2025年8月30日土曜日

ハナクソ!

  Kちゃんが辞書をひいていて、「ハナクソ、って出てる!」と叫びました。妹のRちゃんも大騒ぎです。「ハナクソ、ハナクソ!」と二人で大笑いします。「ハナクソ、って出てた?ウンコもあるよ。」と私は挑発します。


 「ハナクソ」という言葉に出合ってしまうのは、紙の辞書をつかっているからです。辞書をペラペラとめくっていたら、たまたま「ハナクソ」と書かれているところに目がいってしまったのです。電子辞書やスマホではこうはいきません。


 私が、すくなくとも小学生のうちは紙の辞書をつかってもらいたいと言うのは、このような偶然の出合いがあるからです。言葉に偶然出合って、ボキャブラリーを豊かにしてもらいたいと思うからです。


 人生におけるさまざまな出合いが偶然であるように、言葉との出合いも偶然です。たまたま読んだ本で、たまたまその言葉と出合うのです。そして、出合いはたまたまだからおもしろい。


 言葉との、偶然の出合いをたくさんしてほしい。偶然の出合いをたくさんして、語彙を増やしてほしい。それが、私が紙の辞書をおすすめしている理由です。


 

アメちゃんの話

 教室では、作文を書き始めてもらう前に、生徒ちゃんたちにアメちゃんを配ります。一人一個。なにか特別なことがあったときにはもう一個。一生懸命資料を読んで、たくさん意見を言ってもらったあとで配ります。ささやかなご褒美です。


 ときどき、このアメを、お母さんにたのんで買ってもらうという話を聞きます。お母さんと二人で、お菓子屋さんでさがしたという話を聞きます。帰り道、お菓子屋さんで買って帰ったと言われることもあります。教室で配られるのと同じものがいいのだそうです。教室で配るのは、ソーダ味のアメ、ミルク味のアメ、カフェオレ味のアメです。


 この間は、ソーダ味のアメをさがしたという話を聞きました。買って帰ってみたら、同じ味ではなく、がっかりしたそうです。教室のアメのメーカーはどこかとお母さんに聞かれました。ソーダ味のアメは、メーカーによって、そんなにちがうのでしょうか。教室にあるアメがおいしくて、別のメーカーのものはおいしくないのでしょうか。


 そんなことはないと思います。どこのメーカーのアメも、それぞれおいしいはずです。ソーダ味のアメも、ミルク味のアメも、どこのメーカーのものでもいいはずです。それなのに、どうして教室のアメと同じアメがいいのでしょうか。


 教室で配るアメには、おそらく、特別な意味があるのでしょう。ちょっと我慢したり、ちょっとがんばったりしたあとでなめるから、おいしいのでしょう。アメがおいしいのは、ちょっと我慢したり、ちょっとがんばった自分はえらかったなあ、と思えるからなのかもしれません。


 教室でもらうアメを食べたいと思うのは、アメを食べて、がんばれる自分を思い出したいと思うからなのかもしれません。


 

2023年5月6日土曜日

「先生が好きです」

 「先生が好きです」と「告白」されました。「告白」されたのは二回目です。前回は当時中学三年生の女の子、今回は小学四年生の男の子です。   
 
 今年は宮沢賢治没後90年だそうです。私はその男の子に、「『銀河鉄道の夜』、読んでみる?」と言いました。  
 「あ、でもちょっと難しいかもしれないね」。『銀河鉄道の夜』は、対象年齢が小学五、六年生以上とされています。  
 「ぼく、読めるよ」とその子は言いました。  
 「ああ、そうだね。読めるかもしれないね。できるかできないか、私が決めることじゃないよね」と私は言いました。  
 子どもは個人差が大きいのです。『銀河鉄道の夜』が読めるかどうかは、その子次第なのです。  
 「あなたができるかできないか、私が決めちゃいけないのよね」自分に言い聞かせるように、もう一度私は言いました。  
 「先生はそんなことしません!」その子が言いました。  
 「先生は優しいから、そんなことしません」もう一度言われました。   
 そして、「先生が好きです」と「告白」されたのです。「どうもありがとう」、私はお礼を言いました。  
 「ぼくのこと、『できない』って言った人がいる」とその子は言います。「ぼくの目の前で言ったんですよ!」と力をこめて、何度も言います。その子の心はとても傷ついたようです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うとき、いったい何が「できない」と言うのでしょう。私の目から見ると、子どもにはできることがたくさんあります。たしかに、それぞれできることは違っていて、その子によって、「これはできるけれど、あれはできない」ということはあります。でも、できることがあるのだから、それを伸ばしていけばよいのではないかと思うのです。  
 
 大人が子どものことを「できない」と言うのは、「この子は私が思うようにはできない」ということなのではないでしょうか。大人が、そうあるべきと思っている型に、その子がはまらないので、「この子はできない」と言うだけのことなのではないでしょうか。 
 
 以前「告白」してくれた女の子にも言われました。「先生は、『ああしなさい、こうしなさい、そうしなきゃダメ、ああしなきゃダメ』って言わないじゃない?」。そう言われればそうです。でも、そう言ってはいけないと思うから言わないのではありません。それより大事なことがあると思うから、それを優先しているのです。  
 
 子どもには、「できない」と言って無理にやらせるより、できることを探してそれを伸ばしたほうが効果があります。できることをやってもらっているうちに、なぜかできなかったこともできるようになってしまうことさえあります。「できない」と言って、まず子どもの心をくじいてしまわないことが大切なのではないでしょうか。

2018年7月4日水曜日

ウソをつく子どもたち

 意外と言うべきか、当然と言うべきか、子どもたちの中には、ウソをつく子どもも存在します。もちろん、大人も含めて、ウソをついたことのない人などいないだろうし、罪のないちょっとしたウソをついて、バレなかったなどという経験はだれもがしているでしょう。

 ですが、ここで気になるのは、相手を見て態度を変え、だませそうな相手だったら、ウソをついてでも得をしようとする大人顔負けの子どもの策士がいるということです。

 ウソと言えば、以前こんなことがありました。衣替えの季節に、前の年にクリーニングに出したニットのパーカーを衣装ケースから出し、ハンガーにかけようとして、フードのひもの先に付いていた筒状になった金属の付属品が一つないことに気づきました。フードのひもの金属は左右に付いていたはずです。それが片方ないのです。

 パーカーがクリーニングからかえってきたときには、私はそのことに気づきませんでした。気づかずに、そのままケースに入れてしまったのです。どうして気づかなかったのか。それは、気づかれないように工夫されていたからだと思わないわけにはいきません。パーカーは、きちんと上までファスナーがあげられていたうえ、ひもがリボン結びにされていたのです。それでは一見して付属品がとれているとは気づきません。

 クリーニングの営業担当の方はとても誠実な方で、パーカーの件についても、丁寧に対応してくださいました。こちらが申し訳なく思うほど、懸命に対処していただきました。けれども、営業の方が真面目な方であればあるほど、どうして工場のほうではこんなごまかしをするのだろうと思いました。第一、隠したとしても、いずれバレてしまうのです。そのときは逃れることができても、最後は責任をとらなくてはならなくなります。

 クリーニング工場は確かに、付属品をなくしたことを隠したと思われます。パーカーのひもをリボン結びにした際に、付属品がとれていることに気づくはずだからです。ではなぜ工場の担当者は、そのことを隠してそのまま出荷したのでしょう。

 お互いに顔が見えないとしても、業者と客の間にもコミュニケーションが成立しています。業者と客は、お互いにコミュニケーションの相手なのです。双方の考えや行動には、お互いのあり方が影響しあっているはずです。つまり、客がこうだから業者もこう、客がそうだから業者もそう、というように、客の態度に応じて業者の反応も違うのではないかということなのです。

 「お客様は神様です」などという言葉があるように、とかく客は業者に対して厳しくなりがちです。「お金を出すのだからそれに見合ったサービスを受けるのはあたりまえ、失敗なんて許さない!」という人も多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、そのクリーニング業者も客のクレームが怖かったのではないでしょうか。容赦のない客からのクレームにさらされ続け、たとえ一時逃れにしかならなくても、とにかく失敗は隠すというやり方になってしまったのかもしれません。客が業者に対してもう少し寛大であったら、業者も失敗を隠すことなく、正直に申し出てくれるのではないかと思うのです。

 さて、ウソをつく子どもたちです。ウソをつく子どもたちのコミュニケーションの相手は大人たちです。子どもたちは大人たちとコミュニケーションするうちに、ウソをつくようになってしまったということはないでしょうか。

 クリーニングの例にもみるように、「できてあたりまえ、失敗なんて許さない!」という態度は、相手を委縮させるだけでなく、叱責から逃れるためのウソをつかせることにもなりかねません。失敗する子どもを受け入れず、叱責ばかりしていると、子どもは自分のことをダメだと思い、やる気をおこすこともなくなります。

 さらに、失敗することも含めて自分を受け入れてもらえることのない子どもは、人間関係を利害関係で見ることしかできなくなります。過程ではなく、結果がすべてになってしまい、失敗するか成功するか、うまくやるかやらないか、損をするか得をするか、そんなことにしか興味をもたなくなってしまうからです。人間関係を利害関係としてしかとらえられないと、他人とは利用するものという考え方になっていき、だれかと真の信頼関係を築くことができなくなります。

 子どもにウソをつかせないために、大人は寛大にならなければならないでしょう。子どもを甘やかしてはいけないという人がいますが、子どもに対して、寛大であることと甘いこととはもちろん違います。子どもに対して寛大であるというのは、寛大であることの意味と必要性を自覚し、子どもの可能性を信じて、成長の過程としてのその子の失敗を受け入れながら、根気強く見守るということです。

 子どもの失敗に対する大人の反応は、その子の将来の人間関係にまで影響をおよぼします。それは、その子が将来幸せになれるかなれないかということと同じ意味です。子どもが失敗したとき、大人はどう反応すればよいか、よくよく考えなければならないことだと思います。

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2018年3月4日日曜日

子どもの葛藤、もう一人の自分

 小学2年生のHくんが、「もう一人の自分」という題名の作文を書きました。

 Hくんが映画を観ていたときのことです。館内で赤ちゃんが泣きだし、「うるさいからやめてくれ」と思う自分が出てきたそうです。でも、映画が終わってしばらくしたら、「まあ、赤ちゃんだから許そう」というもう一人の自分が出てきたのだそうです。Hくんは、「ぼくは、かならず人は二人以上いるものだとわかりました。」と書いています。

