*その島に暮らす人たちは、週に一回、別の島で開かれる「交換の市」に行って、海でとっ た魚や貝を必要なものと交換します。
Yくん : バケツ5分の2くらいの魚を、マンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナのふ
さ4つと交換するって、なんか変じゃない?
アリー塾長 : ん?どういうこと?もしかして、魚バケツ5分の2って、少ないってこと?
Yくん : うん。バケツ5分の2って、ちょっとしかない。それなのに、マンゴー9個
とトウモロコシ10本とバナナのふさ4つって多いと思う。
アリー塾長 : いいところに気が付いたねえ。確かにそうだねえ。じゃあ、なんでだと思う?
Yくん : うーん?
アリー塾長 : 価値の問題じゃないかな?
Yくん : 価値?
アリー塾長 : そう、価値。バケツ5分の2の魚をマンゴー9個とトウモロコシ10本とバナナ
のふさ4つと交換した人にとっては、魚が貴重で価値があったんだよ。
だからたくさんの品物と交換したんだよ。価値のある貴重なものは高いじゃ
ない?宝石なんてあんなに小さいのにものすごく高いでしょ?
Kくん : ぼくはマンゴーもトウモロコシもバナナもいらない。だって好きじゃないもん。
ぼくだったら魚をマンゴーやトウモロコシやバナナとは交換しない。
アリー塾長 : Kくんにとって、マンゴーやトウモロコシやバナナは価値がないんだね?
Kくん : うん。ぼくだったら魚を米と古着と交換する。
アリー塾長 : そっかあ。Kくんにとってマンゴーやトウモロコシやバナナは、米や古着より
価値がないんだ。 同じものでも人によって価値があったりなかったりするん
だね。価値は人によって違うんだね。ほかにも同じものでも価値が違うって
ことがある?
Yくん : 災害のときは食料が貴重。
アリー塾長 : そうだねえ、本当にそうだね。災害のときは食料の価値が高くなるよね。
価値って、人によっても変わるけど、ときや場合によっても変わるんだね。
そのほかにも、価値は場所によって変わるよ。国によって価値が変わるもの
があるからね。
みんなにとって価値があるものってなに?価値があることでもいいよ。
(ちょっと古びた洋書のポップアップ絵本を見せて)
私にとって価値のあるものはこれ。これは昔イギリスのロンドンから買って
きた本。今、こういう本、ロンドンに行っても売ってないんだよ。だから価値が
ある。
Yくん : …それから、その本には思い出がある。
アリー塾長 : そうそう!だから、私にとって価値がある。みんなはどうかな?ものでは
なくて、ことでもいいよ。
Rちゃん : 生きてることには価値がある!
アリー塾長 : 生きてること!?それはいい答えだね!!Rちゃん、生きてることにはなん
で価値があるの?
Rちゃん : 生きてると、楽しいことやうれしいことがたくさんあるから!
アリー塾長 : Rちゃん、生きてるって楽しい?
Rちゃん : うん!!
アリー塾長 : それはすばらしいことだね。生きてるって価値があるんだね。あ、それか
ら、みんなが生きてることに価値がある理由はほかにもあるよ。だって、み
んなが生きてると喜ぶ人がいるでしょ?
Kくん : あ、いる!
アリー塾長 : だれ?
Kくん : お母さん。
*アリー塾長の一言
物々交換の話から「価値」について考えることとなりました。対話の中にも出てきたように、同じものでも、人によって、ときと場合によって、あるいは地域によって、その価値は変わります。ものだけではなく、あることの価値も同様にさまざまな条件で変動します。
「生きていること」に価値を発見したのはすばらしいことでした。私も、まさかそんな答えが返ってくるとは予想していませんでした。
実は、べつの生徒も、生きていることには価値があると思ったそうです。そしてそのことをお母さんに言ったところ、お母さんは、「生まれたら生きるのがあたりまえだから、それでは答えにならない」とおっしゃったそうです。
ですが、あたりまえに生きるのは、もしかしたらそんなにあたりまえではないかもしれません。生きているといろいろなことがあるからです。最悪の場合、災難にあって、命を落としてしまうことすらあるからです。
そう考えると、Rちゃんの「生きてることは楽しい!」という答えはすばらしい!せっかく生きているんだから、毎日、楽しいことやうれしいことをたくさん経験したいものです。
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「ことは塾」は、千葉県千葉市を拠点とした、対話型の国語(日本語)と作文の専門教室です。この未曾有の変化の時代に、自分で考え、意見を伝えられ、行動のできる人材を育てることを目的としています。このブログでは、実際のクラスで行われた対話の様子や、日ごろ気づいたことなどをつづっていきます。 日本人の母語である日本語は、日本文化特有の価値意識や思考形式そのものです。「ことは塾」は、その日本語をつかった「対話」によって、生徒の考えを引き出します。生徒は日本語の対話をとおして、自身の思考を深め、日本語で考え、日本語で表現していくことを学びます。 * 対話の中の「アリー塾長」は、ことは塾塾長もりいのニックネームです。
2015年3月21日土曜日
2015年2月5日木曜日
また会う日まで
二月です。受験シーズンです。毎日、毎日寒いのに、受験生は頑張っています。
受験の終わった生徒とはお別れです。○○くん、第一志望校合格、本当におめでとう!超難関校合格、本当に、本当に、よく頑張ったね!発表のときはものすごく緊張したんだってね。受かってて本当によかったね。お疲れ様でした。私も心からうれしいです。
○○くんは、私の理想の子ども像を体現したような子どもです。好奇心の塊で、なんでもおもしろいと言います。○○くんにかかったら、付箋紙もクリップもおもしろいのです。私にしてみれば、付箋紙なんかより、○○くんのほうがよっぽどおもしろいと思うのですが。
そんな調子で○○くんは、勉強していても、なんでもおもしろいと言ってくれました。辞書もおもしろい、言葉の由来もおもしろい、漢字の成り立ちもおもしろい、もちろん文章の内容もおもしろい、○○くんにとってはすべてがおもしろかったようなのです。
