正しく理解できなかったことがあります。いちど「そうだ!」と思い込んだら、それを捨てることができなくなってしまうのです。文章を読むとき、国語の問題に解答するとき、思い込みははずさなければなりません。
もっともそうは言うものの、その気持ちはわからないでもありません。実は私も、思い込みがはずせなくて、悪戦苦闘したことがあるのです。今でもその思い込みを完全にはずせたとは言えないかもしれません。
あるとき私はなぜか歌が歌いたくなって、ボーカルレッスンに通うことにしました。歌を正式に習うのは初めてだし、もともと歌うことが得意だったわけでもありません。でも、気持ちよく声を出すことができたらどんなに楽しいだろうと思って、一念発起したのです。
ですが、実際に歌ってみると、声が出ない!!こわれちゃったクラリネットではありませんが、ラより上の音がどうしても出ない!声を出そうと思えば思うほど、のどが絞まって、絞め殺されそうになっているにわとりのかすれた悲鳴みたいになってしまうのです。
「先生、どうしたら声が出ますか?」私は歌の先生にすがるような思いで聞きました。「声は出ます。」「…?私の場合、全然出ませんけど?」「それは思い込みです。」先生はあっさりおっしゃいました。「声は出ないと思い込んでるから出ないんです。もっとも大人の場合、その思い込みをはずすのが一番むずかしいんですけどね。」
思い込みをはずす。これは本当にむずかしいことです。私はその後、10か月くらいボーカルレッスンに通いましたが、ついに声は出ませんでした。
声の例でもわかるように、思い込みはあらゆる可能性を閉ざしてしまいます。本を読むときには読みの可能性を狭めてしまうばかりか、まちがった読みをしてしまうこともあります。むずかしいことではありますが、思い込みからは自由にならなければなりません。
ボーカルレッスンを受けてから2年以上がたちます。歌うことをあきらめたわけではないので、ときどき私は一人で歌ってみます。声は、まったく出ないということもなくなりました。気分がいいとき、心の底から「出る」と思っているときに、声は出ます。反対に、「出ないんじゃないかな?」と、ちょっとでも疑ったりすると、とたんに出なくなります。本当に不思議なものです。
思い込みは言葉とともにあります。私の場合、「声は出ない」でした。声を出したいと思ったら、その言葉を、「声は出る」に変えてあげればよいのではないでしょうか。そしてその言葉を心底信じる。それができたときに、声は出るのです。
本当はできるのに、できないと思い込んでいることはまだまだたくさんありそうです。どんどん思い込みをはずして、いろいろなことにチャレンジしていきたいものです。
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2015年4月18日土曜日
自由な裁量
* 各学校の国語の入試問題には、実は興味深い、よい文章がたくさん取り上げられています。生徒と一緒に問題演習をやっていると、課題の文章のおもしろさに、おもわず興奮してしまうことがあります。
中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。
わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの
であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
--これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
(中略)
ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。
「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。
「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」
「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」
「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」
「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。
人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。
もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。
しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。
世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。
考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。
「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。
Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。
最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。
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中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。
わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの
であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
--これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
(中略)
ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。
「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。
「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」
「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」
「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」
「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。
人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。
もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。
しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。
世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。
考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。
「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。
Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。
最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。
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2015年4月4日土曜日
体験型授業「和菓子の試食」
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上は、「春の水」という銘のお菓子です。
右、お抹茶も飲んでみました。
* 和菓子の試食の体験型授業をおこないました。
以下は、参加した生徒の作文です。
「和菓子について」
和菓子のことを勉強して、和菓子を3回楽しむことや、季節ごとにちがう和菓子があることを知りました。
わたしは、和菓子を食べる前に、目で楽しんだり、耳で楽しんだりしてから口で楽しむ事を知って、今まで目や耳で楽しんでなかったから、目で、何に見えるか、耳でその和菓子の名前を聞いてイメージしてから口でゆっくり味わおうと思いました。
あと、季節ごとでちがう和菓子があったり、一月から十二月まででいろいろな和菓子があってすごいと思いました。
その中でいちばんきれいだと思った和菓子は、夏の氷みたいに見える和菓子です。理由は、とう明でとてもきれいだったり、その中に入っているお菓子の色あいがよかったりするところです。
秋のもみじに見える和菓子や、冬のゆきだるまみたいな形をしている和菓子や春のさくらの形でうすいピンク色になっているのもとてもきれいだと思いました。
ほかにも、食べた、こちょうというちょうに見える和菓子もきれいでした。あと、和菓子のことのテレビを見て、その和菓子を作っている人は、こまかい所もきれいにやっていてすごいと思いました。
氷に見える和菓子は、昔、夏に氷がなかったときにその和菓子を作って食べていたことを知って、和菓子はそんなふうにも食べたり、楽しめたりしてすごいと思いました。
わたしは、氷もいいと思ったけれど、和菓子で作った、氷みたいなお菓子も食べてみたいと思いました。
和菓子に、いろいろな楽しみ方があって、今度食べるときは目、耳、口で楽しみたいと思いました。それで、いろいろイメージしてみたいと思いました。和菓子に、日本の文化がたくさんあってすごいと思いました。
* アリー塾長の一言
授業の中では、和菓子の中でももっとも洗練されている、上生菓子(お茶の席でつかわれます)を試食してみました。また、今回選んだのは、京菓子です。
京菓子を特に選んだのは、そこには日本の伝統と、日本人の美意識がふんだんにもりこまれているからです。京菓子は手のひらにのるほど小さいけれど、そこには日本の文化がぎゅっとつめこまれているのです。
京菓子は季節をうつしています。たとえば、春には桜の花を、夏には涼しげな水を、秋には色づいたもみじを、冬には雪をかぶった松をかたどります。日本人は昔から、季節を敏感に感じて楽しんできたのです。
上にあげた作文は、ところどころに幼い表現がありますし、重複したり、反対に言い足りなかったりするところもあって、まだまだ文章としては完成していません。
ですが、京菓子についての知識を得、実際に試食をしてみたときの感動がすなおに表現されていて、読んでいるこちらも感動するようなすばらしい作文となりました。
ほかにも、序論・本論・結論の三段構成で書かれているところや、結論のところで最後に、「文化」という難解で抽象的な言葉をつかってまとめているところなど、これまでに学んできた成果が随所にあらわれていいます。
○○ちゃん、とてもよい作文が書けたね!和菓子は日本のすばらしい文化の一つです。世界に誇りましょうね。
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