 Hくんとよく話してみると、実はHくんの中には、二人どころか、ときには三十人くらいのHくんがいることがあるそうなのです。

 どんなときに三十人のHくんが現れるかというと、学校や家で、先生や親などの大人に、「こうしましょう」と指示されたときのようです。「こうしましょう」と言われると、「え、今?」、「やらないといけないのかな?」、「どうしてやらないといけないの?」、「やったほうがいいのかな?」、「めんどうだな」、「怒られたくないな」、「よし、やろう!」などと、三十人のHくんたちは、際限のない議論をするのだそうです。

 では、どんなときにHくんは一人でいられるのかと聞いてみました。すると、サッカーやボルダリングなど、自分が好きなことをしようと思ってするとき、という答えが返ってきました。

 「ぼくは、もう一人の自分にでてきてほしくありません。なぜならまよいたくないからです。でもまようからでてくるのですよね。」とHくんの作文は結ばれています。子どもといえども、葛藤と無縁ではありません。

 私は、葛藤自体は悪いことではないと思っています。葛藤とは、自分自身との対話であり、そうして自分と対話をかさねることによって、自分の考えをまとめていくことができるからです。自分自身との対話を通して、自分が本当に望んでいることや、自分が今すべきことがだんだんはっきりしていきます。自分との対話はおおいにしたほうがよいのです。

 問題は、何十人ものHくんが出てきてしまうときというのが、大人からの指示をうけたとき、ということです。やはり、私が「こうしてね。」と言っても、葛藤する子どもはいるということです。そして中には、指示通りにしてくれない子どももいるわけです。

 大人は基本的に、指示をするのはその子のためになるからだと信じています。ですから、「そうしなさい。」と指示します。ですが、指示というのはあくまでもその子の外側からくるものだから、子どもにとっては、その外側のものに無理にでも自分を合わせないといけないということになります。そこで子どもは葛藤するわけです。

 指示の内容にはもちろんいろいろありますが、もし、その内容が、その子がよりよく生きていくうえで大事なことであった場合、指示は決して命令になってはいけないのではないかと思います。自分の外側から来た命令に従わなければいけないと考えたら、いくらよいことであったとしても、抵抗したくなる気持ちがわいてくることもあるでしょう。

 それでは、「よいこと」をしてもらうためにはどうしたらよいのでしょう。それには結局、気づいてもらうしかないのではないでしょうか。それが「よいこと」であることをなんらかの仕方で伝え、気づいてもらう、その作業をくり返すしかないように思います。

 「よいこと」の重要性に気づいた子どもは、主体的にその「よいこと」に取り組みます。子どもが主体的に物事に取り組むようになれば、大人は楽になります。そのときどきに、「よいこと」の提案をするだけですむからです。

 残念ながら、子どもの中には、大人に何か言われたら、とにかくその場をやり過ごせばよいと考え、内容の重要性を理解しないまま、指示されたことをいいかげんにやるという癖がついている子もいます。そのような子は、大人からの叱責を避けるために、うわべをとりつくろったり、嘘をつくことさえあります。また、相手を見て態度を変えたりすることもあります。ですが、そんなことをするのは、もともとはその子の責任ではないのではないかとも思います。そのような子は、もしかすると、周囲の大人から指示され続けてうんざりし、自分の身を守るためにそのような処世術を編み出したのかもしれないのです。

 気づいてもらうために、具体的にどのようなことをしていけばよいのかということは、その都度、その子どもごとに考えるしかないでしょう。いずれにしても、大人は、なるべく外側から指示するだけにとどまらず、その「よいこと」がどうしてよいのか(前提として、その「よいこと」は、その子にとって、本当に「よいこと」でなければなりませんが)を子どもに理解してもらう努力を続け、いずれ子どもが主体的に「よいこと」をしてくれるように導く必要があるでしょう。そうすれば、子どもの頭の中で、三十人の議論が行われることもなくなるのではないかと思うのです。

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2017年8月19日土曜日

くろねこのどん

 私がおこなっている読書感想文講座のなかには、親子参加可能なものがあります。そこではときどき、本の読み方について、お母さんやお父さんから質問をされます。今年は、課題図書の一冊、『くろねこのどん』についてでした。

 『くろねこのどん』は、どこからともなく現れたくろねこと、えみちゃんという女の子との不思議な交流と別れが描かれたお話です。

 えみちゃんは小学校一年生です。まだまだ小さな女の子なのに、お母さんがお出かけをしてしまって、ときどき一人でおるす番をしています。その日もえみちゃんは一人でおるす番をしていました。そんなときやってきたのが、4本の足先と鼻先だけが白くって、ほかはまっ黒の子猫のどんでした。外は雨。えみちゃんはびしょぬれのどんのからだをふいてやります。

 そんなことがあってから、どんは、えみちゃんが一人でいるとやってきます。夜中に来ることもあります。ときにはなかまの猫たちをつれて、どんはえみちゃんのところに遊びに来ます。えみちゃんとどんは話をすることもできれば、ごっこ遊びをすることもできるのです。

 あるときえみちゃんとどんは、高い松の木に登って雲を呼びよせ、雲に乗って空を飛びます。なんてすてきな旅だったことでしょう。どんといっしょだと、夢でしか見ることができないことでもできてしまいます。えみちゃんとどんは、おたがい一人でちょっとさみしいとき、いっしょに遊ぶことのできるこの上ないなかまでした。

 季節がうつりかわり、どんは大きくなりました。人間のえみちゃんはまだまだ子どもです。えみちゃんはどんと遊びたいと思っているのに、どんはそうでもなさそうで、えみちゃんはちょっと不満です。えみちゃんは遊びに来なくなったどんを探します。でも、やっと見つけたと思ったら、「だめだよ、こっちにきちゃ」なんて、冷たく言われてしまいます。

 えみちゃんはどんのことが好きで、前のようにいっしょに遊びたいと思っているのに、どんはそうではないようです。えみちゃんは前とあんまり変わっていないのに、どんは変わってしまったのです。

 お話の最後で、えみちゃんは夢を見ます。どんと、前にいっしょにサーカスごっこをしたことのある三毛猫の結婚式の夢です。えみちゃんの夢の中で、どんは三毛猫と結婚したのです。えみちゃんは、「どん、おめでとう!」とやっとのことで言うことができました。どんはもう三毛猫といっしょだから、えみちゃんのところには遊びに来ないにちがいありません。……

 子どもがこの本を選んだお母さんは、私に言いました。「これは難しいですねえ。どうやって子どもに教えたらいいのかわかりません。」お母さんの解釈はこうです。「これは、子猫が成長してしまって、発情期をむかえたってことですよねえ。はっきり書かれてはいないけど、これはそういうことですよねえ。となりのみみにどんが乱暴するようになったから、どんが来れないようにしたっていうのはそういうことですよねえ。」

 お母さん、鋭いです。たしかにそのように読めます。人間と猫の成長のスピードはあまりに違うので、えみちゃんはまだ子どもなのに、どんは大人になってしまいました。猫と人間という種の違いをこえて仲のよい関係をきずいていたどんとえみちゃんは、種の違いではなく、成長の度合いの違いという違いによって、へだてられてしまったのです。

 この本を読む子どもたちには、えみちゃんとどんがなぜ別れなければならなかったのか、はっきりと理解することはできないでしょう。大人が読めば、あのお母さんのように、猫が大人になって、発情期をむかえて、子どもなんかと遊ばなくなったからだと説明することができるかもしれません。でも、発情期がなんだかわからない子どもには、大人になるということの意味もわかりません。そしてそれは、本の主人公のえみちゃんにとっても同じだったのです。

 えみちゃんはどんとの別れという変化を経験しなければなりませんでした。今まであんなに仲よくしていたどんとなぜ別れなければならないのか、えみちゃんにはよくわかりません。よくわからないけれど、どんがもう自分のところに来ないだろうということはわかります。えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれなければならないのです。

 この本を読んだら、どうしてえみちゃんはどんの結婚式の夢を見たかと考えてみるとよいかもしれません。えみちゃんは、どんの結婚式の夢を見なければいけなかったのです。どんと別れるのはしかたのないことだと、納得する必要があったのです。どんが自分と遊んでくれなくなったのは、三毛猫と結婚したからだと考えれば、納得できます。もうお相手がいるのだから、えみちゃんのことろになど来ないのは当然です。

 えみちゃんは、どんとの別れに、どんが結婚したからだという理由をつけました。えみちゃんの見たどんの結婚式という夢は、えみちゃんがどんとの別れの理由として、編み出したものです。そういう理由があるということにしたおかげで、やっとのことでしたが、えみちゃんはどんとの別れという変化を受けいれることができたのです。

 子どもといえども、生きていれば常に変化にさらされます。よい変化であれば積極的に受けいれることができますが、ちょっとさみしい変化など、なかなか受けいれがたいにちがいありません。そんなとき、子どもたちはその変化を受けいれるために想像をして創造的になります。えみちゃんの夢はそんな一例なのではないでしょうか。

 人生にいやおうなしに訪れる変化ですが、どんとえみちゃんの場合のように、変化の本当の理由を知ることにはそんなに大きな意味はないかもしれません。本当の理由を知ったところで、どうしようもないからです。それよりも、えみちゃんのように、自分が納得のできる理由を編み出したほうがよいでしょう。自分さえ納得できれば、踏みとどまらずに、また前へ歩いて行けるようになるからです。

 どんとは違って、えみちゃんのからだはなかなか大きくなりません。えみちゃんが大人になるまでにはまだまだ長い時間がかかります。ですが、どんとの出会いと別れをとおして、えみちゃんが学んだことはたくさんあるはずです。えみちゃんはそうして、ゆっくりゆっくり大人になっていくのです。

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読書感想文講座

 夏休みも終盤になりました。子どもたちはそろそろ、夏休みの宿題と格闘し始めているころなのではないでしょうか。

 今年も私は、夏休みの定番、読書感想文の指導を行っております。今回は、そのとき気づいたことについて書いてみたいと思います。

 感想文指導をしていて毎年感じることの一つに、子どもたちははたして、本当に自分に合った本を選んでいるのだろうかという疑問があります。昨年も一人、今年も一人いたのですが、話を聞いてみても、「(その本の中に)おもしろかったところなんかない。」、「感動したところなんかない。」あるいは、「どうしてそんな風に思うのか、主人公の気持ちがわからない。ぜんぜんわからない。」などと言われてしまいました。

 こんなとき、どういうアドバイスをしたらよいのでしょう。「もっとよく読んでごらん。きっとおもしろいところがあるよ。」、「よく読んでみれば、きっとわかるよ。」などと、あくまでもその本を読むことをすすめるべきでしょうか。

 感想文講座自体は時間が限られているうえ、ほかの生徒もいるので、そのような子どもたちの話をそれ以上詳しく聞くことはできませんでした。ですからこれは後から考えたことなのですが、私は、選んだ本がおもしろくない、あるいはわからないという子どもたちに、その本を無理に読んでもらう必要はないのではないかと考えます。