私はひそかに、○○くんはかならず第一志望校に合格すると思っていました。あんなになんでもおもしろいと言えたのは、勉強することを楽しめていた証拠です。そして、楽しく勉強できる子が、もっとも成果をあげることができると、私は信じているのです。○○くんのような子は、最強です。
もっとも、好奇心が旺盛なため、いろいろな方向に興味が散ってしまい、なかなか集中しないこともありました。でも、それこそが子どもの勉強なのかもしれません。子どもの勉強は、遊びとの境界線があいまいなのではないでしょうか。
私は、「試験が終わったら○○くんと会えなくなってさみしいな。」と言ってみました。○○くんは、「また、遊びに来てあげよっか?」と言ってくれました。ありがとう。でも、違うんだなあ。私は、小学校6年生の、今の○○くんとの別れを惜しんでいるんだなあ。
中学生の○○くんと会うのも、たぶん、すばらしいことには違いありません。でも、それはもう、今の○○くんではないのです。ボールペンやシャープペンシルを何本も分解したり、火遊びをしたりするのが大好きな○○くんではないのです。
そうしてみると、私たちは毎日、いろいろなものと少しずつお別れしているのかもしれません。自分を含めたすべてのものが、毎日少しずつ変わっていきます。今日の自分は明日には失われています。今日の自分と付き合えるのは、今日の自分だけなのです。
だからこそ、今のこの瞬間を大切にしなければいけないと思います。今のこの瞬間を大事にして、存分に味わって楽しむこと、そうすればよい思い出がきっとたくさんできることでしょう。
別れがあれば出会いがあります。昨日の自分に別れて今日の自分と出会ったように、また新しい生徒たちと私も出会いました。□□くん、○○ちゃん、今月からよろしくね。一緒に楽しく勉強しようね。
「また、先生のところに行ってもいい?月一回くらい。」「あれ?○○くん、また私のところに来てくれるの?もちろん、大歓迎だよ!」
実は、○○くんとはそんなやり取りもありました。○○くんの中学校は遠いから、前みたいには来られないかもしれないね。私はずっと待っているから、いつでも来られるときに来てね。そして、一段とパワーアップした中学生の○○くんの姿を、ぜひ私に見せてください。
http://www.ko-to-ha.com/
受験の終わった生徒とはお別れです。○○くん、第一志望校合格、本当におめでとう!超難関校合格、本当に、本当に、よく頑張ったね!発表のときはものすごく緊張したんだってね。受かってて本当によかったね。お疲れ様でした。私も心からうれしいです。
○○くんは、私の理想の子ども像を体現したような子どもです。好奇心の塊で、なんでもおもしろいと言います。○○くんにかかったら、付箋紙もクリップもおもしろいのです。私にしてみれば、付箋紙なんかより、○○くんのほうがよっぽどおもしろいと思うのですが。
そんな調子で○○くんは、勉強していても、なんでもおもしろいと言ってくれました。辞書もおもしろい、言葉の由来もおもしろい、漢字の成り立ちもおもしろい、もちろん文章の内容もおもしろい、○○くんにとってはすべてがおもしろかったようなのです。
私はひそかに、○○くんはかならず第一志望校に合格すると思っていました。あんなになんでもおもしろいと言えたのは、勉強することを楽しめていた証拠です。そして、楽しく勉強できる子が、もっとも成果をあげることができると、私は信じているのです。○○くんのような子は、最強です。
もっとも、好奇心が旺盛なため、いろいろな方向に興味が散ってしまい、なかなか集中しないこともありました。でも、それこそが子どもの勉強なのかもしれません。子どもの勉強は、遊びとの境界線があいまいなのではないでしょうか。
私は、「試験が終わったら○○くんと会えなくなってさみしいな。」と言ってみました。○○くんは、「また、遊びに来てあげよっか?」と言ってくれました。ありがとう。でも、違うんだなあ。私は、小学校6年生の、今の○○くんとの別れを惜しんでいるんだなあ。
中学生の○○くんと会うのも、たぶん、すばらしいことには違いありません。でも、それはもう、今の○○くんではないのです。ボールペンやシャープペンシルを何本も分解したり、火遊びをしたりするのが大好きな○○くんではないのです。
そうしてみると、私たちは毎日、いろいろなものと少しずつお別れしているのかもしれません。自分を含めたすべてのものが、毎日少しずつ変わっていきます。今日の自分は明日には失われています。今日の自分と付き合えるのは、今日の自分だけなのです。
だからこそ、今のこの瞬間を大切にしなければいけないと思います。今のこの瞬間を大事にして、存分に味わって楽しむこと、そうすればよい思い出がきっとたくさんできることでしょう。
別れがあれば出会いがあります。昨日の自分に別れて今日の自分と出会ったように、また新しい生徒たちと私も出会いました。□□くん、○○ちゃん、今月からよろしくね。一緒に楽しく勉強しようね。
「また、先生のところに行ってもいい?月一回くらい。」「あれ?○○くん、また私のところに来てくれるの?もちろん、大歓迎だよ!」
実は、○○くんとはそんなやり取りもありました。○○くんの中学校は遠いから、前みたいには来られないかもしれないね。私はずっと待っているから、いつでも来られるときに来てね。そして、一段とパワーアップした中学生の○○くんの姿を、ぜひ私に見せてください。
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2015年1月24日土曜日
「今、ここ」にあるということ
先日ある生徒に、こんな質問をしてみました。「勉強ってなんのためにするんだと思う?」これは卑怯な大人の質問です。案の定、彼女はこう言いました。「将来希望する職業につくため」。この生徒は中学一年生。すなおで、コツコツと一生懸命勉強するまじめな女の子です。
将来つきたい職業があるというのはすばらしいことです。そのような志をもって勉強するのは立派なことです。でも、そうやってする勉強はおもしろいかな?将来のことを考えながらする勉強って楽しい?勉強ってもともと、おもしろいものでも楽しいものでもないから仕方ない?それって本当ですか?
この女の子は、勉強に時間をかけているわりには結果が出ないということでした。そこで、勉強方法を見直すと同時に、勉強するってそもそもどういうこと?と徹底的に話し合うことにしました。女の子はまじめなので、教えられたことをすべて覚えなければならないと考えているようでした。勉強するって覚えることなのでしょうか?
勉強することの本質が覚えることだとすると、私はここまで長く勉強し続けてくることはできませんでした。覚えることが勉強だったなら、私にとってそれは難行苦行になってしまうからです。私が勉強し続けてこられたのはたぶん、勉強すること自体がおもしろかったからです。楽しかったから、やめられなかったということなのです。
勉強することの本質を、私は、知ること、考えること、分かることだと思います。これらの要素のすべてには感動がともないます。知ることはうれしい、考えることは楽しい、分かることは喜ばしい。それらは幸せな感情です。
ところが、もしも勉強とは覚えることで、しかも将来のためにやらなければならない義務だったとしたら、そのような幸せな感情とともに勉強することができるでしょうか?「~しなければならない」という義務観念は、気持ちを重たくしてしまいます。
勉強すること自体を楽しむためには、とりあえず将来のことは考えないで、「今、ここ」に集中するとよいのではないでしょうか?「今、ここ」で知ることがうれしい、「今、ここ」で考えることが楽しい、「今、ここ」で分かることが喜びだ、そんな感じです。
そうやって勉強すると心が動きますから、必然的にいろいろなことを覚えていきます。感動しながら知ったことは、忘れようとしても忘れることができません。「今、ここ」に集中して感動しながら学ぶと、結果的に、学んだことが知識として定着するのです。
このような勉強の仕方は、勉強する時間を充実させるということです。自分の「今、ここ」の時間を充実させるということです。それは大げさに言うと、自分の生を充実させるということにもつながります。「今、ここ」に集中すると、ワクワク・ドキドキしてきます。
「今、ここ」に集中する例としては、旅行することがあげられます。私たちは誰でも、旅先の土地に過去をもちません。いずれ住むことになる土地を下見に行ったのでもないかぎり、私たちの未来もそこにはありません。
旅先で私たちは、まさに「今、ここ」に生きることに集中します。今、見ている景色が美しい、今、味わっている料理がおいしい、今、感じている空気が心地よい、知識と五感を総動員して、私たちは旅を楽しみます。旅における過去とは、せいぜい昨日会った土地の人であり、未来とは、明日行く名所のことであるに過ぎません。
そうして私たちは、旅先で始終ワクワク・ドキドキしています。次に何に出合えるのか、誰と話ができるのか、何が起こるのか、そんな楽しい経験をするために、私たちは旅行するのです。
同様の経験は、ライブのエンターテインメントを観にいったときにできます。前もって撮り終わっている映画などを観るのとは違って、「今、ここ」で起こっていることに立ち会うことになるからです。「今、ここ」では、何事も起こりえます。役者が間違うことも、オーケストラのトランペットが裏返った音を出すこともあります。観客の協力も必須です。観客の一人が妨害などしたら、その舞台は台無しになってしまいます。
「今、ここ」の場ではそのように、一人一人に大きな責任があります。そんなことも、ワクワク・ドキドキの理由かもしれません。そうしてその場にいる全員で、知識と五感をとおして「今、ここ」にあることを楽しむのです。
「今、ここ」に集中して勉強すると、旅や観劇と同様に、ワクワク・ドキドキしながら学ぶことができます。そしてその結果、感動しながら覚えることができます。勉強は本来おもしろいものです。楽しくてやめられないものです。そのためには、過去や未来にとらわれず、「今、ここ」に集中することが大事なのではないでしょうか?
そしてそうやって勉強していった結果、知識が本当の意味で自分のものとなり、考える力が身について、将来の夢が実現するのだと、私は信じていいます。
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将来つきたい職業があるというのはすばらしいことです。そのような志をもって勉強するのは立派なことです。でも、そうやってする勉強はおもしろいかな?将来のことを考えながらする勉強って楽しい?勉強ってもともと、おもしろいものでも楽しいものでもないから仕方ない?それって本当ですか?
この女の子は、勉強に時間をかけているわりには結果が出ないということでした。そこで、勉強方法を見直すと同時に、勉強するってそもそもどういうこと?と徹底的に話し合うことにしました。女の子はまじめなので、教えられたことをすべて覚えなければならないと考えているようでした。勉強するって覚えることなのでしょうか?
勉強することの本質が覚えることだとすると、私はここまで長く勉強し続けてくることはできませんでした。覚えることが勉強だったなら、私にとってそれは難行苦行になってしまうからです。私が勉強し続けてこられたのはたぶん、勉強すること自体がおもしろかったからです。楽しかったから、やめられなかったということなのです。
勉強することの本質を、私は、知ること、考えること、分かることだと思います。これらの要素のすべてには感動がともないます。知ることはうれしい、考えることは楽しい、分かることは喜ばしい。それらは幸せな感情です。
ところが、もしも勉強とは覚えることで、しかも将来のためにやらなければならない義務だったとしたら、そのような幸せな感情とともに勉強することができるでしょうか?「~しなければならない」という義務観念は、気持ちを重たくしてしまいます。
勉強すること自体を楽しむためには、とりあえず将来のことは考えないで、「今、ここ」に集中するとよいのではないでしょうか?「今、ここ」で知ることがうれしい、「今、ここ」で考えることが楽しい、「今、ここ」で分かることが喜びだ、そんな感じです。
そうやって勉強すると心が動きますから、必然的にいろいろなことを覚えていきます。感動しながら知ったことは、忘れようとしても忘れることができません。「今、ここ」に集中して感動しながら学ぶと、結果的に、学んだことが知識として定着するのです。
このような勉強の仕方は、勉強する時間を充実させるということです。自分の「今、ここ」の時間を充実させるということです。それは大げさに言うと、自分の生を充実させるということにもつながります。「今、ここ」に集中すると、ワクワク・ドキドキしてきます。
「今、ここ」に集中する例としては、旅行することがあげられます。私たちは誰でも、旅先の土地に過去をもちません。いずれ住むことになる土地を下見に行ったのでもないかぎり、私たちの未来もそこにはありません。
旅先で私たちは、まさに「今、ここ」に生きることに集中します。今、見ている景色が美しい、今、味わっている料理がおいしい、今、感じている空気が心地よい、知識と五感を総動員して、私たちは旅を楽しみます。旅における過去とは、せいぜい昨日会った土地の人であり、未来とは、明日行く名所のことであるに過ぎません。
そうして私たちは、旅先で始終ワクワク・ドキドキしています。次に何に出合えるのか、誰と話ができるのか、何が起こるのか、そんな楽しい経験をするために、私たちは旅行するのです。
同様の経験は、ライブのエンターテインメントを観にいったときにできます。前もって撮り終わっている映画などを観るのとは違って、「今、ここ」で起こっていることに立ち会うことになるからです。「今、ここ」では、何事も起こりえます。役者が間違うことも、オーケストラのトランペットが裏返った音を出すこともあります。観客の協力も必須です。観客の一人が妨害などしたら、その舞台は台無しになってしまいます。
「今、ここ」の場ではそのように、一人一人に大きな責任があります。そんなことも、ワクワク・ドキドキの理由かもしれません。そうしてその場にいる全員で、知識と五感をとおして「今、ここ」にあることを楽しむのです。
「今、ここ」に集中して勉強すると、旅や観劇と同様に、ワクワク・ドキドキしながら学ぶことができます。そしてその結果、感動しながら覚えることができます。勉強は本来おもしろいものです。楽しくてやめられないものです。そのためには、過去や未来にとらわれず、「今、ここ」に集中することが大事なのではないでしょうか?