 あたりまえのことですが、子どもは一人一人興味や好みが違うし、同じ年であっても、精神的な成長の度合いが違います。一律に課題の図書をあたえても、それらが合う子と合わない子がいるのは当然です。

 もちろん、毎年選定される課題図書もそのあたりは工夫をしていて、学年に応じて、ファンタジーから、社会問題をふくんだ物語、ノンフィクションや科学的なものまで、いろいろ取り混ぜてあります。それぞれの子どもの興味と特性に合わせて、その中から課題の本を選ぶことができるのです。

 もっとも、すべての子どもが毎年課題図書の中から読む本を選ぶわけではありません。課題図書以外の中から自分が気に入った本を選ぶ子どももいます。そのような子どもはどのようにしてたくさんある本の中から、自分が読む本を決めるのでしょうか。そう言えば、私が子どもだったころ、読む本はどのようにして選んでいたのでしたっけ。記憶の糸をたぐってみます。

 私の場合、父が本好きで、家には常にたくさんの本があったということがあります。ですから、小学校も高学年になると、父の本などもときどき勝手に本だなの中から引っ張り出して読んでいました。そして、それと同時に児童書も読んでいました。学校の図書室から借りる本のほか、本好きの父が私たち子どものために買ってくる本も読みました。父の買ってきた本の中には、今でも手もとに置いてあるようなお気に入りのものもあります。

 このように、私が子どもだったころ、私のまわりには本がたくさんあって、私はたくさんの本に触れて成長しました。それら一冊一冊の本との出会いはすべて偶然です。偶然出会った数多くの本の中から、私は、好きな本、嫌いな本、興味のない本、などと選別していったように思います。結局、自分に合った本を見つけるのには、まず多くの本を手に取ってみないといけないのではないでしょうか。

 本を購入してから、合わないことがわかった場合、ちょっと困ってしまうかもしれません。もう一冊買いなおすのは経済的ではありません。ですので、あまり強くは言えないのですが、もしも選んだ本が自分に合っていないとわかった場合、できれば別の本を選びなおしてもらえればと思います。合わない本を読んで、よい感想などもてるはずがないからです。

 今年の講座で、「主人公の気持ちが全然わからない。」と言った子は、とても聡明で早熟な印象でした。選んだ本は、その子の学年にはおすすめの本だったのでしょう。でも、私が見た限りでは、その本はその子にはやさし過ぎました。その子は、もっと難しい状況や、複雑な心理が描写されているような本のほうが、むしろ理解できたのではないかと思うのです。

 よい読書感想文を書くためには、その本と対話しなければなりません。本が隠しもっている問いかけに気づいて、本と、あるいは主人公と対話をかさねて、その問いに対する答えを探していくのが本を読む醍醐味です。本を読みながら、書かれていることや主人公に共感したり、あるいは反発を感じたりすることでしょう。そうやって心を動かしながら、本を読んでいくことができたら、その読書はよい読書だということができるのです。

 気の合う人や気の合わない人がいるように、合う本もあれば合わない本もあります。感動を共有できる人がよい友だちになれるように、読んで共感できる本はその人にとってよい本です。よい友だちを探すように、よい本を探してみれば、きっと見つかることでしょう。

 さて、自分に合ったよい本だと思って読み始めた本でも、「あれっ?これはちょっとわからないな。」などと思うことが出てくることがあります。仲のよい友だちとでも、ときどき意見が食い違うのと同じです。そんなときは、簡単に賛成してしまわないで、その本や主人公のどこにひっかかったのか、よく考えてみてください。

 本に書かれていることに疑問をもったということは、その本や主人公と自分が違うということです。本や主人公の考えと自分の考えが同じではないということです。仲のよい友だちとでもときどき意見が合わないのと同じで、好きな本であっても、すべて同じ意見とは限らないのです。

 そんなときはチャンスです。徹底的にその本と対話して、自分と本や主人公の違いをはっきりさせましょう。自分とは違う本や主人公のおかげで、自分のことがわかります。自分はこんなとき、こういう考えをもつのだということがわかったり、自分はこういうことが好き、あるいは嫌いだということがわかったり、自分のことがたくさんわかります。

 読書感想文講座では、「本を読むと出会えるものがたくさんあるよ。」と言うことがあります。「どんなものに出会えると思う?」という質問に、子どもたちは、「登場人物!」、「作者!」、「行ったことのない世界!」などと答えてくれます。私は、「もっともっと重要な出会いがあるよ。」と言います。そしてけげんそうな子どもたちの顔を前にして、「本を読むと、自分自身に出会えるんだよ!」と自信満々に宣言します。

 読書経験はこのように、自分自身と出会うよい機会の一つです。自分がどういう考え方をし、どういうものを好み、あるいは嫌うのか。読書は、自分自身のことを知って、生き方を考えるよいチャンスなのです。よい対話相手、つまり、自分に合ったよい本を選ぶ必要があるのはそのためです。

 近年は、大人も子どもも活字離れをしていると言われています。ですが、本を読むという経験は、私たちの人間としての成長を約束してくれます。大人も子どもも、たくさんの本に触れてみてほしいと願います。

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2017年1月21日土曜日

言葉も絶滅する!

* アフリカのタンザニアという国には、たくさんの民族が住んでいます。民族というのは、同じ地域に住んで、同じ言語・宗教・生活様式などをもつ人々の集まりのことです。たくさんの民族が違う言葉を話し、同じ国の中で言葉が通じないのは不便なので、タンザニアでは、スワヒリ語という共通語も使われています。

アリー塾長   :   同じ国の中でも言葉が通じないというのは、日本でもあるよね。方言っ 
              て知ってる?
Rちゃん     :   知ってる。
アリー塾長   :   どんな方言知ってる?
Rちゃん     :   「つんつるてん」とか。
アリー塾長   :   「つんつるてん」!その言葉、私も知ってる!それって、洋服の袖とか丈が
              短いって意味だよね?千葉の言葉だよね。みんなが大きくなって、服が小さ
              くなっちゃったとき、「つんつるてん」になっちゃった、って言うんだよね。
              ほかには?Tくんのおばあちゃんとおじいちゃんは九州にいるんだよね?九
              州の言葉ってどう?
Tくん       :   九州の言葉はわからない。おばあちゃんたちと話していて、ときどきわから
              ないときがある。
アリー塾長   :   やっぱり!そういうのを方言って言うんだよね。
              千葉の方言はほかにもあるよ。「だっぺ」っていうの知ってる?
Tくん       :   知ってる!
アリー塾長   :   どうして知ってるの?最近あんまり使う人はいないのに。
Tくん       :   学校の先生が言う。先生は、教えるときに一生懸命になると、「だっぺ」って
              言うようになる。
アリー塾長   :   ああ、そうなんだ。先生が一生懸命になると、「だっぺ」って言いだすんだ。先
              生は千葉の人なんだね。
Tくん       :   そう。              
アリー塾長   :   ほかにも、聞いてもわからない方言はたくさんあるよね。
              沖縄でもともと使われていた言葉なんて、聞いても本当にわからないよ。
              でも、言葉が通じないと困るからね。だから、日本にも共通語というものがあ
              るんだよ。共通語は東京の、とくに山の手の言葉をもとにしたものだよ。
アリー塾長   :   ……、動物や植物の中に絶滅してしまうものがあるように、言葉も絶滅して
              しまうものがあるんだよ。世界中で、毎年いくつもの言葉が絶滅しているん
              だって。その言葉を話す人がいなくなってしまって、言葉も絶滅するんだよ。
              方言ってなくなってしまってもいいと思う?
Tくん       :   いけないと思う。
アリー塾長   :   どうして?
Tくん       :   そこに生まれた人はずっとその言葉を話してきたんだから、変えてしまうの
              はよくないと思う。
アリー塾長   :   そうだよねえ。言葉を変えるのは大変だよねえ。
              それに、その言葉でしか言いあらわせないことやものがあるからねえ。「つ
              んつるてん」なんて、本当によく感じのでている言葉だよ。(身振りをまじえ
              て、)「つんつるてん」!なんて、本当に「つんつるてん」!だよ!
アリー塾長   :   ……私たちは今、日本語を学ぶために、こういう勉強をしているね。私たち
              民族の言葉である日本語は大事だよね。でも、世界の人たちと話すために
              は世界の共通語とでもいうものを話せるようになっているといいよね。今、世
              界の共通語のようになっている言葉って何か知ってる?
Aくん       :   英語。
アリー塾長   :   そうだねえ。この間、総武線快速の中で中国の人に英語で新橋への行き方
              を聞かれたよ。中国の人と、日本人の私が英語で話したんだよ。世界の人と
              話をするために、英語も勉強しておいたほうがいいよね。


*アリー塾長の一言

 世界には絶滅してしまった言語がたくさんあります。今でも、言語の数自体は減り続けています。
それはどういうことを意味しているのでしょうか。

 対話の中のTくんの発言がおもしろいことを示唆しています。Tくんの学校の先生は、生徒に教えながら力が入ってくると、方言になるそうです。先生が夢中で教えているとき方言になるというのは、そこで、気取りのない、本当の先生が出てきたということなのではないでしょうか。

 方言は、その人が、生まれた土地で最初に身につけた言葉です。その人は、方言とともに育ってきたのです。方言とともに作られたのが、その人なのです。その人が本来の自分、素の自分を表現するには、方言こそがふさわしいのではないでしょうか。

 Tくんは、その人が生まれてからずっと使ってきた言葉なのだから、方言はなくならないほうがよいと言いました。方言を否定しないことは、それを使う人を尊重することにもつながるでしょう。

 言葉とは、常に意味内容という概念や観念をあらわすものです。ある一つの言葉を失うということは、その言葉の意味していた観念も失うということです。対話の中に出てきた「つんつるてん」という言葉がなくなってしまったら、「つんつるてん」という状況もなくなってしまうのです。

 多様な価値観や考え方を失わないために、言語の多様性を保つ必要があるのではないでしょうか。

 インターネットなどで世界の人たちとも簡単につながることのできる今日、一方では、世界中の人たちとコミュニケーションをとることのできる共通語を身につけることも必要でしょう。日本語と、日本語による考え方という個性を確立したうえで、英語などの世界の共通語を身につけて、世界に向かっておおいに発信したいものです。



              
      

2016年9月18日日曜日

学びと感情

 高校一年生のTくんが、「懐かしいという気持ちがわからない」と言いました。主人公が、何十年ぶりかで、故郷を訪ねたという文章を読んでいたときのことです。その主人公にとって故郷は、よいことも悪いこともあったところです。