そしてそうやって勉強していった結果、知識が本当の意味で自分のものとなり、考える力が身について、将来の夢が実現するのだと、私は信じていいます。
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2014年11月25日火曜日
どっちもいい!
* 引き続き南の島の人々のくらしについて学んでいます。(島はフィリピンにあります。)
アリー塾長 : 今日は、島の子どもたちの生活についてみていこうね。島には小学校があ
るよ。あ、島の小学校では1年生から英語の勉強を始めるんだって。だか
ら6年生になると、みんな英語が話せるようになるんだって。すごいね。
生徒たち : (うなずきます。)
アリー塾長 : お昼休みにはみんな家にもどってご飯を食べてくるんだって。給食がない
んだね。どう?みんなもそうしたい?
女の子 : そうしたい。だって、うちで食べれば、嫌いなものを食べなくていいから。
アリー塾長 : ○○ちゃんはお魚が嫌いだったっけ?
男の子 : ぼくもうちで食べたい。ゆっくりできるから。
アリー塾長 : 学校では給食をゆっくり食べられないのかな?
アリー塾長 : 島の子どもたちは学校が終わると、みんなで集まって遊ぶんだね。いろ
いろな遊びをしてるみたいだね。木登りをしたり、縄跳びをしたり、生きも
のを捕まえたり、砂浜の砂を掘ったり、ままごともしてるね。みんなと同じ
だね。
女の子 : ゲームしてない。
アリー塾長 : あ、ゲーム!確かにしてないね。○○ちゃん、ゲーム好き?
女の子 : (うなずきます。)
アリー塾長 : 島の子どもたちは家の手伝いをよくするみたいだね。小さい子どもの面
倒をみたり、料理の火をおこしたり、水くみや洗濯をしたり。島には水道も
ないし、ガスもないんだね。火をおこすって大変そうだね。
男の子 : 火をおこすやり方を教えてもらったことがある!
アリー塾長 : ○○くん、やってみた?
男の子 : やらなかったけど、大変そうだった。
アリー塾長 : 島のくらしは自給自足だって。自給自足ってわかる?
女の子 : 食べるものとかを全部自分で作ったりとったりすること。
アリー塾長 : そうだねえ。くらしに必要なものを全部自分たちで用意することだね。
この島は海に囲まれているし、一年中夏だから、食べるものはいつも
あるのかもしれないね。一年中夏ってどう?
女の子 : いやだ!雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○ちゃんは雪で遊ぶのが好きだもんねえ。夏ばかりで冬がないと雪が
降らないもんね。
アリー塾長 : 私たちの住んでる日本には春と夏と秋と冬があるよね。こういうのなん
て言ったっけ?
女の子 : 四季。
アリー塾長 : そうそう、四季!日本には四季があるけど、この島にはないよね?夏
ばっかりだ。どっちがいいと思う?この島に住みたい?
女の子 : 住みたくない!だって、冬がないと雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○くんは?
男の子 : うーん、…。うーん、…。どっちもいい!どっちも楽しいことがあるから。
* 女の子の作文の一部です。
わたしは、フィリピンの人に少しなってみたいです。なぜなら、みんなでいっぱいあそべるからです。でも、あまりなりたくないです。なぜなら、さかなは好きじゃないし、台風の時は、大変だし、あめもあびたくないからです。
(中略)
でももしこの国の人だったら、たぶんみんなといっぱいあそんだり、台風のときもそうして(い)ると思います。
* 男の子の作文の一部です。
ぼくはこのところ(この島)のくらしがいいなと思いました。木のぼりや(、)魚などをつかまえることができて、楽しそうだと思ったからです。でも、日本のくらしも春夏秋冬がありいいなと思いました。
(中略)
家の家事(原文のまま表記しています。)をするのも楽しそうだと思いました。とくに火をおこすのが楽しそうです。いつも家の手伝いをしてひまはないので(、)つまらない時はないし(、)いいなと思いました。あらしがきたとき家のやねやかべがこわれてしまうので直すのが大変です。でも直すのが楽しそうです。ぼくがいちばん楽しそうだと思ったことは魚をとることと、食べることです。とるのは楽しいし、いろいろな種類の魚を食べ(ら)れてあきないなと思いました。いつかこの島にいってみたいです。
* アリー塾長の一言
男の子の作文には、「楽しそう」、「楽しい」という言葉が6回も出てきます。彼の言うとおり、南の島でのくらしは本当に楽しそうです。毎日楽しくくらすというのはとても幸せなことです。島の人たちは幸せなんだろうなあと思います。
それから、対話の中で、男の子は、四季のある日本のくらしも、夏だけの南の島のくらしも、「どっちもいい!」と言っていました。四季それぞれの季節を楽しめる日本と、エネルギッシュな暑い気候を一年中楽しめる南の島。どちらのくらしにもそれぞれのよさがあります。「どっちもいい!」というのは、まさに、「文化相対主義」の根幹にある考えです。
女の子は、魚が嫌いだったり雪が好きだったりという個人的な理由で、南の島ではあんまりくらしたくないようです。でも、そこに生まれたら、そこの人のようにくらすだろうとも言っています。島の子どもになって、「みんなといっぱいあそ」ぶのはきっと楽しいことでしょう。
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アリー塾長 : 今日は、島の子どもたちの生活についてみていこうね。島には小学校があ
るよ。あ、島の小学校では1年生から英語の勉強を始めるんだって。だか
ら6年生になると、みんな英語が話せるようになるんだって。すごいね。
生徒たち : (うなずきます。)
アリー塾長 : お昼休みにはみんな家にもどってご飯を食べてくるんだって。給食がない
んだね。どう?みんなもそうしたい?