 「主人公の気持ちは複雑だね。そこで起こったよくないことを思い出して嫌な気分になったり、反対に楽しかったことを思い出して懐かしくなったり…。Tくんは昔のことを思い出して、懐かしくなったりすることない?」と私は聞きました。

 すると、「…ありません。」とTくんは答えました。

 たしかに、高校一年生のTくんは、たかだか十数年生きてきたに過ぎません。多くのことを経験しているはずもなく、昔と言ってもせいぜいここ十年間くらいのことで、これと言った思い出がないと言われれば、そういうものかとも思います。Tくんの何倍も生きている私とはわけが違うのです。

 ですが、少し気になるのは、「子どものころ、こんな遊びをして楽しかったとか、どこかへ行って楽しかったとか、そんな思い出もないの?」と尋ねても、「特にありません。」とTくんが答えたことです。

 「懐かしい」を辞書で引くと、「昔のことが思い出されて、心がひかれる。」(大辞林)とあります。「懐かしい」とは、「心」が感じることなのです。心が感じる感情、「懐かしい」という心の動き、つまり「懐かしい」は感動の一つなのです。

 そういえば、Tくんは、日ごろ自分の感情をおもてに出すほうではありません。表情もあまり豊かとは言えず、今、Tくんがどういう気持ちなのかを推し量るのは簡単ではありません。笑った顔を見せたこともほとんどなく、もしかしたらTくんは、自分の感情を制御しながら、毎日を合理的に暮らしているのかしら?と思ってしまうことがあります。そんなTくんはまだ、楽しそうに文章を読んでくれたことがありません。

 実は私は、楽に学ぶためには、感情を味方につけるのが一番いいのではないかと思っています。なぜかと言うと、本来の学びには感情がともなうものだと考えているからです。

 「いったいこれはどういうことなんだ!」ととまどったときに、だれかからそのことについての説明を受けたり、自分で調べたりして納得し、「そうか、そうだったのか!」と軽く興奮したことはないでしょうか?その興奮が感動です。新しい知識をえて、心が動いたのです。普段あまり意識はしないかもしれませんが、学びにはたしかに感情がともなうのです。

 しかもその感情は、決してネガティブなものではありません。「知って、うれしい!」という喜びの感情です。うれしければ学びたいと思います。知ること、学ぶこと自体がおもしろくなります。そのような経験を積み重ねると、あらゆることへの興味がどんどんわいてきて、学ぶことが楽しくなるのです。

 勉強はやらなければならないもの、という意識でやっている子どもは多いと思います。入りたい学校に入るためには勉強しなければならない、本当はやりたくないけれど、しかたないからがんばっている、そんな子どもはたくさんいるでしょう。でも、そんな気持ちで学んで、「知って、うれしい」という感動はえられるのでしょうか?

 「今の時代、学校に入れなければ話にならない。」と言った人がいました。その言葉が本当かどうか私にはわかりません。けれども、そのような意識で勉強したとしたら、「知って、うれしい」という感動をえられるどころか、学びが苦痛になってしまわないでしょうか?

 学校に入るために勉強していて「うれしい」という気持ちになれるのは、成績が上がったときなどでしょう。ですが、そのような喜びは一時的なもので、すぐまた次の試験に備えなければなりません。次から次へと追われることになります。いつも試験に追われていては、気の休まるときがないのではないでしょうか?

 要は、学び自体を目的にすることではないかと思います。学校に入ることを目的とはしないで、学ぶこと自体を目的として、学ぶこと自体を楽しむとよいのではないでしょうか?学ぶこと自体を楽しんだ結果として、成績も上がる、それはあるでしょう。

 国語であれば、まず、文章を読むことを楽しむ、内容について考えることを楽しむ、そして、自分の意見をまとめ、それを書くことを楽しむ、それができたときに、学びにともなう感動がえられ、同時に実力がつくのです。教室でも、「文章を読むことが楽しい」と言えるようになった生徒はめざましい成果を出します。

 人間にとって感情は、非常に大切な要素です。Tくんのように、自分の感情をおさえつつ、大きな成果を出すことは実はとても難しいことなのです。それよりも、自分の感情に正直に向き合い、今自分がどんな気持ちなのかと常に自分自身に尋ねてあげるとよいでしょう。感情は、その人がおかれている状況や、その人にとって、まわりの人がどうであるかということなどを伝えてくれる重要な指標なのです。

 ことは塾にとって、勉強することは、入りたい学校に入る方法ではありません。学ぶことは、それ自体を楽しむものです。学ぶことは目的なのです。そして学ぶときには、気持ちを本来のあり方にリセットして、それぞれの課題と向き合わなくてはなりません。気持ちが本来のあり方をしているとき、学ぶことは苦痛ではなく、喜びになるはずだからです。

 ときどき、受験勉強が負担になって気持ちが不安定になってしまったというお子さんの話を聞きます。そのような話を聞くにつけても、人間にとって、感情というものが何よりも大事なものだという意識をあらたにします。苦痛があるということは、どこかに無理があるということです。そのようなときには、心の状態に注目し、なによりも、まず気持ちを整えるという作業と時間が必要でしょう。

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2016年6月19日日曜日

五感で学ぼう、そして言葉にしよう!

 今年も夏休みが近づいてきました。夏は太陽のエネルギーも最大になります。そのエネルギーを体いっぱいにうけて、こころも体も大きく成長したいものです。ことは塾では、今年も夏休みに、体験型の授業をおこないます。

 体験授業の一つは、和菓子屋さんでの和菓子作り体験です。和菓子、特にお茶席で出される和菓子には、日本人のもてなしの精神や美意識などが凝縮されています。和菓子は日本文化を学ぶための、恰好の素材の一つです。

 そんな和菓子はいったいどのように作られるのでしょう?和菓子を作ることには、どんな工夫や苦労があるのでしょう?

 もう一つの体験は、牧場体験です。私たちが日常的に食べている食品は、塩以外、すべて生きていたものか、生きている動物が産出したものです。私たちが飲んだり食べたりしている牛乳やバターやチーズも、生きている牛や山羊などが出したものをもらっているのです。
 
 牧場では、いつもただおいしく食べているアイスクリームやバターを自分たちで作ってみることもできます。牛や羊などの動物とふれあい、牛乳を材料とした食べ物を作ってみることで、食べ物をとおして見えてくる、動物と私たちとのつながりについて考える機会をえることができます。

 和菓子作りも牧場体験も、新鮮な発見をともなった、楽しい経験となることでしょう。

 ところで、楽しい体験は、体験しただけで終わらせてしまってよいものでしょうか?せっかくの経験を、確かな記憶としてとどめておくために、できることはないのでしょうか?

 ハンナ・アーレントはこんなふうに言っています。

 リアリティは、事実や出来事の総体ではなく、それ以上のものである。リアリティはいかにしても
 確定できるものではない。「存在するものを語る(レゲイン・タ・エオンタ)」人が語るのは、つねに
 物語である。そしてこの物語のうちで個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な
 何らかの意味を獲得する。*

 何かの経験を、自分が経験した確かな現実として受け容れ、意味のあるものとして記憶し、今後に生かしていくためには、その経験を物語にしなければなりません。物語るとは、すなわち言葉にすることです。経験を言葉にして語り、語ることによって、そこに意味を見出す、つまりそのようにしてそれを物語にすることによって、経験はリアリティを獲得するのです。

 物語となってリアリティを獲得した経験は、意味をもっているので、以後はそれぞれのこころの糧となって、長く生き続けることでしょう。

 さて、以上は経験を言葉にすることのちょっと難しい理論でした。ですが、方法はそんなに難しくはありません。要は、体験したことを言葉にして語ればよいのです。さらに、それを書けばよいのです。

 体験したことを文章にしてみると、頭の中が整理されて、いろいろなことがわかってきます。その体験が自分に教えてくれたこと、その体験の自分にとっての意味、そのほかさまざまなことがわかってきます。それらを書けばよいのです。そうすれば体験は、生きていくうえでも役に立つ、確かな経験として、記憶の中に定着します。

 和菓子はとても美しいです。和菓子は食べて舌で味わう前に、目でも楽しむことができます。反対に、牛や羊は臭いです。アイスクリームはとてもおいしいのに、生きものは臭うのです。体験をすると、このように五感を使うことになります。五感で学ぶことができるのです。

 五感で学んだあとは、それを言葉にしてみましょう。言葉にし、知的な反省をくわえることによって、体験は確かな経験として蓄積されていきます。

 ことは塾では、体験と、それを文章にしていくまでの講座をご用意しております。夏期特別講座へのご参加を、こころよりお待ちしております。

 * H・アーレント著、引田隆也・齋藤純一訳、『過去と未来の間』、みすず書房、
                                       1994年9月、357ページ。

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2015年12月31日木曜日

読むことと生きること

* 中学3年生のKくんが、 課題の文章の中に出てきた「イチゴの旬」がいつなのかわからないと言いました。

 Kくんは、すなおで真面目で明るいすばらしい中学生です。その年頃の中学生がしているような経験も十分にしていて、特別ものを知らないというタイプではまったくありません。

 Kくんは私に、「イチゴの旬って、冬ですか?」と聞きました。「ああ、イチゴと言えばケーキの飾りだからねえ。クリスマスのころにたくさん出回るよねえ。」と私は言いました。「でもね、今頃のイチゴは、ハウスの中で石油を燃やしてあったかく、あったかくして育てられるものなんだよ。」今は冬です。ですが、すでにイチゴは店頭にたくさん並んでいます。

 課題の文章には、今どきの子どもは、イチゴの旬がいつなのかがわからなくなっているから、『シンデレラ』のお話の中で、真冬にシンデレラに「外へ出ていって、イチゴを摘んでおいで。」と言う継母の意地悪の意味がわからないと書いてありました。

 「ぼくもわかりません。」とKくんは言いました。「そうねえ、しかたがないかもね。イチゴは一年中あるものね。Kくんのせいじゃあないよね。私の友達も昔、一月にイチゴを食べて、『今がイチゴの旬だよね。』と言っていたことがあるよ。」と私は答えました。

 私の友人の例でもわかるように、野菜や果物の旬を知らないのは、Kくんの世代以降ばかりではなく、すでに大人になって久しい人たちも同様なのです。たまたま私は地方に育って、自宅に畑があったから、祖母の植えたイチゴが春から初夏にかけて実ることを知っていたにすぎないのです。

 課題の文章は、「イチゴの旬」を知らないと、『シンデレラ』の継母の意地悪の意味を理解できないという例をあげて、人々の「伝え合い」が時や場所や状況を失ったものになりつつあると懸念しています。Kくんは、「イチゴの旬」もわからなければ、課題の文章の主張の意味もわからないと言っていました。この文章とKくんとの「伝え合い」は、「伝え合い」自体に失敗したのです。