女の子 : そうしたい。だって、うちで食べれば、嫌いなものを食べなくていいから。
アリー塾長 : ○○ちゃんはお魚が嫌いだったっけ?
男の子 : ぼくもうちで食べたい。ゆっくりできるから。
アリー塾長 : 学校では給食をゆっくり食べられないのかな?
アリー塾長 : 島の子どもたちは学校が終わると、みんなで集まって遊ぶんだね。いろ
いろな遊びをしてるみたいだね。木登りをしたり、縄跳びをしたり、生きも
のを捕まえたり、砂浜の砂を掘ったり、ままごともしてるね。みんなと同じ
だね。
女の子 : ゲームしてない。
アリー塾長 : あ、ゲーム!確かにしてないね。○○ちゃん、ゲーム好き?
女の子 : (うなずきます。)
アリー塾長 : 島の子どもたちは家の手伝いをよくするみたいだね。小さい子どもの面
倒をみたり、料理の火をおこしたり、水くみや洗濯をしたり。島には水道も
ないし、ガスもないんだね。火をおこすって大変そうだね。
男の子 : 火をおこすやり方を教えてもらったことがある!
アリー塾長 : ○○くん、やってみた?
男の子 : やらなかったけど、大変そうだった。
アリー塾長 : 島のくらしは自給自足だって。自給自足ってわかる?
女の子 : 食べるものとかを全部自分で作ったりとったりすること。
アリー塾長 : そうだねえ。くらしに必要なものを全部自分たちで用意することだね。
この島は海に囲まれているし、一年中夏だから、食べるものはいつも
あるのかもしれないね。一年中夏ってどう?
女の子 : いやだ!雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○ちゃんは雪で遊ぶのが好きだもんねえ。夏ばかりで冬がないと雪が
降らないもんね。
アリー塾長 : 私たちの住んでる日本には春と夏と秋と冬があるよね。こういうのなん
て言ったっけ?
女の子 : 四季。
アリー塾長 : そうそう、四季!日本には四季があるけど、この島にはないよね?夏
ばっかりだ。どっちがいいと思う?この島に住みたい?
女の子 : 住みたくない!だって、冬がないと雪で遊べない!
アリー塾長 : ○○くんは?
男の子 : うーん、…。うーん、…。どっちもいい!どっちも楽しいことがあるから。
* 女の子の作文の一部です。
わたしは、フィリピンの人に少しなってみたいです。なぜなら、みんなでいっぱいあそべるからです。でも、あまりなりたくないです。なぜなら、さかなは好きじゃないし、台風の時は、大変だし、あめもあびたくないからです。
(中略)
でももしこの国の人だったら、たぶんみんなといっぱいあそんだり、台風のときもそうして(い)ると思います。
* 男の子の作文の一部です。
ぼくはこのところ(この島)のくらしがいいなと思いました。木のぼりや(、)魚などをつかまえることができて、楽しそうだと思ったからです。でも、日本のくらしも春夏秋冬がありいいなと思いました。
(中略)
家の家事(原文のまま表記しています。)をするのも楽しそうだと思いました。とくに火をおこすのが楽しそうです。いつも家の手伝いをしてひまはないので(、)つまらない時はないし(、)いいなと思いました。あらしがきたとき家のやねやかべがこわれてしまうので直すのが大変です。でも直すのが楽しそうです。ぼくがいちばん楽しそうだと思ったことは魚をとることと、食べることです。とるのは楽しいし、いろいろな種類の魚を食べ(ら)れてあきないなと思いました。いつかこの島にいってみたいです。
* アリー塾長の一言
男の子の作文には、「楽しそう」、「楽しい」という言葉が6回も出てきます。彼の言うとおり、南の島でのくらしは本当に楽しそうです。毎日楽しくくらすというのはとても幸せなことです。島の人たちは幸せなんだろうなあと思います。
それから、対話の中で、男の子は、四季のある日本のくらしも、夏だけの南の島のくらしも、「どっちもいい!」と言っていました。四季それぞれの季節を楽しめる日本と、エネルギッシュな暑い気候を一年中楽しめる南の島。どちらのくらしにもそれぞれのよさがあります。「どっちもいい!」というのは、まさに、「文化相対主義」の根幹にある考えです。
女の子は、魚が嫌いだったり雪が好きだったりという個人的な理由で、南の島ではあんまりくらしたくないようです。でも、そこに生まれたら、そこの人のようにくらすだろうとも言っています。島の子どもになって、「みんなといっぱいあそ」ぶのはきっと楽しいことでしょう。
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2014年11月7日金曜日
『赤毛のアン』に学ぶ、かわいそうな人にならない方法
以前、邪悪なオーラをまとわないためには、かわいそうな人にならなければいいと書きました。今回は、それでは、かわいそうな人にならないようにするにはどうしたらよいのか考えてみます。
「死刑囚の中に、こんなに恵まれた環境で育って、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと思うような人物は一人もいなかった。」
法務大臣を経験したある政治家さんが、このように言っていたそうです。この言葉は、死刑囚のような、人を傷つける邪悪な人物はみんな、かわいそうな子ども時代をおくっていたということをあらわしているかもしれません。
トルストイではありませんが、幸福な家庭はどこも似通っているけれど、不幸な家庭は様々です。経済的に恵まれていなかったり、難しい家族と暮らしていたりと、いろいろな事情が考えられます。問題が表面化しないだけで、かわいそうな子どもというのは、案外たくさんいるのではないでしょうか?