 それでは、「伝え合い」が時や場所や状況を失うとはどういうことなのでしょうか。

 時や場所や状況を言い換えると、「今、ここに生きている」ということになるのではないでしょうか。現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きています。

 私たちは快適に生きるために、科学技術を駆使して、自然から身を守ったり、その一部を利用したり、改変したりして暮らしています。おかげで私たちの暮らしは豊かになり、今では一年中イチゴを食べることもできます。

 ですが、その結果、私たちは自然の本来の姿を見えにくくしてしまいました。イチゴは冬に実るものだと思い込むようになってしまったのです。

 現実の存在として、自然の一部として、私たちは生きていると言いましたが、「イチゴの旬」と同様に、私たちは自分自身の中の自然のこともわからなくなっているかもしれません。たとえば、私たちの体は自然そのものですが、体の声に耳を傾けず、ついつい無理をしてしまう人は多いのではないでしょうか。

 おそらく、それもこれも、私たちが「今、ここに生きている」という感覚をなくしつつあることから起こることなのではないかと思います。課題の文章が懸念するように、現代の情報のあらゆる文脈が時や場所や状況を失いつつあるというのは事実です。ですが、本来の自然の姿を知っていれば、また「今、こここに生きている」という自覚があれば、それらの情報の背後に、まさに生きた情報を
見出すことができるのではないでしょうか。

 「伝え合い」がやり取りするのは情報です。もともと情報は、私たちが生きるうえで必要だからやり取りされていたはずのものです。ですから課題の文章をはじめ、世に出回る多くの文章は、私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのかと問いかけています。私たちはどうしたらよく生きられるのかを考えたうえで、問題提起がなされたり、提案がなされたりしているのです。

 このように、文章を読むということは、生きること、しかもよりよく生きるというテーマと結びついています。文章を読むと、倫理的問題に踏み込まざるをえません。良い、悪いという価値判断を離れて、文章を読むことはできないのです。

 もちろん、文章を読むときは、筆者の意見を公平に客観的に読み取らなければなりません。ですが、論者の意見に賛成、または反対というのは、当然あってしかるべき反応なのです。

 いわゆる入学試験をはじめとする学校で課せられる文章の読み取りは、あくまでもニュートラルな立場で、文章の中で述べられていることを読み取ることが課題です。ですが、一方で私は、その文章に賛成したり反対したりしながら読んでもよいのではないかと思っています。課題の文章を、まず正確に読み取ったなら、その文章に対して批判的になってもよいのではないかと考えています。

 文章を批判的に読むことによって、よりよく生きるというテーマについての自分の考えがまとまっていきます。読んだ文章の意見を参照することによって、自分の意見が明確になります。どう考え、どう生きるのが自分にとってよいことなのか、読書をすればするほどよく見えてくるようになるのです。

 そのような読書は「おもしろい」ものとなります。すべての人にとって、自分がよりよく生きること、これ以上に興味深いテーマはありません。それは、大人だけではなく、子どもにとっても同じであると私は考えています。

 とかく勉強としての国語は、点さえ取れて、学校に入れさえすればよいということになりがちです。ですから、「とにかく、表面的にであっても、読み取れるテクニックを教えてください。」と言われることがあります。ですが、Kくんの例でもわかるように、現実に自分が生きていることと結びつけて考えないと、文章が何を言っているのかさっぱりわからないということになるのです。

 実は、文章を読むことを「おもしろい」と言えるようになった生徒は、国語の成績も上がりました。以前はどうしても国語の点数が伸びないと言っていた子どもたちです。私はそのような生徒たちには、技術的な読解の方法だけでなく、文章を読むことが生きることとつながるということを暗に教えたつもりです。

 結局は急がば回れなのではないでしょうか。深く本質的なことを知ったら、いろいろなことがわかるようになります。いろいろなことがわかったら、結果として成績も上がるのではないかということです。

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2015年11月14日土曜日

何のために勉強するの?

* 小学5年生のYくんが、「何のために勉強するのかがわからない」と言いました。

  
 Yくんは来年中学受験をすることになりました。それでも、「勉強する目的がわからない」と言います。「だって、試験に合格して、今の友達と別れてその学校に入ったら、いじめられちゃうかもしれないじゃない?」とYくんは言います。

 中学合格の先にまず、「いじめ被害」というネガティブな未来を想像するYくんは少し心配性です。でも、確かに言われてみれば、たとえ試験に合格して志望校に入れたとしても、その先の輝かしい未来までもが確約されているというわけではありません。

 そう言えば、せっかく第一志望の難関校に合格したのに、受験勉強で燃え尽きてしまって、入学してから勉強についていけなくなったという人の話を聞いたことがあります。それから、これは大人の話ですが、いわゆる超難関校を卒業して社会的に尊敬される職業についている人たちでも、必ずしも幸せそうにくらしてはいないという例がたくさんあります。

 Yくんの言うように、勉強して「いい学校」に入ったとしても、幸せになれるという保証はないのです。ですが、だからと言って、勉強はしなくてもよいのでしょうか。

 「勉強には二種類あるって考えればいいんじゃないかな?」とっさのことで、私はこのように答えるのがせいいっぱいでした。「試験に合格するための勉強と、生きるための勉強。受験のための勉強と、自分の人生をよりよく生きるための勉強、幸せになるための勉強だよ。」

 「まず、勉強はしたほうがいいと思うよ。だって、ものを知らないと、人を傷つけてしまうことがあるからね。知識がないと、やってはいけないことをやってしまうことがあるんだよ。」私は以前にも書いた、ゴリラの悲劇を思い出していました。ゴリラは凶暴な生きものだという誤った考えが、ゴリラを絶滅の危機に陥らせたという「無知の罪」の話です。

 「普通の塾でやっているのは試験に合格するための勉強だよね。でも、私はここでは、みんなと、よりよく生きるための勉強もしたいと思ってるよ。みんなで幸せに生きるためには、まずたくさんのことを知らないといけない。それから、どうしたら幸せな生き方ができるかと考えないといけない。それの全部が勉強なんだよ。」

 私の話にYくんが納得してくれたかどうかはわかりません。ですが、その日の授業には以前よりも真剣に取り組もうとしてくれていたように感じました。

 さて、あらためて「何のために勉強するのか?」と質問されたら、私はもう一つの答えを提示したいと思います。Yくんに質問されたときにも少し触れたのですが、深く掘り下げて考える余裕はありませんでした。ですが、もう一度考えてみると、この答えがもっともふさわしいように思えます。その答えとは、「おもしろいから」です。

 ありがたいことに、私のところで勉強している生徒たちは、授業の後、「楽しかった!」と言ってくれているようです。時々お母さま方からそのようなご報告をいただきます。私自身は正直に言うと、小中学生だったころ、塾に行っても習い事をしても、楽しかったと思った記憶がないので、どうして生徒たちが「楽しかった!」と言ってくれるのか不思議でした。

 ですが、わかりました。気づきました。どうしてみんなが私と勉強して、「楽しい!」と思ってくれるのか。それは、私自身が、「勉強は楽しい!」と思っているからです。

 私は文章を読むのが好きです。本を読むのが大好きです。おもしろそうな本を手にしたとき、どんなことが書いてあるかとワクワクします。読んでみて、「我が意を得たり!」ということが書かれていると、本当にうれしくなります。本を読んで、内容を理解して、「ああ、そうだったのか!」と思うことも幸せです。書かれていることについて、応用して自分なりに考えてみるのもとても楽しいです。

 私は生徒たちと一緒に勉強して、自分も楽しんでいるということに気がつきました。一緒に文章を読んで、「おもしろいなあ!」と心から思っていることに気がつきました。それぞれのテーマに対して子どもたちはさまざまな反応をしてくれます。その答えがまた感動的で、ますます私は授業が楽しくなります。

 大人がおもしろそうにしていることには子どもも興味をもってくれます。大人が楽しそうにしていることは、子どももやってみたくなります。子どもに何かをしてほしければ、まず大人がそれを楽しそうにやって見せることではないでしょうか。そして一緒にやってみたら、やっぱり「楽しい!」ということになるのです。これは勉強だけにかぎったことではありません。

 Yくんに勉強する理由を尋ねられて、私は二つ目の理由として、「よりよく生きるため、幸せに生きるため」、と答えました。「幸せに生きる」とは、憂いなく、毎日楽しく生きるということですが、これもまた、大人が手本を示すとよいのかもしれません。大人がまず、毎日を心から幸せに楽しく生きていれば、子どももそれを見て、そこから学んで、幸せな一生を送ることができるようになるのではないでしょうか。

 エーリッヒ・フロムは、「母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない」*と言っています。幸福な母親は人生を愛しています。人生を愛する幸福な親を見て、子どもは生きることを肯定し、自分を信じ、他人を信じることのできる幸福な人になることができるのです。

 私は教育者も「幸福な人間」でなければならないのではないかと思っています。「幸福な人間」は、人生や世界や、あらゆるものを愛し、肯定しています。否定からは何も生まれないことを知っているのです。幸福な教育者なら、「何のために勉強するの?」と聞かれて、「おもしろいからだよ。」と答えるのではないでしょうか。

 「何のために勉強するの?」という疑問は、いずれ「何のために生きるの?」という疑問につながるかもしれません。「何のために生きるの?」と質問されたら、「おもしろいからだよ。」と答えたいものです。

 私は言葉を愛しています。読むこと、話すこと、そして書くこと、すべて好きです。言葉とともにある私の幸福が、生徒たちの「楽しい!」につながっているのだとしたら、それこそ、これほど幸福なことはほかにありません。

* エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』、紀伊国屋書店、1991年3月。

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2015年9月18日金曜日

悪とは無知のこと

*先日一人の生徒が、作文で、とても深遠な問題提起をしてくれました。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスです。ソクラテスの倫理を継承する、まさに哲学的なテーマの作文でした。

 次にあげるのは、生徒の作文の全文です(改行など、一部変更あり)。


 「ゴリラの正確な研究結果を広める」

 私は、ゴリラのことについて正確なことをみなさんに知ってほしいと思いました。いまから、なぜゴリラの研究結果が正確に広まったほうがいいのかを説明したいと思います。
 
 ゴリラは、ドラミングという動作をします。以前までは戦いを宣言し、相手をおどす動作とされていたそうです。そのことから、人々はゴリラをおそれるようになりました。凶暴だというゴリラのイメージを元にして、ゴリラを巨大にしたような怪じゅうの「キングコング」という映画まで、つくられたそうです。その映画のえいきょうで、人々は、ゴリラとは凶暴な生きものだと信じてしまったのです。

 おかげで多くのゴリラが殺されました。私はイメージだけで大切な命を殺すのは、絶対にやってはいけないと思います。なぜなら、正確に調べてたくさんの人と相談してから行ったことではないからです。

 みんなでゴリラについて一生けん命調べたら、殺すなんていう選択しはでなかったかもしれません。なので、ゴリラのことについて、正確に知ってほしいと思いました。

 私はゴリラについて正確な研究結果が広まればいいと思いました。そして、ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといいと思いました。


* アリー塾長の一言

 とてもよく書けた作文だと思いました。何よりも、文章を貫く論理構成がしっかりしていて、流れがスムースです。自分の意見を述べるために、理由としてさまざまな事実をあげ、「だから、私はこう思う」ときちんと書けています。

 また、ゴリラが「キングコング」の「イメージ」をもたれて殺されたという事実をとらえ、「イメージ」と「正確な研究」という対立する構図を打ち出し、「正確な研究」の必要性を主張しているところもすばらしいです。

 さらに、「ゴリラの長所、気をつけたほうが良いところを、バランスよく頭の中で整理するといい」という意見は、客観的に課題に向き合い、公平かつ冷静に妥協点を見つけていくことの大切さを提案していて、とても理性的です。

 そして中でも一番感銘を受けたのは、この生徒が正確な知識をもつこと、つまり、学ぶこと、研究することの大切さをうったえていることです。悪とは無知であること、と言ったのはソクラテスですが、今回学んだゴリラの話は、まさにそのとおりのケースです。この生徒はそのことに気づいたのです。

 ところで、知識は大切だと言っても、やみくもにたくさんのことを知っていればいいというわけではありません。ましてや、単にたくさんの知識を頭に詰め込んで、試験のときに一気に吐き出せればいいというものでもありません。知識は考えるために必要なのです。考えて、よりよい行動をとるために必要なのです。だから、そのときの知識は正確なものでなければならないのです。

 ゴリラについて学んで、正確な知識をもっていたら、人間はゴリラを殺す必要などありませんでした。学ぶことを怠ったうえ、よく考えもしなかったから、人間はゴリラを殺すという最悪な行為をしてしまったのです。
 
 以前、「教養と寛容」というタイトルで、なぜ学ぶことが大切なのかということについて書いたことがあります。教養があれば、さまざまな立場の人のことを理解することができます。多くの知識があれば、一方的に誰かを攻撃するなどということはできなくなるはずなのです。

 「悪」と言えば、一般的には人を殺したり、物を盗んだりといったことを思い浮かべます。ですが、ソクラテスならこう言うかもしれません。「そのようなことをする人は、何かを知らないからそうするのだ。」と。問題を根本から解決する方法を知っていたら、悪いことをする必要はありません。悪いことをする人は、知るべきことを知らないからそんなことをするのです。

 ゴリラについての正確な知識があったら、人間がゴリラを殺さずにすんだのと同様に、真実を知っていたら、人間同士も争ったり戦ったりする必要はないのではないでしょうか。

 もちろん、すべてを簡単に知ることはできません。長い長い時間をかけて、深い森を踏みわけ踏みわけして前に進んでいくように、少しずつ、少しずつ、本当のことに近づいていくのです。誰が見ても知者であったソクラテスにして、「私は自分が何も知らないということを知っている(無知の知)。」と言っていたのですから。

 哲学(philosophy)の語源はギリシャ語で、知(sophy)を愛すること(philos)を意味します。知を愛し、知識を得るのは、よく考えて、よりよい行動をとるためです。つまり、よりよく生きるために、知識が必要なのです。学ぶことは、実はきわめて哲学的で、倫理的にも価値のあることなのです。

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2015年8月13日木曜日

ブーイングされても平気?

* 作文の書き方を学ぶために、同世代の子どもが新聞に投稿したじょうずな文章を読んでみました。



* その中の一つに、Jリーグのサッカーの試合で、試合の内容が気に入らないと、観客が選手にブーイングをするということについて書いてあるものがありました。投稿者は、選手たちは懸命にプレーしているのだから、ブーイングをすることには反対だと言っています。その投稿をめぐって、こんなやり取りがありました。


アリー塾長   :  私もブーイングはしないほうがいいと思うなあ。自分が選手で、ブーイング
             されたら、やる気なくすもん。

Yくん       :  別にブーイングはしてもいいよ。

Kくん       :  ブーイングはしてもいいと思います。へたなプレーしたやつが悪い!

Yくん       :  そうそう、うまくやらないやつが悪い!

アリー塾長   :  ええーっ!?ほんとー?

Kくん       :  ほんと、ほんと、別にブーイングはしてもいいです。

アリー塾長   :  ええーっ?だって、もし自分が選手だったらどうよ?ブーイングされたら嫌な
             気持ちにならない?

Yくん       :  ならない、ならない。平気、平気。

アリー塾長   :  ウソー!嫌な気持ちになるよ。一所懸命にやってるのにブーイングなんかさ
             れたら、やる気なくなっちゃうよ。ブーイングされてやる気が出る?

Yくん       :  出る、出る。ブーイングされたら、今度はブーイングされないようにやってや
             るって思って必死にやる。だからブーイングはしてもいい!!

アリー塾長   :  そうかなあ?

Yくん       :  そうだよー。

アリー塾長   :  私はそんなことできないなあ。ブーイングされたらガクッてなっちゃう。

Yくん       :  ぼくはならない。ブーイングされても平気。ブーイングされたら、なにくそって
             がんばれる。


* アリー塾長の一言


 Yくんは、もし自分がサッカーの選手で、自分のプレーに対して観客からブーイングをされたとしても平気だと言いました。ブーイングされたら、今度はブーイングされないぞ、と次には頑張ることができるので、ブーイングされるのはかえっていいことだとまで言いました。

 Kくんも、ブーイングすることに反対ではないようです。みんなは選手に対して厳しいです。そのうえ自分に対しても厳しくて、ブーイングされたら、奮起すればよいと言います。みんなブーイングされても平気だと言います。本当でしょうか?

 YくんやKくんが、ブーイングされても平気だと言うのは本心ではないと私は思います。でも、そう言わなければやっていられない事情があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たち大人の責任なのではないかとも思うのです。

 残念ながら、意外なことに、いつの時代でも子どもは強いプレッシャーにさらされています。大人が子どもに常に、「ああでなければいけない」、「こうでなければいけない」、と言い続けるからです。大人はもちろん、子どもの将来のことを思ってそう言うのです。ですが、「~でなければいけない」、「~しなければいけない」と言われ続けることほど、子どもの気力を奪うものはないのです。

 フィギュアスケーターの伊藤みどりさんが言っていました。みどりさんがスランプに陥って、試合で結果を出すことができなくなっていた時には、「やらなきゃいけない」と思えば思うほど、トリプルアクセルが跳べなくなったそうです。

 みどりさんはアルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得しました。現在のショートプログラムにあたる演技で、4位だったところから挽回しての結果でした。フリープログラムではトリプルアクセルに成功し、追い上げることができたのです。

 その時みどりさんは、「どうしてもオリンピックでトリプルアクセルを跳びたい!」と思っていたそうです。「跳ばなきゃ」ではなく、「跳びたい!」と強く思ったそうです。そしてその結果、トリプルアクセルを跳ぶことができ、銀メダルに輝いたのです。

 このエピソードは多くのことを示唆しています。子どもも、「やらなきゃ!」と言われたとたんに、本来できることもできなくなってしまうのではないでしょうか。人間は強制されてやるときにはよい結果を残すことができず、自分からやりたいと思ってやるときにはよい結果をだすことができるということです。

 さて、それでは、たとえば子どもたちに「勉強したい!」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょう。「やらなきゃだめ!」と言うのはどうやら逆効果です。それから、「どうしてできないの!?」というような、ブーイングタイプの叱咤激励も子どもを委縮させます。そう言えば、「さて勉強しようかな。」と思っていると、お母さんに「宿題したの!?」と言われ、ガックリすると言っていた生徒もいました。

 本当に本当に難しい問題です。よい答えがあったら知りたいです。強制にしても、ダメ出しにしても効果は低い。それなら、いっそ、その反対のことをしてみてはどうでしょう?

 たとえば、その子のよいところをみつけて、ひたすらほめ続けてみるというのはどうでしょう?ひたすらひたすらその子を肯定する。ありのままのその子を受け容れる。それしかないように思います。強制は相手を支配することですし、ブーイングは相手や相手の行動を否定する行為です。支配や否定からよいものは何も生まれてきません。
 
 大人がついつい子どもにダメ出しをしてしまうのは、決して子どもをダメにしようと思ってしているのではありません。それどころか、子どもの将来を考えて、よい人生を歩んでほしいと思うからダメ出しをしてしまうのです。そう思うと切なくなります。

 大人が子どもにダメ出しをしてしまうのは、不安からなのではないでしょうか。あれもこれもできないとやっていけない、と思うからではないでしょうか。だったらその不安は必要ありません。なぜなら、どんな子どもも、それぞれすばらしい可能性と力を持って生まれてきているからです。

 多くの子どもと接していて感じるのは、それぞれの子どもがいろいろな才能を持って生まれてきているなあということです。みんな、本当にすばらしい!みんながみんな同じことができなくてもよいのです。それぞれがそれぞれの才能を伸ばすことができたなら、子どもたちの将来は明るいと私は思うのです。

 もちろんその才能をみつけるのは簡単なことではありません。ですが、一人一人の子どもとじっくり向き合ってみると、見えてくるものが必ずあります。その子自身を引き出す、それができたら、教育は実りあるものになるのではないかと私は信じています。

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2015年8月8日土曜日

夏休み・和菓子作り体験

* 夏休みに和菓子作りの体験をしました。



            

        寒天と砂糖を鍋に入れています。



                
        緑色に着色したようかんを細く小さく切って、「金魚鉢」に入れる水草に見立てます。


       

         赤いようかんを抜型で抜いて、金魚を作ります。





         石に見立てたあずきを入れたり、ようかんの水草や金魚を入れるたびに少し寒天
        液を入れて固めるという作業をくりかえします。




        
         涼しげな 「金魚鉢」の完成です!

        


         あんこの重さをを正確に計って、「朝顔」や「ひまわり」の中身にします。



      

         「朝顔」と「ひまわり」です。よく見ると、それぞれ形が違います!