かわいそうな人は邪悪なオーラをもっています。かわいそうな子どもは、やがてかわいそうな人になって、人を傷つけるという最悪のことをしてしまう場合さえあります。邪悪なオーラをもたないために、かわいそうな子ども、かわいそうな人にはならないようにしなければなりません。
さて、ここに大変よいお手本があります。『赤毛のアン(L・M・モンゴメリー作)』のアンです。ご存知のように、アンは赤ちゃんのときに両親が死んで、知り合いのうちを転々としたのち、孤児院に入れられ、その後、グリーンゲイブルスに引き取られました。
アンは典型的なかわいそうな子どもでした。でも、『赤毛のアン』を読んだ人ならだれでも、アンには邪悪なオーラなんてなかったと言うでしょう。私もアンには、邪悪なオーラの存在をみじんも感じません。人が見たらかわいそうなアンは、かわいそうな子どもではなかったようなのです。
アンをもっともアンらしくしていたのは、「想像力」です。アンはつらい境遇の中、「想像力」を発揮して、その状況を楽しみます。ガラスの扉に写った自分の姿を、友達になぞらえて話しかけてみたり、自分の着ている粗末な服を、美しい絹の服だと「想像」してみたり。「想像」することによって、アンは楽しく幸せな気分になることができたのです。
アンは自然の美しさを楽しむのも天才的です。白い花が満開のリンゴ並木に「雪の女王様」と名付けて、アンはうっとり見とれます。また教会の窓から見えるきらめく池の面には見飽きることがありません。美しい自然を与えてくれた神様に、アンは深く感謝します。そして、そのようなアンの感性や、中でもアンの最高の持ちものである「想像力」は、やがてまわりの人々をも魅了していきます。
もっとも、アンにも自分の境遇を嘆くことはあります。初めてグリーンゲイブルスに来たとき、男の子じゃないからいらないと言われ、アンは大きな声を出して泣き、悲しみます。でも嘆くだけ嘆いたあと、アンは静かに自分の運命を受け容れます。
運命を受け容れたあとで、アンはだれを恨むでも、何を呪うでもなく、「想像力」を友として、再び生きることを楽しもうとします。そのまま孤児院へ帰されることになるかもしれない馬車でのドライブの途中で、アンは、「私、このドライブを楽しむことにするわ!」と言って、マリラを驚かせるのです。
そんなアンはかわいそうな子どもでしょうか?アンはかわいそうな子どもではありません。なぜならば、アン自身が自分のことをかわいそうだと思っていないからです。かわいそうな自分の運命をひとたび受け容れたなら、もう自分のことをかわいそうだと思う必要はありません。木々や草花は美しいし、「想像力」を駆使すれば、世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるのですから。
このようにアンからは、かわいそうな人にならない優れた方法を学ぶことができます。アンの物語は、かわいそうな人にならないためにはまず、かわいそうな自分の運命を充分嘆き、受け容れることが必要だと言っています。そしてその後は、「想像力」を使ってでも、美しいものに感動し、生きることを楽しむことが大事だとおしえてくれます。
アンは持ち前の「想像力」で、厳しい境遇の下、いつも幸せな気分でいることができました。アンの幸せな気分は、人を惹きつけ、いずれみんなを幸せな気分にしていきます。その結果、アンは「想像力」を使わなくても本当に幸せな少女になっていきます。
アンは憧れのふくらんだ袖の服が欲しくて、ふくらんだ袖の服を着ている自分をいつも「想像」していました。すると、ある年のクリスマスに、マシューが美しいふくらんだ袖の服をプレゼントしてくれます。「想像」とはこのように、いずれ現実のものとなるすばらしい夢の集積のことを言うものなのかもしれません。
* L・M・モンゴメリー著、村岡花子訳、『赤毛のアン』、新潮文庫ほか。
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「死刑囚の中に、こんなに恵まれた環境で育って、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと思うような人物は一人もいなかった。」
法務大臣を経験したある政治家さんが、このように言っていたそうです。この言葉は、死刑囚のような、人を傷つける邪悪な人物はみんな、かわいそうな子ども時代をおくっていたということをあらわしているかもしれません。
トルストイではありませんが、幸福な家庭はどこも似通っているけれど、不幸な家庭は様々です。経済的に恵まれていなかったり、難しい家族と暮らしていたりと、いろいろな事情が考えられます。問題が表面化しないだけで、かわいそうな子どもというのは、案外たくさんいるのではないでしょうか?
かわいそうな人は邪悪なオーラをもっています。かわいそうな子どもは、やがてかわいそうな人になって、人を傷つけるという最悪のことをしてしまう場合さえあります。邪悪なオーラをもたないために、かわいそうな子ども、かわいそうな人にはならないようにしなければなりません。
さて、ここに大変よいお手本があります。『赤毛のアン(L・M・モンゴメリー作)』のアンです。ご存知のように、アンは赤ちゃんのときに両親が死んで、知り合いのうちを転々としたのち、孤児院に入れられ、その後、グリーンゲイブルスに引き取られました。
アンは典型的なかわいそうな子どもでした。でも、『赤毛のアン』を読んだ人ならだれでも、アンには邪悪なオーラなんてなかったと言うでしょう。私もアンには、邪悪なオーラの存在をみじんも感じません。人が見たらかわいそうなアンは、かわいそうな子どもではなかったようなのです。
アンをもっともアンらしくしていたのは、「想像力」です。アンはつらい境遇の中、「想像力」を発揮して、その状況を楽しみます。ガラスの扉に写った自分の姿を、友達になぞらえて話しかけてみたり、自分の着ている粗末な服を、美しい絹の服だと「想像」してみたり。「想像」することによって、アンは楽しく幸せな気分になることができたのです。
アンは自然の美しさを楽しむのも天才的です。白い花が満開のリンゴ並木に「雪の女王様」と名付けて、アンはうっとり見とれます。また教会の窓から見えるきらめく池の面には見飽きることがありません。美しい自然を与えてくれた神様に、アンは深く感謝します。そして、そのようなアンの感性や、中でもアンの最高の持ちものである「想像力」は、やがてまわりの人々をも魅了していきます。
もっとも、アンにも自分の境遇を嘆くことはあります。初めてグリーンゲイブルスに来たとき、男の子じゃないからいらないと言われ、アンは大きな声を出して泣き、悲しみます。でも嘆くだけ嘆いたあと、アンは静かに自分の運命を受け容れます。
運命を受け容れたあとで、アンはだれを恨むでも、何を呪うでもなく、「想像力」を友として、再び生きることを楽しもうとします。そのまま孤児院へ帰されることになるかもしれない馬車でのドライブの途中で、アンは、「私、このドライブを楽しむことにするわ!」と言って、マリラを驚かせるのです。
そんなアンはかわいそうな子どもでしょうか?アンはかわいそうな子どもではありません。なぜならば、アン自身が自分のことをかわいそうだと思っていないからです。かわいそうな自分の運命をひとたび受け容れたなら、もう自分のことをかわいそうだと思う必要はありません。木々や草花は美しいし、「想像力」を駆使すれば、世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるのですから。
このようにアンからは、かわいそうな人にならない優れた方法を学ぶことができます。アンの物語は、かわいそうな人にならないためにはまず、かわいそうな自分の運命を充分嘆き、受け容れることが必要だと言っています。そしてその後は、「想像力」を使ってでも、美しいものに感動し、生きることを楽しむことが大事だとおしえてくれます。
アンは持ち前の「想像力」で、厳しい境遇の下、いつも幸せな気分でいることができました。アンの幸せな気分は、人を惹きつけ、いずれみんなを幸せな気分にしていきます。その結果、アンは「想像力」を使わなくても本当に幸せな少女になっていきます。
アンは憧れのふくらんだ袖の服が欲しくて、ふくらんだ袖の服を着ている自分をいつも「想像」していました。すると、ある年のクリスマスに、マシューが美しいふくらんだ袖の服をプレゼントしてくれます。「想像」とはこのように、いずれ現実のものとなるすばらしい夢の集積のことを言うものなのかもしれません。
* L・M・モンゴメリー著、村岡花子訳、『赤毛のアン』、新潮文庫ほか。
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2014年10月18日土曜日
文化ってなに?
* 小さな南の島の人たちのくらしについて学び始めました。島の人たちは、私たち日本人とは異なった文化をもっています。
アリー塾長 : 「文化」って言葉を知ってる?
生徒たち : (うなずきます。)
アリー塾長 : じゃあ、「文化」ってなに?説明できるかな?
男の子 : えっと…、なにか、その国だけにあるもの…。
アリー塾長 : ああ、そうだねえ、まずはそんな感じでいいかな?じゃあ、どんなものが「文
化」だと思う?なにか、具体的なものをあげられる?
男の子 : 和食…。
アリー塾長 : ああ、いいねえ。そうだねえ。それは「文化」だねえ。ほかにはないかな?
女の子 : 着物?
アリー塾長 : あ、そうそう、それもりっぱな「文化」だね。ほかは?まだまだたくさんあるよ。
女の子 : お正月にやるバドミントンみたいなやつ…。
アリー塾長 : ああ、羽根つき?そうだねえ、それも「文化」だ。羽根つき、凧揚げ、コマ回
し、遊びはみんな「文化」だよ。
ほかにはもう出てこないかな?「文化」たくさんあるよ。ほら、これも「文化」
だ。(畳を指さして、)畳!これも「文化」。
(正座して、)それからこれも「文化」、正座!(そのままおじぎして、)これも
「文化」。日本人はこうやってあいさつするけど、違う国の人はこういうあいさ
つをしないよ。
衣食住、着るもの、食べるもの、住むところ、すべてが「文化」。それから、い
ろいろな決まりや規則、お祭りなんかも「文化」。言葉ももちろん「文化」だ
よ。
じゃあ、辞書で、「文化」っていう言葉を調べてみよう!
* 「文化」の意味は、みんなの小学生用の辞書には簡単にまとめられていました。大人用の辞書にはもう少し詳しく書いてあります。たとえば三省堂の『大辞林』には次のように書かれています。
① 社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低、優劣の差はないとされる。
② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神活動から生み出されたもの。
* アリー塾長の一言
私にとって、「文化」という言葉はすべての言葉の中でも、もっとも興味深い言葉の一つです。「文化」が、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」だとすれば、「文化」とは、人間が生きていくためにするすべての工夫のことではないでしょうか?「文化」は、人間の生き方すべてにかかわっているものなのです。
そうであるとするならば、「文化」は、人間が幸せに生きていくための助けであってほしいと思います。『大辞林』の解説にもあったように、「文化相対主義」は、個別文化の間に高低、優劣はみとめず、すべての文化を尊重します。ですが、そのような個別文化の中には、その文化圏に生まれた人をかならずしも幸せにしないようなものもあるのです。
現在でもアフリカの一部地域などに残っている女子の割礼が、そのような「文化」の一例です。女子の割礼は、割礼を受ける思春期の少女の人権を侵害するだけでなく、劣悪な衛生環境下でおこなわれるため、健康被害を引き起こし、ときには施術を受ける少女の命を奪うことさえあるそうです。
この女子の割礼については以前から問題視がされており、当事者の女性が声をあげるなどして、反対活動もおこなわれています。しかし、その地域の一部の人々は、割礼は「文化」であり、伝統であるとして、廃止するわけにはいかないというのです。
同様に、私たちの「文化」の中にも、私たちを幸せにしてくれないものがあるかもしれません。「文化」は、生まれた時から私たちの周囲にあり、当然のこととして私たちの生活になじんでいます。ですから、そのような「文化」を疑うことはとても難しいのですが、時々問い直してみる価値はあるのではないでしょうか?
「文化相対主義」自体に問題はありません。すべての個人が尊重されるのと同様に、すべての個別文化は尊重されるべきです。けれども、尊重される「文化」が人間を幸せにする「文化」であったなら、もっともっといいなあと私は思うのです。
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アリー塾長 : 「文化」って言葉を知ってる?
生徒たち : (うなずきます。)
アリー塾長 : じゃあ、「文化」ってなに?説明できるかな?
男の子 : えっと…、なにか、その国だけにあるもの…。
アリー塾長 : ああ、そうだねえ、まずはそんな感じでいいかな?じゃあ、どんなものが「文
化」だと思う?なにか、具体的なものをあげられる?
男の子 : 和食…。
アリー塾長 : ああ、いいねえ。そうだねえ。それは「文化」だねえ。ほかにはないかな?
女の子 : 着物?
アリー塾長 : あ、そうそう、それもりっぱな「文化」だね。ほかは?まだまだたくさんあるよ。
女の子 : お正月にやるバドミントンみたいなやつ…。
アリー塾長 : ああ、羽根つき?そうだねえ、それも「文化」だ。羽根つき、凧揚げ、コマ回
し、遊びはみんな「文化」だよ。
ほかにはもう出てこないかな?「文化」たくさんあるよ。ほら、これも「文化」
だ。(畳を指さして、)畳!これも「文化」。
(正座して、)それからこれも「文化」、正座!(そのままおじぎして、)これも
「文化」。日本人はこうやってあいさつするけど、違う国の人はこういうあいさ
つをしないよ。
衣食住、着るもの、食べるもの、住むところ、すべてが「文化」。それから、い
ろいろな決まりや規則、お祭りなんかも「文化」。言葉ももちろん「文化」だ
よ。
じゃあ、辞書で、「文化」っていう言葉を調べてみよう!