* アリー塾長の一言

 夏休みにしかできない体験型の学習をしました。今年は和菓子屋さんで、和菓子作りの体験をさせてもらいました。

 実際に和菓子を作ってみて、たくさんの気づきがありました。Kちゃんは、あんこは嫌いだったはずなのに、自分で作ったあんこのお菓子はおいしいと感じ、とても不思議に思いました。Mくんは、和菓子作りにはたくさんの工夫がされていることに気づき、そのことを作文に書きました。

 Yくんの作文には、「面倒臭かった」という言葉が何度も出てきます。そして、面倒臭いということは、それだけ和菓子を作るのが大変なことなんだと気づいて、作文に、「和菓子を作る人たちは大きな努力で大変なことをやっている」と書きました。

 実際に見たり聞いたり、何かを作ったりするような一次的・直接的な経験は五感を使うので、強く印象に残ります。そのような経験は、あとでいろいろなことについて考える際にも、大いに参考になる貴重な財産となるのです。

 ことは塾では、そのような体験をしっかりと自分のものにするため、言葉にして語り合い、最後に作文にします。経験は言葉にすることによって、いつでも取り出せる知識として、心の中に保存できるのです。

 文章を読むのは二次的・間接的な経験です。今回のような一次的・直接的な経験は、そのような二次的な経験を有意義なものにするためにも役立ちます。文章を読む際には、自分が実際に経験したことを参考にして読むとよくわかるからです。

 今回、何組もの生徒たちを快く受け入れ、和菓子の作り方を丁寧におしえてくださった、あかね家さん(習志野市谷津)に心から感謝いたします。

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2015年7月29日水曜日

感想文・『ぼくとテスの秘密の七日間』

* またまた読書感想文の季節がやってきました。今年は、『ぼくとテスの秘密の七日間』(アンナ・ウォルツ著、野坂悦子訳、フレーベル館、2014年9月)を読んでみました。

 サミュエルやテスの住むオランダという国は、同性婚はもちろん、必要な条件さえ満たせば安楽死すら合法的に認められている国です。日本などと比べると、より多様な生き方が法律によって保障されている国だと言ってもよいでしょう。
 
 ですが、法律が認めるのと自分が認めるのとではまた意味が違います。シングルマザーの娘であるテスは、法律によってその存在や権利を保障されてはいますが、テス自身が自分で自分の存在を受け容れるというのはまた別な話なのです。
 
 テスは生まれてから一度も会ったことのないパパに会うために策略を練ります。たまたまテスの住むテッセル島にバカンスに来ていたサミュエルは、出会って間もないテスの計画を手伝うことになります。何しろ、その計画にはテスの「人生が、かかって」いたのです。

 テスはサミュエルに言います。
「両親がいうことをサミュエルはぜんぶ信じる?」
「あのね、あたしはママがいってることを、本気で信じてたの。あたしたちは、パパなんかいないほうがうまくやっていけるって。でもね、ある朝、なんとなく疑うようになったんだ。かりに、ママがまちがってたとしたら?ひょっとしたら、あたしはパパと知り合いになりたいのかもしれない。」

 テスは少しずつ大人になっていきます。その途中で、いろいろなことに疑問をもち始めます。パパに対するママの考えは、中でも大問題です。テスはママと自分の考えが違ってきたことに気が付きます。「ママがまちがって」るかもしれないのです。テスは自分で自分の答えを探さなければなりません。

 サミュエルも考える子どもです。兄のヨーレに「教授」と呼ばれています。サミュエルもテスの問題をとおして、一緒にいろいろなことを考えます。死について、孤独について、そして家族について、考えて、二人でさまざまな真実を発見していくのです。

 テスは「たぶん、パパがほしい」。だから、パパが「十一歳になった娘を、ほしいかどうか」がわからないといけない。サミュエルとテスは、パパには本当のことを言わずに、パパとそのガールフレンドと一緒に島の休日を過ごします。テスは、「じぶんのことを、パパに伝えるかどうか」、「じぶん自身で決めたかった」のです。

 残念なことに、テスの期待は裏切られます。テスとサミュエルと、パパとそのガールフレンドの四人で楽しく凧あげをしていたとき、海岸をうるさく駆け回る幼い子どもたちを見て、パパが、「ぼくたちには子どもがいなくて、よかったよ」と言うのです。テスは自分のことをパパには打ち明けないと決心します。

 一方、サミュエルは、こう考えていました。
 「でも、これはたまたま、ぼくの人生なんだ。テスと同じように、じぶんの人生でなにをするかは、ぼくがじぶんで決めるんだ。」
そうして、島から帰ろうとするテスのパパを引き留め、テスには内緒で、テスのことを話します。

  「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決める」がいくつもぶつかって、テスはパパを手に入れることができました。テスのママは、テスたち母子にパパはいらない、と決めた。パパは、ガールフレンドと、子どものいない気ままな生活をすることに決めていた。テスはそんなパパを見て、自分のことを打ち明けないと決めた。

 そしてサミュエルは、テスのことをテスのパパに伝えることを決めた。なぜなら、テスがパパと一緒にいて、幸せそうにしていた様子を見ていたから。

 みんな「じぶんの人生でなにをするかは」「じぶんで決め」なければなりません。ですが、みんなが「じぶんで決め」ると、「なにをするか」の「なに」が、ときにはほかの人の「なに」のじゃまをしてしまうことがあります。サミュエルは「なにをするか」を「じぶんで決め」、テスが決めた、パパには打ち明けないということのじゃまをしてしまいました。

 けれども、そのおかげで、テスにはパパができました。パパはテスの存在を受け容れてくれました。テスは、ママにもパパにも受け容れてもらって、自分の存在を丸ごと認めることができたのではないでしょうか。

 「じぶんで決め」たことがほかの人の決めたこととぶつかるのもよいことです。その結果、みんなにとって一番すばらしい結論が出て、みんなが幸せな未来を思い描けるようになりました。

 自分の親がどういう人かを知りたいのは、自分がどういう人間なのかを知りたいということです。自分で自分のことを知って、自分で自分の存在を受け容れて、自分自身になる。どうして自分自身にならなければいけないかと言うと、サミュエルの言うように、人生は自分で何をするかを決めなければならないものだからです。

 サミュエルは成熟した子どもです。自分の存在を軸に、いろいろな人に出会って、さまざまなことを経験し、多くのことを考えて、発見し、成長していきます。サミュエルは、そしてテスも、自分で自分の人生を切り開き、自分なりの幸福な日々を、これからも過ごしていくことでしょう。

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2015年5月11日月曜日

思い込みをはずす

 思い込みという言葉がいい意味でつかわれることはありません。文章を読むときも、思い込みをもって読んでしまうと、見当違いの読み方をすることになってしまいます。

 中学三年生のRくんと国語の問題を解いているときでした。それは本文のある箇所の意味を説明しなさい、という問題でした。Rくんの解答には、「邪魔なもの」という言葉がつかわれていました。

 「うーん、ここで「邪魔」という言葉をつかうのはどうかなあ?筆者はここで否定するようなことを言っているんじゃないよね?肯定してるよね?それはいいことだと思ってるんだよね?それなのに、「邪魔」という言葉をつかってしまうと、合わないよね?」私はRくんに言いました。

 「もういちど書き直しみよう!」私の言葉にRくんはうなずいて、もういちど書き直してくれました。

 ところが、書き直した解答を読んでみると、今度は「いらないもの」という言葉が入っていました。「
邪魔なもの」と「いらないもの」はほとんど同じ意味の言葉です。Rくんの解答の内容は書き直してもあんまり変わらなかったのです。

 「これはもしかしたら、Rくんの価値観が入ってしまっているのかもしれないね。「邪魔なもの」という言葉も「いらないもの」という言葉も、たしかに本文には出てくるけど、Rくんの価値観がそればっかりを拾ってきてしまっているのかもしれないね。Rくんの「それは邪魔なもの、いらないもの」っていう思い込みが反映しちゃってるのかもしれないよ。」私の指摘に、Rくんは少しとまどったようでした。

 このようなことはときどきあります。以前も別の生徒が、どうしても最初に考えた解答から離れることができずに、何度説明しても内容を正しく理解できなかったことがあります。いちど「そうだ!」と思い込んだら、それを捨てることができなくなってしまうのです。文章を読むとき、国語の問題に解答するとき、思い込みははずさなければなりません。

 もっともそうは言うものの、その気持ちはわからないでもありません。実は私も、思い込みがはずせなくて、悪戦苦闘したことがあるのです。今でもその思い込みを完全にはずせたとは言えないかもしれません。

 あるとき私はなぜか歌が歌いたくなって、ボーカルレッスンに通うことにしました。歌を正式に習うのは初めてだし、もともと歌うことが得意だったわけでもありません。でも、気持ちよく声を出すことができたらどんなに楽しいだろうと思って、一念発起したのです。

 ですが、実際に歌ってみると、声が出ない!!こわれちゃったクラリネットではありませんが、ラより上の音がどうしても出ない!声を出そうと思えば思うほど、のどが絞まって、絞め殺されそうになっているにわとりのかすれた悲鳴みたいになってしまうのです。

 「先生、どうしたら声が出ますか?」私は歌の先生にすがるような思いで聞きました。「声は出ます。」「…?私の場合、全然出ませんけど?」「それは思い込みです。」先生はあっさりおっしゃいました。「声は出ないと思い込んでるから出ないんです。もっとも大人の場合、その思い込みをはずすのが一番むずかしいんですけどね。」

 思い込みをはずす。これは本当にむずかしいことです。私はその後、10か月くらいボーカルレッスンに通いましたが、ついに声は出ませんでした。

 声の例でもわかるように、思い込みはあらゆる可能性を閉ざしてしまいます。本を読むときには読みの可能性を狭めてしまうばかりか、まちがった読みをしてしまうこともあります。むずかしいことではありますが、思い込みからは自由にならなければなりません。

 ボーカルレッスンを受けてから2年以上がたちます。歌うことをあきらめたわけではないので、ときどき私は一人で歌ってみます。声は、まったく出ないということもなくなりました。気分がいいとき、心の底から「出る」と思っているときに、声は出ます。反対に、「出ないんじゃないかな?」と、ちょっとでも疑ったりすると、とたんに出なくなります。本当に不思議なものです。

 思い込みは言葉とともにあります。私の場合、「声は出ない」でした。声を出したいと思ったら、その言葉を、「声は出る」に変えてあげればよいのではないでしょうか。そしてその言葉を心底信じる。それができたときに、声は出るのです。

 本当はできるのに、できないと思い込んでいることはまだまだたくさんありそうです。どんどん思い込みをはずして、いろいろなことにチャレンジしていきたいものです。
 

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2015年4月18日土曜日

自由な裁量

* 各学校の国語の入試問題には、実は興味深い、よい文章がたくさん取り上げられています。生徒と一緒に問題演習をやっていると、課題の文章のおもしろさに、おもわず興奮してしまうことがあります。

 中学三年生のMくんと取り組んでいたのは、鷲田清一先生の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書、1998年10月)から抜き出された文章です。私が心躍らせたのは、次の部分です。

 わたしたちと世界とのあいだには、いつもすでに一定の解釈の網の目が張りめぐらされているの         
 であって、世界のそうした<解釈>(=形態化)の作業は、あらかじめ設置されている解釈装置--
 --これは言ってみれば、世界をそこに映し出すスクリーン、あるいはそれを通して世界を見る眼鏡
 のようなものである----にじぶんをならしていくというかたちで営まれる。
 (中略)
  ひとはよく、宇宙、あるいは自然という物体的世界こそ、文化の差異を超えて普遍的・客観的に
 存在するものだと言う。しかし、宇宙や自然もまたそのようなものとして、わたしたちの文化のな
 かでとらえられてきたものだということを忘れてはならない。その意味でいうと、文化の差異は、現
 にある世界の解釈上の差異ではなく、世界そのものの構造の差異だと言える。

 「これはすごい!これってすばらしいよ!ということは、人間は自由に世界をつくることができるってことだよ!」私はMくんに言いました。Mくんはちょっととまどったようです。

 「そういう意味では、この世に本来の意味での普遍的なものも客観的なものもないよ。人間の存在とはまったく関係なくあるものがすでに存在するとしても、人間が興味をもって、そのものを意識しなければそれは存在しないということになる。人間が意識するから、それは存在するってことになるんだからね。」

 「たとえば時間。時間は人間がその存在を意識しているからそれはあるということになっている。動物にとって時間はたぶんないよね。」

 「動物は自分が年をとって、やがて死んでいくなんて思ってないよね。そうすると、時間の観念なんて必要なくなるよね。だから、動物にとって時間は存在しないんだよ。」

 「言ってることわかる?」Mくんはうなずきます。

 人間はあらゆる存在を解釈することで、世界をつくっていくことができます。人間にはそれだけの裁量があたえられているのです。そのような意味では、人間は本当に自由なのです。

 もちろん、鷲田先生の言うように、「解釈の網の目」はそれぞれの文化によってすでに張りめぐらされているものです。それらの既存の「解釈装置」に逆らって、新しい解釈を提唱するのは簡単なことではありません。既存の「解釈装置」にからめとられて、自由どころか不自由な思いをしているのが多くの人の現状でしょう。

 しかし、それぞれの文化が守ってきたそれぞれの「解釈装置」も、その時々の必要に応じて、その都度自由につくられてきたものに相違ありません。それをつくりかえることはできないことではないはずなのです。

 世界を解釈することが世界をつくることです。よい解釈をして、よい世界をつくりたいものです。

 考えるきっかけをあたえてくれる、このようなよい文章に出合うと、私は本当にうれしくなります。そして、「文章を読むのって、ホント、おもしろいよねー。」などと、往年の名映画解説者のように、しみじみと言ってしまいます。

 「Mくん、文章読むのって、ホントウに、おもしろいと思わない?」私の少々強引な問いかけに、「
おもしろいと思います!」とMくんはすなおに答えてくれました。

 Mくんは国語が苦手だということですが、「おもしろい」と言えるようになったらこっちのものです。いずれ勝利の日が来ます。おもしろかったらやめられません。

 最近Mくんは小説を読み始めました。先日は太宰治の『津軽』を読み終えました。今、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいます。

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2015年4月4日土曜日

体験型授業「和菓子の試食」

説明を追加

 上は、「春の水」という銘のお菓子です。
   

  右、お抹茶も飲んでみました。




 * 和菓子の試食の体験型授業をおこないました。

  








 以下は、参加した生徒の作文です。

  「和菓子について」

 和菓子のことを勉強して、和菓子を3回楽しむことや、季節ごとにちがう和菓子があることを知りました。

 わたしは、和菓子を食べる前に、目で楽しんだり、耳で楽しんだりしてから口で楽しむ事を知って、今まで目や耳で楽しんでなかったから、目で、何に見えるか、耳でその和菓子の名前を聞いてイメージしてから口でゆっくり味わおうと思いました。 

あと、季節ごとでちがう和菓子があったり、一月から十二月まででいろいろな和菓子があってすごいと思いました。

その中でいちばんきれいだと思った和菓子は、夏の氷みたいに見える和菓子です。理由は、とう明でとてもきれいだったり、その中に入っているお菓子の色あいがよかったりするところです。

秋のもみじに見える和菓子や、冬のゆきだるまみたいな形をしている和菓子や春のさくらの形でうすいピンク色になっているのもとてもきれいだと思いました。

ほかにも、食べた、こちょうというちょうに見える和菓子もきれいでした。あと、和菓子のことのテレビを見て、その和菓子を作っている人は、こまかい所もきれいにやっていてすごいと思いました。

氷に見える和菓子は、昔、夏に氷がなかったときにその和菓子を作って食べていたことを知って、和菓子はそんなふうにも食べたり、楽しめたりしてすごいと思いました。

わたしは、氷もいいと思ったけれど、和菓子で作った、氷みたいなお菓子も食べてみたいと思いました。

 和菓子に、いろいろな楽しみ方があって、今度食べるときは目、耳、口で楽しみたいと思いました。それで、いろいろイメージしてみたいと思いました。和菓子に、日本の文化がたくさんあってすごいと思いました。

* アリー塾長の一言

 授業の中では、和菓子の中でももっとも洗練されている、上生菓子(お茶の席でつかわれます)を試食してみました。また、今回選んだのは、京菓子です。

 京菓子を特に選んだのは、そこには日本の伝統と、日本人の美意識がふんだんにもりこまれているからです。京菓子は手のひらにのるほど小さいけれど、そこには日本の文化がぎゅっとつめこまれているのです。

 京菓子は季節をうつしています。たとえば、春には桜の花を、夏には涼しげな水を、秋には色づいたもみじを、冬には雪をかぶった松をかたどります。日本人は昔から、季節を敏感に感じて楽しんできたのです。

 上にあげた作文は、ところどころに幼い表現がありますし、重複したり、反対に言い足りなかったりするところもあって、まだまだ文章としては完成していません。

 ですが、京菓子についての知識を得、実際に試食をしてみたときの感動がすなおに表現されていて、読んでいるこちらも感動するようなすばらしい作文となりました。

 ほかにも、序論・本論・結論の三段構成で書かれているところや、結論のところで最後に、「文化」という難解で抽象的な言葉をつかってまとめているところなど、これまでに学んできた成果が随所にあらわれていいます。

 ○○ちゃん、とてもよい作文が書けたね!和菓子は日本のすばらしい文化の一つです。世界に誇りましょうね。

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2015年3月21日土曜日

「価値」について考える

*その島に暮らす人たちは、週に一回、別の島で開かれる「交換の市」に行って、海でとっ   た魚や貝を必要なものと交換します。

Yくん      :    バケツ5分の2くらいの魚を、マンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナのふ
              さ4つと交換するって、なんか変じゃない?

アリー塾長  :    ん?どういうこと?もしかして、魚バケツ5分の2って、少ないってこと?

Yくん     :     うん。バケツ5分の2って、ちょっとしかない。それなのに、マンゴー9個
              とトウモロコシ10本とバナナのふさ4つって多いと思う。

アリー塾長  :    いいところに気が付いたねえ。確かにそうだねえ。じゃあ、なんでだと思う?

Yくん     :     うーん?

アリー塾長  :    価値の問題じゃないかな?

Yくん     :     価値?

アリー塾長  :    そう、価値。バケツ5分の2の魚をマンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナ
              のふさ4つと交換した人にとっては、魚が貴重で価値があったんだよ。
              だからたくさんの品物と交換したんだよ。価値のある貴重なものは高いじゃ                                        
              ない?宝石なんてあんなに小さいのにものすごく高いでしょ?

Kくん     :     ぼくはマンゴーもトウモロコシもバナナもいらない。だって好きじゃないもん。
              ぼくだったら魚をマンゴーやトウモロコシやバナナとは交換しない。

アリー塾長  :    Kくんにとって、マンゴーやトウモロコシやバナナは価値がないんだね?
 
Kくん     :     うん。ぼくだったら魚を米と古着と交換する。

アリー塾長  :    そっかあ。Kくんにとってマンゴーやトウモロコシやバナナは、米や古着より
              価値がないんだ。 同じものでも人によって価値があったりなかったりするん
              だね。価値は人によって違うんだね。ほかにも同じものでも価値が違うって
              ことがある?

Yくん     :     災害のときは食料が貴重。

アリー塾長  :    そうだねえ、本当にそうだね。災害のときは食料の価値が高くなるよね。
              価値って、人によっても変わるけど、ときや場合によっても変わるんだね。
              そのほかにも、価値は場所によって変わるよ。国によって価値が変わるもの
              があるからね。
               
              みんなにとって価値があるものってなに?価値があることでもいいよ。

              (ちょっと古びた洋書のポップアップ絵本を見せて)
              
              私にとって価値のあるものはこれ。これは昔イギリスのロンドンから買って
              きた本。今、こういう本、ロンドンに行っても売ってないんだよ。だから価値が
              ある。

Yくん     :     …それから、その本には思い出がある。

アリー塾長  :    そうそう!だから、私にとって価値がある。みんなはどうかな?ものでは
              なくて、ことでもいいよ。

Rちゃん    :    生きてることには価値がある!

アリー塾長  :    生きてること!?それはいい答えだね!!Rちゃん、生きてることにはなん
              で価値があるの?
  
Rちゃん    :     生きてると、楽しいことやうれしいことがたくさんあるから!

アリー塾長  :     Rちゃん、生きてるって楽しい?

Rちゃん    :     うん!!

アリー塾長  :     それはすばらしいことだね。生きてるって価値があるんだね。あ、それか
               ら、みんなが生きてることに価値がある理由はほかにもあるよ。だって、み
               んなが生きてると喜ぶ人がいるでしょ?

Kくん      :     あ、いる!

アリー塾長  :     だれ?

Kくん      :     お母さん。


*アリー塾長の一言

 物々交換の話から「価値」について考えることとなりました。対話の中にも出てきたように、同じものでも、人によって、ときと場合によって、あるいは地域によって、その価値は変わります。ものだけではなく、あることの価値も同様にさまざまな条件で変動します。

 「生きていること」に価値を発見したのはすばらしいことでした。私も、まさかそんな答えが返ってくるとは予想していませんでした。
 
 実は、べつの生徒も、生きていることには価値があると思ったそうです。そしてそのことをお母さんに言ったところ、お母さんは、「生まれたら生きるのがあたりまえだから、それでは答えにならない」とおっしゃったそうです。

 ですが、あたりまえに生きるのは、もしかしたらそんなにあたりまえではないかもしれません。生きているといろいろなことがあるからです。最悪の場合、災難にあって、命を落としてしまうことすらあるからです。

 そう考えると、Rちゃんの「生きてることは楽しい!」という答えはすばらしい!せっかく生きているんだから、毎日、楽しいことやうれしいことをたくさん経験したいものです。

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