* 「文化」の意味は、みんなの小学生用の辞書には簡単にまとめられていました。大人用の辞書にはもう少し詳しく書いてあります。たとえば三省堂の『大辞林』には次のように書かれています。
① 社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低、優劣の差はないとされる。
② 学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神活動から生み出されたもの。
* アリー塾長の一言
私にとって、「文化」という言葉はすべての言葉の中でも、もっとも興味深い言葉の一つです。「文化」が、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」だとすれば、「文化」とは、人間が生きていくためにするすべての工夫のことではないでしょうか?「文化」は、人間の生き方すべてにかかわっているものなのです。
そうであるとするならば、「文化」は、人間が幸せに生きていくための助けであってほしいと思います。『大辞林』の解説にもあったように、「文化相対主義」は、個別文化の間に高低、優劣はみとめず、すべての文化を尊重します。ですが、そのような個別文化の中には、その文化圏に生まれた人をかならずしも幸せにしないようなものもあるのです。
現在でもアフリカの一部地域などに残っている女子の割礼が、そのような「文化」の一例です。女子の割礼は、割礼を受ける思春期の少女の人権を侵害するだけでなく、劣悪な衛生環境下でおこなわれるため、健康被害を引き起こし、ときには施術を受ける少女の命を奪うことさえあるそうです。
この女子の割礼については以前から問題視がされており、当事者の女性が声をあげるなどして、反対活動もおこなわれています。しかし、その地域の一部の人々は、割礼は「文化」であり、伝統であるとして、廃止するわけにはいかないというのです。
同様に、私たちの「文化」の中にも、私たちを幸せにしてくれないものがあるかもしれません。「文化」は、生まれた時から私たちの周囲にあり、当然のこととして私たちの生活になじんでいます。ですから、そのような「文化」を疑うことはとても難しいのですが、時々問い直してみる価値はあるのではないでしょうか?
「文化相対主義」自体に問題はありません。すべての個人が尊重されるのと同様に、すべての個別文化は尊重されるべきです。けれども、尊重される「文化」が人間を幸せにする「文化」であったなら、もっともっといいなあと私は思うのです。
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2014年10月6日月曜日
邪悪な心
写真は「イーブル(Evil)」の像です。ロンドンのウエストミンスター寺院の売店で買ってきました。「イーブル」の意味は「邪悪な」です。theをつけて、「悪魔」という意味もあります。
先月の毎日新聞に、おそろしく鋭い、こんな詩が載っていました。
びんぼう神
くらとんぼ
ぼくはいつも
かわいそうな人をみているんです
みていると
ぼくはかわいそうな人から
じゃあくなオーラをかんじます
ぼくにもじゃあくなオーラ
があります
きっときみにもかわいそうなとき
じゃあくなオーラがあります
「フフフ」しつれいしました
作者は、佐賀県鹿島市・明倫小学校5年の一ノ瀬祐太くんです。
この詩を読んだとき、私はびっくりしました。どうしてこんなすごい真理を、これだけ簡潔に、あますところなく表現できるのでしょう?
そうです。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうな人」にあるのです。「じゃあくなオーラ」は、その人が「かわいそうなとき」にあるのです。
新聞記事の講評には、「人間には、やさしい気持ちとじゃ悪な気持ちが二つともある」、「でも人間だからじゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」とあります。これは大人が書いた意見です。でも、ほんとうでしょうか?
「くらとんぼ」さんは、「じゃあくなオーラ」が、いつでも、誰にでもあるとは言っていません。「じゃあくなオーラ」は、「かわいそうなとき」、「かわいそうな人」にあると言っているのです。
ではどうして「かわいそうな人」、「かわいそうなとき」には「じゃあくなオーラ」があるのでしょう?
「かわいそうな人」は「かわいそうなとき」、「どうして自分だけこんなひどい目にあわなきゃいけないんだ!」と神様に文句を言ったりします。「世の中は不公平だ」と、まわりの人にあたったりもします。「誰もわかってくれない、誰も助けてくれない」と言って、人を恨んだりします。そんな人には確かに、「じゃあくなオーラ」が満載です。
一方、「かわいそうな人」の中には我慢をする人がいます。つらかったり悲しかったりしているときに、つらいとも悲しいとも言わず、そんな状況にじっと耐えて、明るく親切にふるまったりします。自分のことはさておいて、人にはやさしくしないといけないと思っているのです。そんな人には一見「じゃあくなオーラ」はないように見えます。
でも実は、文句を言っても我慢をしても、結果は同じです。どっちの人にも「じゃあくなオーラ」があるのです。
残念ながら、「かわいそうな人」は誰でも、自分の不幸を見つめているうちに、ほかの人たちの幸運がうらやましくなります。うらやましいだけでなく、妬ましくなります。そうして怒りがわいてきて、ほかの人たちも不幸になればいいと思い始めるのです。
文句を言っても我慢をしても、「かわいそうな人」にはものすごい怒りがたまっています。「かわいそうな人」は怒りから、自分以外の人たちの不幸も願うようになっていくのです。我慢をする人は、「自分はそんなことはない」と言うかもしれませんが、やっぱり、「自分が不幸なら、みんな不幸であってほしい」と心のどこかで思っています。そうして「じゃあくなオーラ」を放つのです。
だから、新聞の講評にあった、「じゃ悪な気持ちを抑えてやさしい気持ちばかりになれる」というのは違うのではないかと思います。少なくとも、「じゃ悪な気持ちを抑え」ることは根本的な解決にはなりません。「じゃあくなオーラ」を放たないためには、「かわいそうなとき」に、「かわいそうな人」にならないことしかないのです。
「かわいそうなとき」に「かわいそうな人」にならないためには、工夫が必要です。それは場合によってはそんなに簡単なことではないかもしれません。でも、それができる人は確かにいます。私もそんな人たちを見て、「かわいそうな人」にならない方法を学びたいと思っています。人のものであろうと自分のものであろうと、「じゃあくなオーラ」なんてまっぴらですから。
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